わたしの雑記帳

2006/4/4 小森香澄さんの裁判・判決(2006/3/28)に思うこと


 2006年3月28日(火)、13時30分から横浜地裁503号法廷で、小森香澄さんの裁判の判決があった。
 傍聴席の前2列は白いカバーがかかった記者席。15席中12席が埋まった。一般傍聴席は満杯で、廊下で待っていたひとも何人かいたようだった。
 全面棄却された裁判の判決で、かなり注目されていた事件であったにもかかわらず、報道陣がひとりも来ていないということを経験したことがあるだけに、報道陣の多さに少しほっとした。一縷の望みを感じた。個人的な意見としては、たとえ全面敗訴であったとしても、それはそれで、その不当性をきちんと報道して、世の中に伝えてほしいという気持ちはある。

 裁判官3人が入廷し、テレビカメラが1分間の静止画像を撮る。
 小森さん夫妻は、県と同級生3人に計約9700万円の損害賠償を求めていたが、
 山本博裁判長は、元同級生のAさんに対して、原告である小森新一郎さん(父親)に28万円、同じく原告である小森美登里さん(母親)に28万円の計56万円の支払いを命令。
 神奈川県に対しては、小森新一郎さんに165万円、美登里さんに165万円の計330万円の支払いを命じた。
 あとは亡くなった日から支払い済みまでの金利と裁判費用、弁護士費用の分担などについて、細かく述べた。
 法廷では主文だけで、5分程度で終わった。
 判決理由については、3時から記者会見をかねて、開港記念会館7号室で報告会があった。


●判決文から −生徒の責任−

 判決文は51ページに及ぶ。いつものごとく、マスコミ関係者には裁判所からすでに渡っていた。(私は後日、小森さんから郵送していただいた)

 今回、被告・元同級生3人に対して、不法行為が認められたのは、Aさんのみだった。
 判決文から引用する(判決文ではすべて実名。敬称なし)。
 『被告Aの発言は、「アトピーがきたない」「顔が醜い」など香澄の身体的特徴をあげていわれない中傷を加えるものや、「部活に邪魔」など部活動内における香澄の存在価値を否定するもの、さらに病気療養中の香澄に対して「もう仮病は治ったの」と言うなど当時の香澄の心情を顧みずにされたものがあり、上記発言内容はそれ自体香澄に大きな精神的苦痛を与えるものということができる。

 被告Aの上記発言は香澄に対して機会あるごとに執拗に繰り返されていたものと認められ、被告Aによる発言が香澄を精神的に追い詰め、耐え難い精神的苦痛を与え、人格的な利益を侵害したものと認めるのが相当であるから、被告Aの上記認定の言動は違法というほかはない。』
と認定をした。

 Aさんが香澄さんに対して、これらの言葉を言っていたかどうか、目撃証言はない。しかし、生前の香澄さんから母親が聞いてメモした内容、香澄さんから相談されていた友だちが聞いたもの、教師や養護教諭に相談していた内容、医者のカルテ、などから、また、その相談内容が概ね一致していことから、事実として認定された。
 Aさんは、このような発言はしていないと法廷でも否定したが、裁判所はAさん自身が香澄さんの自殺後に書いた作文などからも事実と認定して、Aさんの主張を退けた。


 一方で、他の2人の生徒に対しては、
『香澄が同一パートにいて技量的にも勝り、かつ、仲が良いBとCに溶け込むことができず、しかも、同被告らが香澄に対し、上位の立場から、きついものの言い方をしてきたことは十分に認めることができ、(中略)香澄が原告美登里に同被告らのことを訴え、原告美登里がそのことにつき何らかの動きをしていることが同被告らの耳に入り、同被告らが香澄に対し、いよいよ攻撃的な言動をしてきたことも認めることができるが、こうした被告B、被告Cの香澄に対する言動が、同年4月以来どのようなものであったかについてはこれを知るべき具体的な証拠はなく、同被告らが意図的に香澄を無視したり、両名の中に入ろうとする香澄をことさらに拒絶し、排除するなどとしてきたとまでは認めることはできない』『B、Cとの関係が香澄にとって大きな精神的苦痛をもたらしたということは前記認定の各事実から明らかであるが、同被告らの行為にはなお不明な点が残り、同被告らの行為を違法と断ずるには足りない』として、請求を認めなかった。


