子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
020325 シゴキ自殺 2005.10.16新規
2002/3/25 群馬県高崎市の東京農業大学第二高等学校(東京農大二高)ラグビー部に所属していた金沢昌輝くん(高2・17)が、部活動でたびたび過呼吸の発作を起こしていたが、合宿当日に自殺。
経 緯
(調査でわかったことを含む)
2000/4/8 同校入学後、ラグビー部に入部。

5/ 先輩部員から「シメ」と呼ばれる暴力を受ける(死後、詳細判明)。

6/10 初めてのラグビー部保護者会で、ラグビー部部長でもある教頭は、「お子さんを、お預かりします。指導には一切口を出さないで下さい」と話した。

9/28 昌輝くんは、学校で過呼吸を起こす。
その後も何度かラグビー絡みで、かなり激しい発作を起こす。

2年生になって、主要メンバーに入っていた。

2001/8/中旬 夏合宿頃から、指導陣の昌輝くんに対するプレッシャーがきつくなっていた。
他の選手のミスを昌輝くんのせいだとて怒ったり、「お前バックスとして駄目だよ」「使えねぇ」などの言葉を浴びせたりした。
(特定の部員に注意が集中することを部員たちは、「ハメ」と呼んでいた)

11/6 学校内合宿期間中(11/4〜11/7)、昌輝くんは授業中に過呼吸となり、気づいた生徒が保健室に連れていこうとしたが、昌輝くんは「もう、いやだ!」と大声で何度も叫びながら泣きだし、クラス中が騒然となった。

12/7 昌輝くんは練習中に左膝内側副靱帯損傷のけがをし、外科病院で治療。
12/17 練習中に同じ部位をけがして、病院で治療。「治療用装具」をつくってもらう。
(昌輝くんの死後、学校に提出する後記診断関連書類が未提出のまま机のなかから見つかる。装具も練習中につけていなかったことが判明。指導者に「走って治せ」と言われていた)

2002/3/24 いつもは学校から帰ってすぐダイニングに顔を出す昌輝くんが、その日は自室へ直行。不審に思った母親が昌輝くんの部屋に行き、会話のなかで「ラグビー」という言葉がでた途端、自宅で初めて過呼吸の発作を起こす。しかし、翌日からの合宿に出られなくなったら困ると、昌輝くんが強く拒否したため、救急車は呼ばない。

3/25 昌輝くんは朝食をとりながら、何度も「家はいいなあ」と繰り返した。
いよいよ出発するときに、昌輝くんは玄関まで行っては立ち止まる動作を繰り返した。
呼吸が荒くなりあえぎ始めたため、母親は合宿に行かせないことを決めた。
昌輝くんは玄関でしゃがみこみ荒い呼吸のなか、「行けない」「お母さん、(休みの)連絡は自分でしないとだめなんだ」と言った。

午前8時4分、総監督に母が電話。昌輝くんの状況を細かく説明し合宿の欠席を申し出たが、「治ったら参加させてください」と言われる。
連絡は1時間半近く放置され、自宅からすでに連絡があったことを知らないS監督がマネージャーに、昌輝くんの自宅へ連絡を入れさせた。
昌輝くんは、「これは策略だ」と言い、指導者らに対して「あいつら人間じゃあないから」と言った。

その後、自室で自殺をはかり、ぐったりしている昌輝くんを母親が発見。救急車で病院に運ぶが、1時35分死亡。
  
ラグビー部の練習態様
(調査でわかったことを含む)
昌輝くんは朝練のため、毎朝7時に家を出て、帰宅は9時近かった。練習は長時間、かつ、監督からは激しく叱責された。ラグビー部の休みは年間10日程度だった。

1年生時には、部員上下関係により、一部暴力もあった。

昌輝くんは1年生の9月に過呼吸の発作を起こしたあとも、何度かラグビー絡みで発作を起こしていたが、かなり激しい発作後も、練習に参加させられていた。

ラグビーの練習を休む際には、本人が直接連絡することが決められており、親が連絡をしたという理由で、坊主頭にさせられた部員もいた。

昌輝くんの葬儀の翌日から、平常通り練習を再開。
顧問の対応 I教諭は、ラグビー部の顧問であり、昌輝くんの担任だった。

1年生時、昌輝くんはI教諭に、理由は告げずにラグビー部をやめたいということを伝えていた。(後に判明)

