2005年4月13日、山口県下関市の市立川中中学校で、放課後の吹奏楽部の練習に遅れ、別の女子生徒にとがめられた後、姿が見えなくなった女子生徒A子さん(中3・14)が、校舎の3階から屋上に上がる階段の手すりに制服のスカーフを巻きつけて自殺した。
ここでも、学校、教育委員会の対応は30年以上も前と何ら変わらない(子どもに関する事件・事故 1 参照)。
学校は当初、「いじめはなかった」とし、様々な事実が出てくると、「知らなかった」「いじめと呼べるようなものではなかった」「自殺との因果関係はわからない」とする。
本人や家族の訴えも、回数がぐっと減らされ、具体的なことは言われていない、そこから、いじめがあると推察するには無理がある、それなりにきちんと対応したとする。
そして、最近の学校事故・事件後の対応策の特徴的なこととして、事件直後から心理サポートの専門家チームが入っていること。学校カウンセラーの加配や相談の機会を増やしたこと。
心のケアが不要だとは言わないが、自分たちは努力せず、専門家集団に丸投げするだけで、教育委員会は、生徒たちのためにできるだけの対応はしましたと胸を張る。結局は、自分たちの労力はできるでけ使わず、痛みを感じることもなく、金で解決しようとしているように私には思える。「心のケア」という言葉だけがひとり歩きし、アリバイ的に使われている気がする。
今回、多少評価すべきことがあるとすれば、途中で、学校や教育委員会がいじめがあったことを認めたこと。教師への聞き取りや生徒へのアンケートの結果を遺族に開示したこと。第三者が完全には学校寄りでない分析と提言を出したことなどがあげられると思う。(それも、見方によっては、遺族の怒りをかわし、世間の納得を得るための形だけの対処ともとれる)
女子生徒の自殺から1年。中学3年生だった同級生らは卒業した。調査委員会の結論も出た(最初から1年計画)。学校側はこれですべてに幕引きをしたいところだろう。
しかし、ここでも大きく抜け落ちている重要なものが2つある。
ひとつは、学年全体に広がっていたといういじめの加害者への対応がどのようになされたのか、ということ。生徒たちの心のケアばかりに目がいっている学校は、そこから、真の反省を引き出すことはできたのか。それぞれが、亡くなった少女に対して何をし、そのことを今どう考え、これからどのように責任をとっていくのか。そのことなしに本当の心のケアはあるのだろうか。
ただ「君たちのせいではないよ」「仕方がなかったことなんだ」「嫌なことは早く忘れなさい」「辛かったら休んでいいんだよ」そのようななぐさめばかりが、周囲の大人たちからなされたとしたら、いやなことからは目をそむけたい、他人を傷つけても自らは傷つきたくはないと思っている子どもたちに、どんな教訓をもたらすことになるのか。もう二度と同じ過ちは繰りかえさないという強い決心に結びつくだろうか。あるいは、ひと一人死んでも「大したことないじゃん」と命を軽視し、世の中をなめてしまうことにはならないか。自分のストレスを他人に向ける、いじめる気持ちを助長することにはならないか。
現実に、多くのいじめ自殺、リンチ殺人事件のあと、子どもたちの真の反省を引き出すことは、私たちが思っている以上に困難だ。
いつの間にか、被害者に責任を転嫁し自分たちを正当化する。周囲が腫れ物を扱うように接するのをよいことに、さらに勢いづいて、いじめや非行を繰り返す。あるいは、忘れたいという気持ちが、かえって自暴自棄な破壊的な行動へと駆り立てる。残念なことに、そうした例がけっして少なくない。
そのことの責任はどこにあるのか。学校、教師、親、周囲の大人たちにこそ、責任があると思う。
そして、もうひとつ抜け落ちている大事なことは、教師の責任だ。
学校の事件後の対応を見ていると、まるで、事前に教師がいじめを察知できなかったことに、自殺にまで至ったことのすべての原因があるかのようだ。
しかし、実際には、学校・教師が、いじめの存在を知らなかったから防げなかったのではない。知っていながら、何ひとつ有効な対応策をとらなかったからこそ、女子生徒は死にまで追い詰められたのだ。