 自殺と生徒らの行為の因果関係については、
『香澄は吹奏楽部に多大な期待を抱いて野庭高校に入学したものの、入部してみるとお互いに悪口を言い合うなど本人が期待していた吹奏楽部とは異なることが判明し、期待を裏切られると同時に、内部で初心者は自分ともう一人しかおらず実力の差が表れ、同じトロンボーンパートの同級生で経験者でもある被告B及びCとも実力差があり、それが本人にとって相当な重圧であったことが認められる。そして、被告B及びCとは、香澄にとって厳しいと感じられる口調で物事を言われることもあって親密な関係を築くことができず、また両人の仲が良く自分が中に入りづらいと感じることから疎外感を覚えると同時にいじめられているとの感情を抱くようになり、さらに被告Aからもアトピー性皮膚炎についていわれなき中傷を受けるなどして傷つき、そのような部内の人間関係の苦悩から部活動や授業に参加することが次第に困難になっていったものと考えられる。さらに、香澄は野庭高校吹奏楽部に憧れて入学しただけに部活動を辞める意向はなく、部活動を続けたいとの確固たる信念を持ちながら、他方で期待を裏切られたことや他の部員との実力差による重圧、さらには被告Aらとの確執により、部活動に参加したいのに参加しようとすると頭痛が発症するなどして本人の中で葛藤がある中、折から原告美登里により登校や部活動のコンクールへの参加などについて判断を促され、香澄にとってはそれが心の重荷に感じており、衝動的、突発的にカッターナイフをかざすなど情緒不安定な状況に陥っていたと考えられる。そして香澄は7月23日の地区大会の前から医師に対し、「自分はいない方がいいのではないかと思う」「他人や親を傷つける気持ちは全くなく、自分自身を痛めた方が気持ち的には楽」などと、暗に自殺をほのめかすような発言もしており、そのような情緒不安定な状況は地区大会が終わった後にも変わらず、香澄が自殺する直前においてもそのような状況の中で、電話の録音の準備をするかどうかについて原告らの間で見解が分かれた際、香澄はそのときに自分を取り巻く状況に嫌気がさして耐えられなくなり、衝動的に逃避するつもりで「もういい。」と述べ、トイレに入って自殺を図ったものと考えられる。そうすると、香澄の自殺は様々な要因が重なって招来されたものというべきであって、被告Aの言動と自殺の間に相当因果関係があるとまでは認められない。』として、因果関係を否定。

 自殺の予見可能性についても、『被告Aが香澄に苦痛を与えた期間はせいぜい2か月程度であり、それほど長期にわたっていないことや被告Aの上記言動からすると、被告Aには香澄が自殺を決意すると予見することは不可能というべきである』として、認めなかった。


●判決文から −学校の責任−

 学校の責任に関しては、判決文では以下のように述べられている。

 『公立高校における教員には、学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全の確保に配慮すべき義務があり、特に、生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれがあるようなときには、そのような悪影響ないし危害の現実化を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講じる一般的な義務があるというべきである。』

 『(略)香澄は4月下旬ころから、急速に精神的に疲弊し、7月にはそれが頂点に達したとみることができる。そして、香澄が原告美登里や医師、青少年相談センターの相談員、H指揮者、友人に訴えた内容からすれば、吹奏楽部内の人間関係や、被告B、被告C、被告Aの言動等学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における出来事が精神的疲弊の大きな原因になっていたことは明らかであり、かつ、前記認定の香澄のさまざまな訴え、行動、医師の診断、自殺企図からすると、香澄がかかえていた精神的苦悩は非常に大きなものであったことも明らかであるから、香澄にかかわる野庭高校の教員としては、香澄のこのような状態を認識することが可能であれば、香澄の苦悩を取り除くための適切な措置を講ずるべき義務があったというべきである。』