教師は、昌輝くんの過呼吸の発作をはじめとして、学校で起きていることを何一つ家庭に連絡しなかった(養護教諭からの連絡が1回あったのみ)。
背 景 同校ラグビー部は全国大会18年連続出場の強豪チーム。

2002/1/ 新総監督、新監督という新体制を開始。
またこの年度、学校が新校長、新教頭となった。新教頭はラグビー部部長の教諭だった。体制の移行期となっていた。
保護者の認知と対応 両親は、昌輝くんが1年生の9月に学校で過呼吸の発作を起こしたことは、養護教諭からの連絡で知っていた。
しかし、その後も何度か部活関連で過呼吸を起こしていたことや、かなり激しい発作の後もラグビーの練習に参加させられていたことを知らなかった。

1年生時、ラグビー部先輩からの「シメ」等にそれとなく気づいていたが、両親が他の保護者に相談した結果、ラグビー部には口出ししないほうがよいと言われ、そのままになる。
具体的なことは昌輝くんの死後、はじめて友人たちから聞かされる。
学校の対応 2002/3/26 昌輝くんの死後、実況検分を行った警察官が、学校に調査に行くというのを、生徒たちの動揺を思いやった昌輝くんの保護者が止めた。結局、翌日(3/27)、総監督(現部長)が警察に出向くことになった。
(のちに学校側は、「学校に責任はないということは、当時、警察が学校に来なかったことで証明済み」と主張)

9/15 両親が要望して、校長とほか2名(元養護教諭と他1人)に自宅へ来てもらう。
両親の「指導に問題があったと思うのですが」という問いかけに、校長は「きちんと両親の気持ちに対処します。人事で考えます。1、2カ月待ってください」と回答。

11/26 回答がないため、両親が学校に出向く。
校長は指導問題には全くふれず、「ラグビー指導者たちの将来を温かく見守ってやってくれ」「もし納得いかないなら、第三者をたてて世間に聞いたらどうですか」などと言う。
抗議文 昌輝くんの死から1カ月余り後、Aくんの「自分たちで考える自分たちのラグビーがしたい」という発念から、同期生ら21人が指導者に「抗議文」を提出

この話を聞いた昌輝くんの両親が、ラグビー部部長に頼んで、2カ月近くたってからようやくコピーを受け取る。その時に部長から、「指導者に対する誹謗・中傷が多い」「無記名で出されたものなので、誰にも見せないで子どもたちを守ってほしい」と言われる。
(そのため、両親は約1年間誰にも見せずにいた)
被害者 昌輝くんは小さい頃からスポーツ好きで、小2から週1回、ラグビースクールの練習に参加していた。
中学時代は陸上部で活躍。中3のときには、全国通信陸上大会で200メートルと走り幅跳びで県1位になる。
中3で陸上部を引退した後、2週間に1度ほどラグビースクールに顔を出して体を動かしていた。足の速さでトライゲッターとなることも多く、コーチや仲間と楽しくやっている様子だった。

ラグビーが好きで、「花園に行きたい」という夢を持って、スポーツ推薦で東京農大二高に入学。学校も部活も休むこともなく、励んでいた。

昌輝くんは中学生を終えるまでに、少年レスリング、少年ラグビー、水泳、陸上競技と、さまざまなスポーツを経験していたが、過呼吸の発作を起こしたことは一度もなかった。
過呼吸 心理的要因(恐怖・不安等)や身体的要因(疲労等)が誘因となって発作的に過換気の状態になる病気。呼吸器心身症。若年者等に好発。
その後 2002/ 昌輝くんが亡くなったあと、指導者のひとり・コーチが同校教員に採用された(体育科卒にもかかわらず、情報処理の教師として)。
裁判がはじまってから、ラグビー部でのオフ日を増やす方針がとられた。

2005/8/11 菅平高原で合宿中(8/10-14の予定)、同校ラグビー部員(高3・17)が、練習試合でタックルをした直後に倒れる。相手選手の腰に頭部を強打した模様。
8/16 長野県佐久市の病院で治療を受けていたが、急性硬膜下血腫のため死亡。

