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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
ニューヨーク取材日誌

ブルックリンのコミュニティ集会(承前)

今井恭平


宿題その1

 ワイングラス氏は、このコミュニティ集会での発言の冒頭に、いわゆる工業化された国家の中で死刑を存置しているのは2国しかない、一つがアメリカ合州国、もう一つが日本だ、と発言。その日本から今日はムミアの支援者が来ている、と僕のことを紹介してくれた。
 これは、この後のいろんな場で経験したことだが、日本からムミアの支援活動のために来た、と自己紹介あるいは人から紹介してもらった場合、たいてい「それはすごい。わざわざ日本から来たのか」というような挨拶のされ方をするのだが、本当のところはさほど驚いてもいない様子に見えた。ムミアの事件は世界的に注目されている大きな事件なのだし、ヨーロッパなどでは合州国と同様に大規模な集会やデモなども行われているわけで、日本でも相当の大きな支援活動があっても当然だし、そこから人がやって来るというのも、いわば当たり前という感覚があるのだろうと感じた。これは実際とは違うのだが、むしろ彼らの感覚のほうが正常で、アメリカの人種差別など日本と関係のない問題だと思っている感覚のほうがむしろ変ではないかと思った。そのことは同時に、日本人が日本の中にある人種差別や民族差別に無感覚になっていることと表裏の関係にあるのだろう。これは、僕自身がムミアの事件に関わりながら、日本社会の中での人権、人種・民族差別にどう向き合っているのかを問うきっかけにもなった。今回できた宿題の一つなのだが。

ムミアの経歴

 この後のワイングラス氏の発言は、おもにムミアの裁判の情況についての報告で、先に書いたことと重複する部分もあった。だが最初にムミア・アブ・ジャマルの経歴について触れた部分は、このホームページの中でもまだ書いていなかったことを含んでいるし、ムミアという人物の人柄を知る上でも興味深いので、かんたんに採録しておく。
ハーレム地区の街頭で見かけたムミアのビラ
 ムミアはフィラデルフィアで(1953年)生まれた。彼には双子の兄と、妹、弟(ビリー)がいる。兄は陸軍の将校だがすでに退役している。妹も軍の看護婦をしていたが、現在は学位をとってソーシャルワーカーとしてフィラデルフィアで働いている。
 ムミアの一家はプロジェクトで育った(プロジェクトとは連邦政府の住宅政策によって60年代に作られた低所得者用の大規模アパート。ここの出身ということは裕福な家庭ではなかったことを意味する/今井注)
 彼は16歳の時に、自分が通っていた「ベンジャミン・フランクリン高校」を「マルコムX高校」に改名しようという運動を起こす。もちろんこれは受け入れられなかった。ムミア・アブ・ジャマルが最初にFBIによって危険人物としてマークされ始めたのは、じつにこの時にさかのぼる。
 その後ブラックパンサー・パーティのフィラデルフィア支部結成に参加。最初はフィラデルフィア支部の機関紙に記事を書いていたが、才能を認められて18歳の時から同党の全国機関紙に記事を書くようになる。キャスリーン・クリーバー(もとブラックパンサー。著名な弁護士)などは、当時のムミアを文筆の才能のある若者として記憶している。
 ムミアはこの間ずっとFBIの監視下におかれ、後に明らかになるように400ページにものぼる調査記録(コインテルプロ)をとられているが、FBIはムミアの活動に、逮捕の理由となしうるような違法行為をなんら見つけることができなかった。ムミアはもっぱら言論によってたたかった。
 ブラックパンサーがFBIによる相次ぐ壊滅作戦でつぶされた後、彼はジャーナリストとしての本格的な訓練を受け、70年代にラジオ・レポーターとしてプロの活動を開始する。彼がこうした活動を開始した70年代はアメリカにとって特別の時期にあたる。オイルショックに端を発して経済的な困難が襲い、ことにブルーカラーの人々が生活の基盤を脅かされた。こうした中で、フィラデルフィアではもと警察コミッショナーのフランク・リッツォが市長となり、警察支配・警察の暴力が目に余るようになっていく。1978年には史上、空前絶後の事態がおこる。つまり、連邦政府の司法省がフィラデルフィアの警察を法的に訴えるという事態がおこった。この時、一人の若いジャーナリストの報道が、警察の不正・腐敗を告発する資料として使用された。そのジャーナリストがムミア・アブ・ジャマルである。
 78年、フィラデルフィアにあった黒人コミュニティMOVEが警察の襲撃で破壊された事件でも、他のメディアが警察発表をうのみにしてMOVEを犯罪者扱いする中で、ムミアだけがマイクを留置場に持ち込み、MOVE側の主張を伝えた。1979年のある記者会見の席でリッツォ市長は取材に来ていたムミアを指さし、「いつかお前はむくいを受けるだろう」と述べた。そして、その2年後に、市長の予言が実現した。
 1981年12月9日早朝、タクシードライバーとして働いていたムミアがフォークナー巡査殺害事件の現場に行き会わせ、銃で撃たれた上、暴行を受け殺人犯として逮捕されることになる。ジャーナリストである彼がなぜタクシーを運転していたのか。彼は真実を報道し続けた故に、メインのラジオ局から解雇されてしまったのだ。これが、彼が当時、全米黒人ジャーナリスト協会フィラデルフィア支部長の職にあるにもかかわらず、同時にタクシードライバーをして家族を支えなければならなかった理由だ。