 『遅くとも、原告美登里の訴えを聞いた、5月中旬から6月中旬までには香澄の前記のような状態を十分認識し得たというべきである。そうであれば、N教諭及びK教諭は、野庭高校のしかるべき担当者に香澄の問題を伝達し、また、野庭高校は組織として、香澄の問題を取り上げ、香澄の話を受容的に聞いたり助言する、あるいは、被告生徒らの言い分を聞いて助言する、あるいは、生徒全体を相手に注意を喚起する等香澄の苦悩を軽減させるべき措置を講ずる必要があったことになる。
 しかし、N教諭、K教諭とも、原告美登里の訴えを聞いても、香澄や原告美登里に対する積極的な働きかけはせず、単に、原告美登里から訴えがあった都度その話を聞く程度に終始し、学校当局に対し、香澄の問題を報告することもせず、したがって、野庭高校全体としても、何ら、組織的な対応をすることなく終始したのである。』

 『野庭高校の教員が、5月中旬あるいは6月中旬までに、香澄に関し適切な措置を講じたら、それにより、香澄の苦悩は相当程度軽減されたものと認めるのが相当である。』

として、注意義務違反を認めた

 一方、ここでも、『香澄が自殺にまで至るについては様々な要因があったとみざるを得ないし、野庭高校の教員に香澄の自殺につき予見可能性があったと認めることはできないから、被告県の責任は生前の香澄に精神的苦痛を与えたことに関する損害賠償に限られるというべきである。』として、自殺の予見可能性や教師らの注意義務違反と自殺との因果関係は認めなかった。


 また、争点のひとつであった、学校の調査報告義務違反に関しては、
 『公立学校の設置者である地方公共団体と在学する生徒の親権者との間には、公法上の在学契約関係が存在し、この在学契約関係の中で、教師らは学校の教育活動及びこれに密接に関連する生活関係において生徒らを指導するのであるから、地方公共団体は、上記法律関係の付随義務として、学校内、あるいは学校外においても学校に何らかの原因があると窺われるような事故が生徒に発生した場合には、その原因などについて調査した上で、必要に応じて、当該生徒又は親権者に報告する義務があるというべきである。もっとも、教育機関たる公立高校においてはその機能に照らし、生徒のプライバシーや健全な成長に慎重に配慮する必要性から、教師ら及び教育委員会が行う調査及びその報告には自ずから限界があり、調査報告義務違反の判断をするにあたり上記の点を考慮する必要がある。』

 『香澄の死後、U校長やY教頭は、香澄及び原告美登里と接していたK、N、T各教諭、H指揮者から事情を聴取したこと、吹奏楽部全員に香澄との関わり方に関するテーマについて作文を書かせ、さらに吹奏楽部顧問が被告生徒らを含めた部員全体から事情を聴取していること、さらに、Y教頭が被告生徒ら宅に架電し、複数回にわたり事情を聴取したこと、その中で、被告生徒らはいずれもいじめに該当する事実は行っていないとして否認し、他に被告生徒らによるいじめを特定するに足りる有力な情報は寄せられなかったこと、原告らが出した2度にわたる質問に対し、学校側としてはいじめの事実を認識することができなかったとして、文書及び口頭で回答したことなどの各事実が認められ、これによれば、被告県は必要な調査報告義務を果たしたというべきである。』

 『原告らは、香澄の所属するクラス生徒から事情を聴取しておらず、被告生徒らからも十分な調査をしていない旨主張するが、本件は原告美登里の相談内容から照らしても吹奏楽部内における問題として捉えられていたこと、クラスの生徒には情報提供を呼びかけており、さらに香澄と仲が良かった生徒のSには作文を書かせていることなどの各事実に照らせば、必ずしもクラス生徒全員から事情を聴取する必要があったとまでは認められず、また被告生徒らからの調査も前記のとおり作文を書かせ、自宅に対する複数回にわたる架電により事情聴取を行っており、その調査に不備があったと認めることはできないから、学校は必要な調査をし、報告義務を尽くしたというべきである。』
として、学校の調査報告義務違反については認めなかった