3年間で部員が2名も死亡したにもかかわらず、校長・教頭の管理職をはじめ、ラグビー部顧問ら3人の指導体制は変わらない。一切の処分もない。
裁 判 2003/9/25 昌輝くんの両親が学校法人や校長や同部顧問ら5人を相手どって、前橋地裁に提訴。
過呼吸を患い自殺したのは、同部の当時の監督らが健康管理義務を怠り、厳しい練習を強いたことが原因だとして、慰謝料など約6940万円の支払いを求める訴訟を起こす。
被告側の言い分 校長は「生徒の自殺は非常に心苦しく、重く受け止めている」としながらも、「死亡に直接つながる指導はなかった」と反論。
また、家庭(両親)と本人の性格が自殺に追い込んだ背景であって、ラグビー指導とは全く関係しないと主張。
裁判での生徒らの陳述書 2004/5/21 第4回裁判で、原告側よりイニシャル(匿名)で、背景となる誤った指導事実を提示。

2004/7/12 第5回裁判で、学校側は、生徒らの陳述書内容を「匿名での事実主張であり、主張している事実も、不正確な事実主張である」として、ほとんどを否定もしくは認識の誤りとする。

2004/10/1−11/26 第6回、第7回裁判までの期間に、
学校側の主張に対し、ラグビー部の同期生らが匿名でなく自分の実名で陳述書を提出。

・「5、6時限に1時間以上もの激しい過呼吸発作を起こした後も、その日の部活に出されていた」との証言が複数ある。(学校側は否定)

また、昌輝くん以外の部員に対しても、様々な指導上の問題点があげられた。
・監督から5回ほど猛烈なタックルをかけられた部員が、十二指腸に穴があき、入院したことがあった。

・ミスをした部員が監督から殴られることがしばしばあった。「死ね」などの暴言もあった。

・けがをした部員が不調を訴えても、休ませてもらえなかったり、病院に連れていってもらえず、自分で病院にいかなければならないことが何度もあった。

・医師が施したギブスを筋肉が戻るのに時間がかかるという理由で、外すよう指示したこともあった。
裁判での陳述書・ほか 10/26 第6回裁判(2004/10/1)後に、
当時、昌輝くんの過呼吸発作に対応していた養護教諭(現在は退職)が陳述書を提出。
・指導者は昌輝くんが過呼吸を起こすほど追いつめられていたことを認識していた。
・養護教諭が「部活は無理です」と指導者に助言していたにもかかわらず、当日の部活動に参加させていた
などが書かれていた。

一方、第7回裁判(2004/11/26)に提出された顧問らの陳述書には、昌輝くんの精神面の弱さや体調やけがなどの自己管理の甘さ、親の期待によるプレッシャーなどがあげられていた。
また、陳述書を提出した部員生徒らのモチベーションの低さや昌輝くんとの関わり合いを「意を通じる仲間がいたら自死にまで追い込まれずにすんだのではないか」などと非難する言葉が書かれていた。
自分たちの指導方法に誤りはないと主張。
裁判の結果 2005/9/1 前橋地裁(東條宏裁判長)で、職権和解(裁判所からの和解案=ほぼ判決に近いもの)成立。

【和解条項】
・同校がグラウンドに生徒の名前などを刻んだ石碑を今年中に設置する。
・部活動が教育活動の一環であることを踏まえ、部員各自の人権を尊重した指導を行う。ラグビー指導に当たり、部員に体罰や差別的な取り扱いをしないことを確約する。
・部員の健康や安全管理の徹底などに配慮した指導をする。
・学校側が弔慰金500万円を支払う。
・スポーツ推薦により入学した生徒が推薦対象となった部を辞めても同高校を退学しなければならないものでないことを認める。
など。

しかし、練習と生徒の自殺との因果関係は明らかにされなかった
参考資料 2003/9/27毎日新聞、「君よ 輝いて!」農大二高ラグビー部員事件訴訟サイト(http://www.geocities.jp/kimiyo_kagayaite/index.html)、2005/8/16共同通信、2005/9/2毎日新聞、2005/9/3讀賣新聞
備 考 当サイトに内容を転載させていただくことは、昌輝くんのご両親から許可を得ています。




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