2007/8/10 | 全国学校事故事件を語る会の文科省訪問と、教師によるしっ責自殺ゼロについて | |
2007年8月10日、 「全国学校事故事件を語る会」(内海千春代表)の方たちが、前回(2006年12月12日)提出した請願書に対する質問書を携えて、文部科学省を訪れ、私も同行させていただいた。 前回の請願内容は (1)学校・教育委員会が事実を明らかにするように、迅速且つ公正に事実関係を究明するための独立した第三者機関を設置する等、具体的な施策を検討し実施すること。 (2)学校が、当事者や遺族等の気持ちに十分な配慮をして対応するとともに、有する全ての情報を速やかに当事者や遺族等に伝えるよう指導すること。 (3)文部科学省は、学校事故(事件)について、学校・教育委員会が事実を明らかにしているか検証するために、年に1回その実態を当事者・遺族等から聴く会を開催すること。 この主に3つの請願事項について、その後、どのような検討をされ、どのような結果となったのかを、質問書と面談をもって問うた。 なお、第三者機関については、ただ設置すればよいというものではなく、第三者委員会がむしろ事実の隠蔽に手を貸したといわざるを得ないような例をあげて、その設置条件として、次の6つの事項をあげた。 (1)教育関係機関はじめ全ての行政機関から独立し、調査活動の家庭およびその結論の提起においていかなる指示命令にも服さずその機能を行使できること。 (2)第三者機関の調査廃ったは、教育、心理、法律、医療など事案に応じた各分野の専門家を配置し、かつその選任は公正。適正に(例えば法律家については弁護士の推薦)行われること。 (3)調査にあたり、調査対象者・機関に対して聴取に応じさせ、資料の開示・提供を義務付けるなどの強制力ないしはこれに順ずる権限を有すること。 (4)私立学校も含めあらゆる学校事故・事件について前項の権限をもって調査活等を行うことが可能であること。 (5)調査過程および調査結果確定過程に当事者又は事件・事故の遺族の参加を認め、その意見が反映されるようにすること。 (6)プライバシーに配慮しつつ調査結果を公開すること。 これらは私たちが今年5月25日に、国をはじめ、文部科学省、各政党あてに提出した「当事者と親の知る権利」を認めてほしいという内容の要望書(「知る権利」参照)にも通じる。 実際、 「全国学校事故事件を語る会」の方たちの多くが賛同者としてこのときも名前を連ねてくれた。訪問先の都合上、人数を絞らざるをえなかったが、何人かの方たちは当日も一緒に行動を共にしていた。 会では、文部科学省の統計(生徒指導上の諸問題の現状について)では、1996年から2005年まで、教師のしっ責(叱責)による公立の小・中・高校の児童生徒の自殺はゼロになっていることについて、統計の見直しを求めたほか、裁判などで事実が明らかになった場合の訂正などについても求めた。(教師と生徒に関する事件参照) この日のメンバーのなかに、教師の言動に起因して子どもを亡くしている遺族が少なくとも5組以上(同サイトに掲載させていただいるのは、940909 S990727 000930 020323 020325 040526 =武田判断)。それ以外にも、同日はこられなかったものの、この会の参加者には、教師の体罰やしっ責や不適切な対応によって、子どもを亡くした親がたくさん参加している。そして、代表の内海さん自身、息子の平(たいら)くんを教師のしっ責による自殺で亡くしている(940909)。内海さんは言う。データに計上されないことで、問題が認識されていない。問題がないという認識のところにには対策がない。何も対策がないなかで、子どもたちが同じような経過をたどって、死に至っている。 対して、文部科学省の担当者の回答は、ほぼ想像した範囲のものだった。自分たちの現在、行っている問題のある青少年についての研究に金銭的な補助を行っているというアピールと、何度も通達などで隠蔽をしないように呼びかけてはいるし、教師の研修なども行ってはいるが、自分たちにはそれ以上の権限がないというもの。 表向きは、政治と教育は分離されていることになってはいるが、人事権と予算決定権、教育方針に関する指導権限を握っている国・文科省が、学校・教育委員会に対して極めて強力な指導権限を持っていることは、教科書の検定問題やころころ変わる指導要領、日の丸・君が代の扱いと教職員の処分を見れば、明らかだ。 そんななかで、いじめ問題を格好の理由として、教育再生会議は、ますます児童生徒へのさらなる締め付けを厳しくしし、問題はそれを抱える生徒ごと切捨てようとしている。 今こそ、私たちは過去の事件から、真摯に学ぶべきではないかと思う。 その後、記者会見。そして、田町に場所を移して、簡単に自己紹介を兼ねて参加者がそれぞれ自分の事件について話し、自殺事案とその他の事故事件に分かれて、グループごとに思いを分かち合った。 田町での会合から駆けつけた被害者やその保護者、遺族もたくさんいた。今回が小さいながらも、東京での初会合になったという。 |