●判決に対して思うこと(あくまで武田の私見です)

 今回、言葉や態度によるいじめという、被害者が生きていてさえ立証しにくいものに関して、かなり原告側の主張が認められた事実認定になっていると私個人は思っている。
いじめがあったと事実認定されるかどうかが、この裁判の一番のネックになっており、全面棄却されてもおかしくはなかった。

 そして、同じ事実であっても、それをいじめと捉えるかどうかは、裁判官の感性によるだろう。裁判官は、『香澄がかかえていた精神的苦悩は非常に大きなものであったことも明らかである』と、香澄さんの感情に寄り添った判断を下している。
損害賠償を認めなかった元同級生2人に対しても、不法行為はなかったと判断したのではなく、香澄さんに対して精神的苦痛をもたらしたことは認めつつ、損害賠償が発生する違法性を立証する証拠が足りなかったとした。

 また、学校や被告生徒たちは、香澄さんの自殺の原因をもっばら母親の美登里さんにあるとしていた。しかし、判決では一部、香澄さんに決断を求めなければならなかったことや両親の間での意見の食い違いが心の重荷になっていたとはしたが、親を非難する言葉は見られなかった。
思春期という親から精神的に自立する時期、親への反発心も芽生える。そして、傷つき体験のなかで、親と子に葛藤が生じる。あの時、ああしていれば、こうしていれば、子どもが亡くなったあと、親はどれほど後悔し自分を責めることか。そのうえに追い討ちをかけることをしなかったことを評価する。
 過失相殺という形で、自殺したことに対して、香澄さんを責めることもしなかった。
 自殺のあと、どれだけ多くのひとたちに「弱かった」「命を大切にしなかった」と親と子は責められることか。生きている間も責められて、死んでなお責められる。判決文のなかでまで、その批判に香澄さんがさらされなくて、親にとってもほんとうによかったと思う。

 一方で、納得いかない部分としては、
Bさん、Cさんの言動が香澄さんを深く傷つけたと認定しながら、不法行為と認めなかったこと。
2人が香澄さんにどういう態度をとっていたか、香澄さんが2人のどんな言葉に傷ついていたか、などは、香澄さんが相談した母親や友人の証言からも明らかであるし、心配した先輩たちが顧問らに相談しに行ったり、個別に注意していたこともわかっている。呼び出しがあって2人に責められたこと、携帯電話にかかってきたきつい会話も証拠提出されている。「不明な点が残る」のは、被害者が亡くなり、被告たちが事実を否定する、学校側が情報を出そうとしないなかではむしろ当然のことだ

 「何があったかわからない」「わが子に何があったか真実が知りたい」。これこそが、被害者遺族が裁判を起こす大きな動機ではなかったか。
 子どもが亡くなったあと、学校で子どもたちの間に具体的に何があったか、親には知るすべがない。調査をする権限も与えられていない。学校や教育委員会にお願いしても教えてもらえない。だからこそ、民事裁判に訴えて、公的な働きかけで、真実を明らかにしてほしいと願ったのではないか。しかし、現実には、訴えた側、原告側に立証責任が課せられる。矛盾している。

 当時、学校が調査のために生徒たちに書かせた作文がある。内容はこの裁判でも開示されなかった。どういう内容が書いてあったのかさえ一部を除いて知ることはできなかった。作文は単なる作文ではない。それぞれが見聞きしたことを学校、教師が把握するための調査の手段として使われていることは明らかだ。しかし、何のための誰のための調査だったのかと思う。
親は元同級生たちに、当時の作文を見せてほしいという許可を得る努力を必死にした。何人かはそれに応じてくれた。しかし、学校も、司法も、その許可をとる努力は何もしてはくれなかった。いじめはなかったと断言するならば、作文をただ見せて、両親に納得してもらえばよいと思うのだが。あるいは、学校側が、生徒に開示させてほしいと依頼したなら、もっと多くの子どもたちが、作文を見せてくれただろうと思う。
 学校や公権力に対しては、せめて裁判所が積極的に関与して、もっている情報を開示させてほしいと思う。公的機関においては、自分たちに過失はなかったということを証明できなければ、過失があったと認定されても仕方がないのだとしてほしい。でなければ、日頃から、親がほしいときに適正に学校の情報を得ることができるようなシステムにしておくべきだと思う。