反テロリズムおよび効率的死刑法

 集会の後、僕たちはとりあえずマンハッタンまでは地下鉄で戻り、ワイングラス氏はまだ仕事が残っているのか、事務所へ、僕は滞在先のハーレムのアパートに帰ることにする。 その道すがら、いくつかの聞き残した質問などを行った。
 1996年にクリントンが署名して効力をもつようになった法律に、「反テロリズムおよび効率的死刑法」(なんたる名称!正式な名称かどうか知らないが、Anti Terrorism and Effective Death Penalty法と呼ばれている)というのがある。これは、オクラホマの連邦ビル爆破事件をきっかけにできた法律だが、テロ対策を名目に、死刑事件の裁判進行を効率化しようと言う意図で作られたもの。死刑が適用されるような重大事件では、連邦裁判所まで上訴されるケースがほとんど。従来は連邦裁判所も独自に事実審理を行っていたが、この法律は、連邦裁は州裁判所の事実認定を踏襲し、独自の審理を行わないというもの。すでにこの法律が適用された事件はかなりの数にのぼるのだそうだ。しかし、ワイングラス氏によれば、この法が適用された事件はすべて審理続行中で、結論が出た例はまだないとのこと。また、この法を適用して州裁判所の事実認定をそのまま採用するか、独自に審理するかは連邦裁判所の判事の判断一つにかかっているようで、中にはこの法を無視する裁判官もいるということ。ムミアのケースでも、連邦裁判所がどういう判断をするかは、その判事いかんにかかっているという。

 連邦最高裁の判事は終身身分で、選挙によって改選されない点が、州裁判所の判事と異なっている、と何度か彼が指摘した。判事や検察官から州の司法長官、州知事、国会議員などに転身する例が多いので、選挙で選ばれる身分では、死刑執行がキャリアを踏んでいく上でのステップとして利用されること、犯罪に対してタフであることがアピールとなり、より高い地位への踏み台になること、しばしば有名な事件がこうした売名に利用されることと比較すると、終身身分の連邦最高裁判事は、より独立性が高いとみなされているようだ。しかし、彼らがどういう人々であるかは、何とも言えない。
 セクシュアルハラスメントで訴えられたクラレンス・トーマスも、たしかまだこの地位にとどまっているはずだ。

 人身保護請求にあたるヘビヤスコーパスについては、日本の法律家の感覚では、まず絶対に出ないことのようだが、アメリカでは適用例は少なくないということ。別の機会に聞いた説明によると、これは奴隷制時代に解放奴隷の身分を保護するために適用されたという歴史的背景をもっているらしい。
 ムミアに対しても、この適用は一つの手段とは成りうるが、あくまでも再審請求が本筋だ、ということ。正しく選ばれた12人の新陪審員の前で当たり前の裁判さえやれば、ムミアが無実を獲得するのは明らかだ、とワイングラス氏は最後に語ってくれた。

世界各地で人権擁護の活動をするワイングラス氏

彼は、フィリピン、台湾、ベトナム、ロシアなど多くの国で人権問題の調査にいっ たり、裁判を傍聴に行ったりしています。ラムゼイ・クラークの率いる人権調査 団の中に何度も加わっているようで、日本には三里塚闘争の弁護団に招かれて来 たことがあるそうです。今度の土曜日から、またロシアに裁判のウオッチに行く と行っていました。ロシアは何度も行ったというので、ソ連邦解体前と後で何が 一番変わったと思いますか?と聞いたら、; 悪い意味での物質主義がはびこっている、誰もが金儲けに血眼で、誇りを失って いる、と語っていました。もともとロシア人は誇り高い人たちなのに、いまはこ とに若い世代がひどい。と語ってます。

ムミアの事件にかんするメディア報道の仕方については、「very bad ネガティブ」 と吐き捨てるように語りました。なんかメディアのことは多くを語りたくもない という雰囲気。

最後に分かれる時も、かなり疲れているのが様子で分かるのに、僕がタクシーが 拾えるのを確認するまで、いっしょにいようとするので、大丈夫だから、と無理 矢理に別れました。

以下つづく