その認識なしには、再発防止策など、どんなに並べ立てたところで、絵に描いたモチにしか思えない。
このことは多くのいじめ自殺やリンチ、恐喝事件に同じことが言える。学校は「知らなかった」と言う。しかし、亡くなった子どもたちの遺書には、先生は知っていたと書いていることが少なくない。親が相談したときにも言下にいじめを否定したり、対応しますと約束しながら何も動かなかったり、口頭でおざなりに注意するだけだったり、逆に被害者側の問題ばかりを取り上げて責めたりしている。そして、周囲の子どもたちが「先生は知っていた」とどれだけ言っても、頑なに否定する。
事件後、いじめに気づくためにと「生活ノート」を生徒に書かせる学校は多い。しかし、川中中学校でも「生活ノート」は実施されていた。少女は、そのなかで、教師に対して必死にSOSを出していた。
子どもは、なかなか大人に「いじめられている」とは言えない。中高生となればなおさら、プライドもある。言えば「ちくった」としてさらにいじめられる。へたな対応をとられれぱ立場はよけいに悪くなる。リスクも大きい。それでも、いじめられていると打ち明けるとき、すでに、自分ではどうしようもないところにまで追い詰められている。切羽つまっている。
必死の思いで大人に打ち明けた。そのSOSを受け取ってもらえない、無視されるということが、どれほど子どもたちを追い詰めることだろう。死へ向かう絶望感への背中を押したのではないか。
生徒たちが、教師に相談さえすれば、真剣にとりあってもらえる、必ず解決すると信じることができるのなら、学校カウンセラーなど必要ないだろう。ノートをつくったり、相談日を増やしたり、しなくとも、生徒たちの悩みを吸い上げることはできるだろう。
一方で、どんなに相談の機会を増やしたとしても、本気で対応する気がなければ、相談しても肩透かしを食らう。大人に相談したことを後悔させる、世の中への不信感を植え付けるだけになる。
女子生徒の自殺直後、校長が全教師を対象に聞き取り調査をした結果、A子さんの2年生時の担任や教科担当の教師から、「今思うと、いじめと思われるような場面があった」という声が複数出たという。
具体的にはどういうことがあったのか。見逃したのはなぜか。どのような対応をとるべきだったのか。それがとれなかった原因はどこにあるのか。校長に情報があがっていなかったとしたら、その原因はどこにあるのか。その教訓を生かすには、具体的にどのような対策を立てていけばよいのか。
そこを深めることなしに、「さあ、困ったことがあったら相談しなさい」と言ったところで、同じことの繰り返しになるだろう。
本当に、今回のことを教訓にし、二度と同じことを繰り返さないと決心するならば、まずは何があったのかを包み隠さず、子どもも大人も、全ての人たちが情報を出し合うこと。そのうえで、専門家に投げてしまうのではなく、遺族も含めて、自分たちのどこに問題があったのか、どうすれば防げたのか、今後はどうするのか、何度でも真剣に話し合うことだろう。
そこには、当然、自分たちがしてきたこと、してこなかったことへの後悔、痛みが伴うだろう。しかし、その痛みなしには、真の教訓は生まれない。亡くなっていった子どもたちは、心も、肉体も、もっともっとずっと痛かったのだ。人生の全てを奪われれるほどに。
専門家たちだけに討議をさせて、自分たちはその結論だけをもって、教訓にしましょうという。何十回出されても効果の得られない、現場の教師たちが内容さえ把握していない通達文と同じ程度の効力しかもたないのではないかと思う。
そういうことがわかっていながら、誰も実行に移そうとはしない。ただ、形だけを整えて、時間がたち、みんなが忘れてくれるのを待つ。大人たちの保身の姿しか見えてこない。
大人たちがこういう姿勢でいる限り、子どもたちは変われない。同じことが繰り返されるだろう。
遺族は納得がいかない。誰より、死に追い詰められていった子どもたちが納得いかないだろう。
子どもたちは言う、「いじめはなくならない」。
|