 学校に対する責任について、『香澄に関し適切な措置を講じたら、それにより、香澄の苦悩は相当程度軽減された』と、認定したことは、他の証言との矛盾があっても学校・教師の言い分ばかりが通る判例が多いなかで、評価できると思う。
 ただし、学校に関する内容は、元生徒に関する内容に比べて、文章量としても少なかった。踏み込み方に足りなさを感じる。


 自殺との因果関係について、
自殺と不法行為との因果関係を認められなかった理由として、「様々な要因があるから」「予見できなかったから」とした。しかし、様々な要因があったとするなら、それぞれがみな責任を負うべきではないか。ひとの命が失われたという重大な結果に対して、10人に原因があるのなら、10人全員がそれぞれ責任を負うべきだと思う。1人なら因果関係がはっきりしていて不法行為に問われるが、10人では誰がどのくらいの責任を負うべきかはっきりしないから、全員無罪というのはおかしいと思う。

 自殺の予見性については、1980年ころから、どれだけの子どもたちがいじめによって命を奪われてきただろう。いじめが死につながるものであることを知らないものはいないだろう。まして、学校の教師であれば。もし、生徒が知らなかったというならば、学校側は安全配慮義務の一環として、いじめがいかに人の心を傷つけるものであるか、時には死に追い込むことがあるという事実を教育すべき責任があるのではないか。
Aさんの行為についても、「被告Aが香澄に苦痛を与えた期間はせいぜい2か月程度であり、それほど長期にわたっていない」とあるが、私が拙書のなかで、いじめ自殺した事例のなかから、ある程度いじめの期間がわかっているもの69例を分析した結果、26%がいじめがはじまって3ヶ月以内に、3ヶ月から1年以内に50%の子どもが自殺をしていた。日常のなかで繰り返される陰湿ないじめに、そんなに長くは神経がもたない。まして、もっとも友だちを必要とする年代の子どもたちだ。
 そして、Aさんに関して言えば、香澄さんとAさんは同じ中学校出身で、部活動も同じ吹奏楽部に所属していた。裁判の証言のなかでも、入学時すでに、香澄さんは友人らから、「Aさんと一緒でかわいそう」というようなことを言われている。二人の確執はすでに中学校時代からあったと思われる。

 そして、判決では『野庭高校の教員が、5月中旬あるいは6月中旬までに、香澄に関し適切な措置を講じたら、香澄の苦悩は相当程度軽減された』と認定している。苦痛が軽減されていたなら、自殺は防げた可能性が極めて高い。
 しかも、うつが自殺と結びつきやすいことは、自殺者が7年連続して年間3万人を超える今、頻繁に報道されている。教師が知らないはずはない。「うつ」の診断を知った時点で、学校は香澄さんが自殺する可能性を予見できたと思う。それが、学校がとるべきリスク管理であったと思う。


 判決で、調査報告義務について、学校は必要な調査をし報告義務を尽くしたと認めている
しかし、裁判で出てきた証拠はすべて、両親が必死に調べ上げた内容だ。
 本来、学校側の持っている情報量に比べて、両親の持ちうる情報量は極めて少ない。そのなかで、裁判所がいじめの事実を認定することができたものを、どうしてすべてを知る立場にあった学校が『いじめの事実を認識することができなかった』という結論に達するのか。

 これがもし企業の不祥事であったとして、このような調査報告が、義務を果たしたものだと社会一般に認められるだろうか。死者を出した事故の報告書が、聞き取りした内容を詳しく報告することもなく、ただ原因は見つからなかったと結論を出す。ここを調べれば、何か新しい事実がわかるのではないかとの提案も取り合おうとはせず、原因はこの部分にあるとだいたいはわかっているだから、他の部分、周辺は調べる必要がない突っぱねて、自分たちがよしとする調査の内容だけで、「調査したけれど何もわかりませんでした」という報告書を見せられて、再び同じ事故を起こさないだけの調査を尽くし、反省をし、対策を講じたと思えるだろうか。