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ここから、教師のしっ責等による自殺について私見。 私が講師を務めたある市民講座の感想のなかに、「事例に学ぶなど無意味だ」「原因など知る必要がない」むしろ、「大人たちがこれから何をすべきかが問題なのだ」と、ある面で、私のやり方に批判的なことが書いてあった。 しかし、どんなに頭のいいひとでも、間違いに気づくことは容易なことではない。失敗して初めて気づく間違いというものもたくさんある。事例は、私たちの知らない、経験したことのない問題の所在を教えてくれる。 とくに、命にかかわることは、経験してから失敗に気づくのでは取り返しがつかない。一度、命が失われた事例があれば、二度と同じ失敗を繰り返してならないのだと思う。私は過去に起きた事故事件を大切に、ひとつでも多くの教訓をそのなかから得たいと思う。 教師の言動が原因で、子どもの命が失われた場合、いじめ事件以上に被害者遺族は声をあげにくいことをここ何年も実感している。 いじめでさえ被害者が責められるなかで、相手が教師で、しかも、「指導」という名前がつくと、声をあげた親が批判の嵐にさらされる。学校相手に裁判を起こした親は、それこそ、社会からつるし上げられる。 「教師は当然のことをしたまで」「親のしつけがなっていない」「死ぬ子が弱い」「自分や子どもの非を棚にあげて教師を責めるのは言語道断」「これでは一生懸命にやっている先生がかわいそう」などなど。 私のサイトにさえ、非難が来る。私は第三者だからまだしも、子どもを亡くした親にとっては針のムシロ。いたたまれない思いだろう。それがわかるから、多くの被害者、親たちが口をつぐんできた。 では、誰も声をあげなかったら、事件から何も学ぼうとしなかったら、どうなるだろう。同じことが繰り返される。 かつて、自殺は個人の問題として、長い間、放置されてきた。その結果が、年間3万人を超える自殺者を出す国になってしまった。まして、日本は少子化で国の勢いが衰えようとしているなかで、子どもの自殺は、大人の自殺以上に影響が大きい。本来なら生きる気力も、体力も、残された可能性もたくさんある子どもたちが死ななければならないということは、それだけ問題の大きさを表していると思う。 ひとりの子どもの死は、そこから真剣に学ばなければ、そのあとの子どもたちの累々たる死を予言するものとなる。 しかし、マスコミもこの問題をほとんどとりあげようとはしない。 いじめ問題では、昨年10月2日、テレビ朝日の昼の番組、ワイドスクランブルで小森さんと武田がVTR出演し、スタジオで私が調べたここ7年間のいじめに関する自殺報道の数と文部科学省発表の連続ゼロの数字が対照表として、クリップで提示された。その翌日には各テレビ局で、7年連続いじめ自殺ゼロと大々的に報じられた。今まで同じように言い続けて、何も反応がなかったにもかかわらず、いきなり取り上げられるようになって、こちらのほうがびっくりした。 しかし、今回、「全国学校事故事件を語る会」の文科省訪問のニュースの一貫として、この教師のしっ責による自殺ゼロの問題が報じられながら、それ以上の発展が見られない。 多くの大人たちが言う。「教師を偉いものとしなければならない」と。それが子どものためだと。今の親は、そういうしつけをしていないから、子どもが問題を起こすのだと。いじめ問題も解決しないのだと。抗議する親を「とんでもない親」「トラブルメーカー」「クレーマー」と断じてきた。とくに、このところ、無理難題を言う親の特集が、あちこちで取り上げられている。たしかに、身勝手な人間は多い。しかし、少数意見を切り捨ててしまってよいのだろうか。 無批判なところにこそ、問題の根ははびこるのではないか。年金問題しかりで、国のやることだからと信じて待ち続けているうちに、手がつけられないほど大きな損失へと発展してしまう。 そうなるまえに、互いの意見をすり合わせる話し合いが必要なのではないか。 子どもの事件が起きるたびに、それを理由に厳罰化が実行される。ゼロトレランス(許容ゼロ)の考え方が導入されようとしている。文部科学省は、わざわざ体罰容認ともとれる通達文を出している。 体罰も、されたほうに問題があったという周囲の見方は今だ根強い。現実には、今だ体罰が横行しているのにもかかわらず、表面上は「法律で禁止されているのだから」と「ない」ことになっている。 「体罰を禁止されているから、いじめの指導ができない」「問題のある生徒を手をこまねいて見ていることしかできない」という言い訳にさえ使われている。 人が人を裁くとき、あるいは、指導するとき、いろんな面を考慮に入れて慎重にしなければならないと思う。 でなければ、裁く権利を持つものは増長し、形を変えた暴力になる。 国家権力がそれを行うときには圧政になる。虐待する親が「しつけ」と称して、子どもの心と体を傷つけ、ときに死に追い詰めることもある。 同じように、教師が「指導」と称して、子どもの心と体を傷つけるとき、私たちは「指導」ということばの持つ正当性のイメージに惑わされてはならない。 子どもが亡くなったあと、教師たちは言う。「ほかの子どもにも同じようにしていたのだから、問題はなかった」「今まで、問題にされたことはなかったのだから、今回も問題はない」。 では、今回だけでなく、自分たちの気づかないところで、多くの子どもたちの心と命を傷つけていたのではないかという振り返りにはならない。 