 香澄さんが亡くなる前も、亡くなってからも、学校は真摯な態度で、最善をつくしたとは思えない。だからこそ、両親は裁判に訴えるしかなかったのだということを忘れないでほしい。

 いろいろ不満はある。それでもこの判決のもつ意義はあると思っている。
心への暴力が「人格的な利益の侵害」と認定されたこと
親の訴えをただ聞き流すだけの教師の対応に注意義務違反を認めたこと
これらは何より、生きている子どもたちを救済する鍵になる。
心への暴力の違法性が認められ、防止する義務が教師たちに課せられたのなら、いじめへの抑止力になるだろう。あとは、この判例を教訓として、いかに有効に活用していかにかかっていると思う。

 満足のいく内容でなかったとしても、少なくとも両親が泣いて抗議する記者会見をしなければならないような判決でなくてよかったと思う。もう、これ以上、傷つけられる姿は見たくない。


●過去の判例との比較

 過去のいじめ自殺裁判から、勝訴(一部認容を含む)したの判決を拾ってみた。このなかから、小森さんの裁判の位置づけを少しみてみたいと思う。

 詳しくは、いじめ・生徒間事件に関する裁判事例 1を参照。(最近の判例傾向はme050518を参照)


   【いじめ自殺裁判の勝訴・一部認容判決一覧】

いじめ自殺の被害者と概要
(年月日は自殺をはかった日)
判決 損害賠償 予見
可能性
自殺との
関連
過失相殺
1985/09/26
市立小川中・佐藤清二くん
暴行・恐喝
1990/12/26
福島地裁
学校に1109万円 必要なし 本人4
家族3
1986/02/01
区立富士見中・鹿川裕史くん
暴行・恐喝・葬式ごっこ
1994/5/20
東京高裁
都・中野区・
同級生2人に
1150万円
×
(自殺損害
認めず)
 
1994/07/15
町立中野中・平野洋くん
暴行・言葉の暴力
2000/7/
横浜地裁
町・県に3947万円、
元同級生9人に
計200万円
  家族4
2002/1/31
東京高裁
町・県に2160万円、
元同級生9人に
120万円
本人・家族
1996/01/22
城島中・大沢秀猛くん

暴行・恐喝
2001/12/18
福岡地裁
町・県に
計1000万円
(上告 棄却)
× なし
1996/09/18
町立知覧中・村方勝己くん
暴行・恐喝
2002/1/28
鹿児島地裁
町・生徒5人に
計約4500万円
× 家族4
1997/4/13
静岡県駿東郡
・男子生徒
※学校外、中学時代の同級生2人から暴行・恐喝
2001/4/18
静岡地裁
沼津支部
加害者2人
計7700万円、
親に約1100万円
× なし
1998/7/25
神奈川県立野庭高校
小森香澄さん
言葉や態度
2006/3/28
横浜地裁
生徒1人に56万円
県に330万円
× × なし
1998/8/6
朝日中学校・男子生徒
暴行・恐喝
2003/12/
新潟地裁
新発田支部
村に計230万円 × ×  
1999/11/26
市立北犬飼中・臼井丈人くん
暴行・下着を脱がされる
2005/9/29
宇都宮地裁
生徒2人と市、県に
計240万円
× ×  
2000/10/11
北九州市の中学校・男子生徒
※学校外、暴行・恐喝
2003/9/16
福岡地裁
小倉支部
少年4人と保護者に22万〜184万円
(計556万円)
× ×  



 過去のいじめ自殺の裁判から、勝訴、あるいは一部認容された判決を拾ってみた。
 全体的にいじめ自殺裁判の勝訴は少ないことから、勝訴事例の大部分は押さえているのではないかと思っている。(敗訴は全国紙に載らないことが多く、書籍などにも紹介されないので、漏れている判例はかなりあると思う。ただし、私は専門家ではない。新聞やテレビ、インターネット、何ヶ月かに1回図書館を利用して情報収集をはかっているが、新しい情報に関しては拾いきれていないかもしれない)
 その中で、注目すべきは、いじめ自殺に限って言えば、肉体的な暴力や恐喝を伴わない言葉や態度だけのいじめ事件で、被告の違法性が認められるということは極めてまれだということだ(もしくは初めてではないかと思う)。また、一般的には男子に肉体的暴力や恐喝などが多く、女子に言葉や態度などの心理的暴力が多いこともあって、今までの勝訴事例の被害者はすべて男子生徒であった。女子生徒のいじめ自殺の勝訴、あるいは一部認容判例を私は他に知らない。(全体として、男子生徒のいじめ自殺のほうが統計的も多いということもあるが、女子のいじめは、より立証が難しく、最初から遺族が訴訟をあきらめているという事情もあると思われる)

 いじめなどの不法行為と自殺との因果関係については、1990年の市立小川中・佐藤清二くんの自殺裁判で初めて認められた。一方で、2002年の町立中野中・平野洋くんの自殺裁判の高裁判決以降、認められていないのが気になる。

 自殺との因果関係が認められたものについては、損害賠償額が1000万円を超える。一方で、加害者の不法行為や学校の安全配慮義務違反は認めたものの、自殺との因果関係を否定したものに関しては、金額が低い。民事裁判においては、損害賠償の金額は、責任の度合いに比例すると考えられる。
 ここでも、小森さんの裁判で、心への暴力が、暴行や恐喝を伴ういじめと同等の損害賠償を得ることができた意味合いは大きいと思う。とくに女子のいじめでは、圧倒的に言葉や態度など、心理的ないじめが多い。心理的ないじめであっても、ひとを死に追いやることが十分にあり得るのだということを弁護団がたくさんの事例を使って実証したことの意味が生かされているのではないかと思う。


●親の思い

 私はどうしても、いじめ裁判の流れのなかから、小森さんの裁判を見てしまう傾向がある。そのなかでは、評価できる部分も多く感じる。しかし、親としての思いは、当然ながら、また別のところにある。

 判決当日に横浜市開港記念会館で行われた記者会見で、小森さんは、「言葉によるいじめで間接的な証拠しかなかったが、判決がいじめの事実を認めたことは評価できる」「言葉による暴力が、人格的利益の侵害する不法行為と認められたことも評価できる」とした。
一方で、Cさんからの電話の録音は、原告が唯一出せた物的証拠だった。法廷で被告側の弁護士は、そのきつい会話を「高校生のふつうの会話だ」と言った。しかし両親には、香澄さんが残した心の叫びに思えた。「それが認められなかったことは残念」と言う。

 元同級生たちの具体的な言動や対応の証拠がないということで、不法行為が認められなかったことに対しても、「これを明らかにしたかったから作文を見たかった。開示してほしいと裁判所に訴えた。しかし、生徒本人が同意しなければ見せられないと認められなかった。」「親には学校で起きたことを知るすべがない。情報が学校だけに偏り、親が蚊帳の外におかれるのはおかしい」と話した。
 弁護団も、「作文をプライバシー保護のため、生徒のためと言って見せてはもらえなかった。どういうことが書かれているのか、片鱗さえわからない。違う形にしてみられる配慮がほしかった。」と話した。

 自殺との因果関係が認められなかったことは、「女の子のいじめは言葉や態度でのいじめが圧倒的に多い。言葉や態度で心が深く傷つくという認識が希薄だ」「言葉によるいじめは証拠としては出てこないが、心に傷を受けた子がどういう人生を送らせなければならないか、世の中に広がっていない」「教師に危機感が足りない」とした。
 また、「耐え難い精神的苦痛を与えた」と不法行為を認めながら、亡くなったことに対しての因果関係を否定したことは、矛盾を感じる」「子どもの心を中心において考えていない。亡くなった過程に対して踏み込んだ判断をしていない」とした。「すべては学校のなかで起きた出来事なのに、自殺との因果関係が認められないことは納得がいかない」と言う。