親たちはけっして、自分たちの正当性ばかりを主張しているわけではない。自分の子どもの非も認めつつ、教師の指導が、本当に子どものためのものだっかどうかを問うている。 子どもが死んでさえ、教師たちの内省には期待できないことをいやというほど実感したからこそ、声をあげなければならなかった。 学校教育における「指導」は、緊急措置的に他の児童生徒を守らなければならないということはあるにしても、本来、指導を受けた児童生徒のためになるものでなければならないと思う。 それが、現実には、教育現場のなかでルーティンワーク化し、児童生徒のためという本来の目的がすっぽりと抜け落ちてしまっている気がする。 学校内の「きまり」も、体罰や指導も、教師の権力を示す道具として、見せしめ的に使われることが多い。 子どもたちを萎縮させ、無条件に教師に従うよう条件づけるために利用されている。 教師の業務が能率的効率的に行なわれるよう、教師が楽になる方法が優先されている。 教師自身のストレスの発散として、使われることもある。 子どもの成長のため、あるいは子どもを守るための規則や指導が、子どもから自尊感情を奪い、居場所を奪って追い込んでいくのでは、本末転倒ではないだろうか。 子どもは成長過程にある。いろんな失敗を経て、大きく成長していく。その機会を大人たちが奪ってはいけない。 他人を傷つけはいけないという最低ルールのもとに、もっと大らかに見守ってもよいのではないかと思う。 学校事故についての安全管理は、たとえそれが大きなけがや死に直結することであっても、高校生ともなれば自己責任と主張されることが多い。一方で、本来、高校生ともなれば当然、自己責任であるはずの、服装や髪型、飲酒や喫煙、バイクや自転車の乗り方、携帯電話の使用について、こと細かく規制され、見つかれば、学校側が一方的に決めた処分に従わざるを得ない。 学校にとって、それほど重要なことであるはずの「きまり」も、不思議なことに、なぜそれをしてはいけないのか、罰則が決められているのか、その罰則は禁止された事項とどう結びついて防止に役立っているのかはあいまいにされていることが多い。 兵庫県の西尾さんの場合、2人の息子が「教育」「指導」の名のもとに相手をとことん追い詰めるやり方の犠牲になっている。(020323参照) 健司くんは、二度目の謹慎処分を前に自ら命を断ってしまった。テストの答案を見せたことに対する厳しい処分。しかし、あそこまで長期にわたって、反省日誌を書かせる必要はあったのか。健司くんのなかにもきっと、「なぜ?」「いつまで」という疑問があっただろう。「きちんと反省したから、もうこのへんで勘弁してくれよ」と言いたくても、無条件に教師に従わざるを得ない情けなさ。無力な自分から、ちょっと背伸びして、心のうちだけでもいきがって、タバコを手にしたのではないか。教師に反抗する子どもではなく、まじめに指導に従おうとする子どもが追い討ちをかけられ、死に追い詰められてしまう。 健司くんの弟もまた皮肉なことに、やはり行き過ぎた指導の犠牲になって、大けがを負った。 乗客106名・運転士1名の死者を出したJR福知山線脱線事故(2005/4/25)に巻き込まれてしまった。 この事故の背景に、懲罰的な日勤教育があったと指摘されている。多くのマスコミ、事故調査委員会、遺族らが指摘してなお、JRは日勤教育と事故との関連性、問題性を認めようとはしないという。むしろ、今後もこのような問題を解決するために、積極的に使おうという考え方さえみえる。 なんだか、学校問題に似ていると思う。親や教師に精神的に追い詰められた子どもたちがいじめをしている。そのいじめを解決するために、さらに子どもたちを追い詰める具体策が検討されている。 大貫陵平くん(中2)は、学校でお菓子を食べたことを指導された翌日、「たくさんバカなことをして もうたえきれません」「自爆だよ」などと書いた遺書を残して、投身自殺した(000930)。 同じ言葉が、他の教師による指導で自殺した子どもたちからも聞こえてきそうな気がする。そこまで子どもたちの自尊感情を貶めてしまう指導が、これからも何の反省もなく、大人たちによって続けられてもよいのだろうか。 大人に甘くて、子どもに厳しい社会。小さな失敗が許されない社会。 小さな失敗の積み重ねが、大きな失敗をすることを防ぐのだと思う。「ひやり・はっと」は罰を与えることが目的ではなく、もっと大きな事故を防ぐために活用されるべきで、そこから何を学ぶかこそが重要視されるべきだと思う。 ある小児科医は、子どもたちがけがをしなくなったことを心配する。小さなけがをしない子どもは、経験値が低く、危険に対応できない。いきなり大きなけがをしやすいという。 小さなけんかの機会を子どもたちから奪えば、大きな葛藤が生じたときに対処の方法を学んだことのない子どもたちは、いきなりナイフで相手を刺してしまうこともある。 いじめはどこにでもある。それを私たち大人は放置するのでもなく、罰則をもって禁止するのでもなく、子どもたち自身の問題解決能力を見守りながら育てていくことこそが、必要なのだと思う。 関連 me061009 参照 |
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