 学校の調査報告義務違反が認められなかったことに対して、美登里さんは、「学校や教育委員会は知っているのに、親には知る権利がない。」「学校側は調査して報告すれば、ウソであっても義務を果たしたとされるのはおかしい」と憤りを見せた。
 本人の同意を得て一部見ることのできた作文にはいじめを主張した部分もあった。しかし、それを読んだ学校はそのことを隠して、いじめはなかったと両親に報告した。このことに判決文は触れていない。
 
 小森さんは、事件事故が起きたあと、真摯に、事実を明らかにして、加害生徒、先生、親の三者が一緒に検証して再発防止に努めることができたら、この裁判は起こらなかった」と言う。これは、小森夫妻が、裁判を起こす前から、一貫して訴えてきたことだった。その思いは今も変わらない。

 記者から「香澄さんには、なんと報告されますか」と聞かれて、美登里さんは、言葉を選びながら答えた。
 「私たちは、この裁判を香澄とは切り離して考えています。だから、ほかの遺族と違って、法廷に遺影を持ち込んだこともありません。香澄がもし裁判のことを知ったら、『もういいよ。やめて』と言っているだろうと思います。だから、『香澄、ごめんね。やらしてもらうよ』と心のなかであやまりながら、親の納得のために裁判をやってきました」と話した。

 「亡くなったわが子のために裁判をやっている」という親は多い。しかし、小森さん夫妻は、香澄さんに何があったか知りたい、香澄さんを死にまで追い詰めた、その苦しみが何だったのかをわかりたい、という。
「やさしい心が一番大切だよ。その心をもっていないあの子たちのほうがかわいそう」。そう言い残した香澄さん。「他人や親を傷つける気持ちは全くなく、自分自身を痛めた方が気持ち的には楽」「自分はいない方がいいのではないかと思う」と医師に話した香澄さん。ひとを傷つけるくらいなら、自分がいなくなることのほうを望んでしまった「やさしい心」。

 香澄さんはきっと、裁判をしたいなどとは思わなかったろうなと私も思う。
 しかし、両親だって、本当は裁判なんかしたくなかった。香澄さんが愛した吹奏楽部を愛し、廃部になるのを懸命に止めた。被告の生徒たちから、「香澄ちゃんを傷つけた。ごめんなさい」の言葉があれば、辛いけれど、苦しいけれど、許そうと思っていた。
 学校、教師から「私たちが小森さんの訴えを真剣に聞いて、動いていたら、香澄さんは死なずにすんだかもしれません。申し訳ありません。二度とこのようなことの起きないように、がんばりますから許してください」との言葉が発せられていたなら、裁判を起こそうとは思わなかっただろう。

 小森夫妻は、「いじめ裁判の流れからすると、かなり認めているのだろうが、司法がこのレベルの認識ではいけない。まだまだだなと思った。」という。「すべての情報を学校と教育委員会がもっていて、親には知る権利がない。これは今も変わらない。矛盾を感じる。しかし、裁判をしたから、証言のなかで、うそがわかった部分もある。」と裁判をしたことを否定はしない。
 判決が出ても、学校も生徒たちも変わらない。そこから、反省が生まれるわけでも、謝罪が得られるわけでもない、むなしさ。「裁判の判決だけでは抑止力にならない」と新一郎さんが言った。

 この結果を受け止めて、抑止力として生かすも、生かさないも、すべての大人たち、私たち次第だと思う。
 一方で、早くから「裁判の判決だけでは抑止力にならない」と気づいた夫妻は、別の形で、いじめをなくしていく活動に着手している。それは、香澄さんの残してくれた「やさしい心」を伝えていく活動だった。
 
 裁判が、これで終わりになるのか、県側が、あるいはAさん側が控訴する可能性もある。小森さんたちが納得いかない部分もある。それでも、これを一区切りにして、また新たな一歩をようやくここから踏み出してほしいと思う。一緒に、いじめをなくしていくための活動を続けていきたいと思う。




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