ジャスティス・フォー・ムミア・コンファレンス
今井恭平
ユリ・コウチヤマのこと
2月13日土曜日、今日は午前10時から夜の9時過ぎまで丸一日つづくジャスティス・フォー・ムミア・コンファレンスが開かれた。会場は、#ユリ・コウチヤマの住むハーレムのプロジェクトからほど近いニューヨーク市立大学。もうすぐ78歳になるユリは、いまでも毎日深夜までパソコンの前に座り、政治的囚人やマイノリティの人権のための運動組織化のため、手紙を書いたり、電話をかけたりしている。彼女がいま一番力を入れている運動の一つは、デヴィッド・ワンという中国系アメリカ人の救援活動。ワン氏は、軽微な犯罪で服役中に、刑務所内で起きた殺人事件に巻き込まれ、現場にいなかったにもかかわらず、英語がうまく話せず、釈明できないことを利用され、犯人にでっち上げられた。現在終身刑で服役中だが、数度にわたって再審請求を起こしている。3月はじめに、ワン氏救援のためのチャリティを行うので、連日忙しく働いている。
したがって、起床はいつもなら10時過ぎなのだが、今日は早めに起きて、出かける支度をしている。数年前に脳卒中をおこして以来、足が不自由なユリは、出かけるときには歩行器を利用しなければならない。ふだんは一人暮らしだから、ゴミを捨てに行くのも、郵便を出すためにアパートのすぐ前の通りにあるポストの所まで行くのも、かなり大変だ。僕がはじめて彼女にファックスで連絡を入れたとき、すぐに手紙で返事が来た。その時はなんとも思わなかったが、彼女にとって郵便物を出しに行くことだけでもどんなに努力を要することかを知ると、毎日多くの仕事をかかえている彼女が、いきなりファックスした僕にすぐに手紙で連絡をくれたことに、今更ながら感激してしまった。
集会などに参加するときは、友人の誰かが車でピックアップしてくれることもあるが、今日は都合がつかず、バスやタクシーを使うしかない。
1ブロックほど離れたアムステルダム通りまで二人で歩き、バスを待ったが、なかなか来ないので、タクシーをつかまえる。わずか数分ほどで会場にたどり着いた。僕一人なら歩いても行ける距離だろうが、ニューヨークは障害のある人には本当に歩きにくい街だ。ガタガタで舗装の悪い道は、歩行器や車椅子ではスムーズな移動は困難だし、段差も大きい。また道の脇にあるビルに入る階段や地下室への入り口などもけっこう歩道にはみ出している。地下鉄の入り口は急な階段だし、エスカレータなどがある駅はごく限られている。
#ユリ・コウチヤマについては、たいへんにすぐれた、そして面白い伝記文学がある。ぜひ一度本屋さんで手に取ってみられることをお薦めしたい。
『ユリ 日系二世NYハーレムに生きる』
中澤まゆみ・著 文藝春秋刊 1998年10月30日第一刷
1762円+税 ISBN4-16-354490-9c0095
10時過ぎに会場に到着。入り口では受付が始まっている。通りかかる人が何人もユリに挨拶をする。彼女はみんなによく知られているだけでなく、多くの人たちから本当に愛されているのが様子でよく分かる。古くからの友人もたくさんいるが、高校生か大学生くらいに見える若い人たちも彼女と挨拶を交わしている。こうした若い人たちも、心から彼女とうちとけている様子は、滞在中、この後もたびたび目にすることになる。
僕もいろんな人に紹介されたが、人の名前と顔を覚えるのが苦手で、日本人でも一度や二度では絶対に覚えられないのだから、まして外国人の名前となると、その場で耳をすり抜けてしまう。しかし、それは相手も同じで、僕の名前をちゃんとすぐに覚える人はいない。かってにヒロシとかいい加減な名前で呼ばれることもたびたびだ。
だが、ここでサフィア・ブカリとパム・アフリカにようやく会うことができた。
パム・アフリカはインターナショナル・コンサーンド・ファミリー・アンド・フレンズ・オブ・ムミアというフィラデルフィア地元のムミア支援組織のオルガナイザー。そして、MOVEのもっとも知られた活動家の一人で、1978年の警察によるMOVE襲撃の際に、彼女の家族も犠牲になっている。(ちなみに、MOVEの活動家たちは、全員アフリカという姓を名乗っている)彼女とサフィアが、きょうのコンファレンスのメイン・スピーカだ。
今回のアメリカ訪問前に、何度かパム・アフリカと連絡をとろうとしたのだが、どうしてもつかまえることができなかった。彼女はしょっちゅう国内を講演などで歩き回っていて、その所在をつかまえるのは、相当に困難なことのようだ。
いきなり警察の介入が
モーニング・セッションが始まったのは11時を過ぎたくらいからだろうか。司会者は大学生くらいに見える若い白人の女性。彼女がものすごい早口で、僕のお粗末な英語力ではほとんど聞き取れない。何人目かのスピーカーの黒人弁護士が話を始めてすぐ、会場入り口から一人の男性があわただしく入ってきて、その弁護士に耳打ちをすると、彼は話を突然中断して会場の外へ飛び出していった。いったい何が起きたんだ、と会場からも声があがる。すると、誰かが「警察官が入ってきた。逮捕者が出たらしい。いったんミーティングを中断して、みんなで警官の行動を監視しよう」という。
その場にいた150人くらい全員が、いっせいに会場を飛び出した。僕はあわててビデオカメラを持って後につづいた。
会場入り口からキャンパスの中庭に出ると、すぐに警官が20名前後いるのが見える。大学の外の道にも、パトカーが数台、警察の大型バンが一台来ているのが見える。
逮捕者が出た、という話はその時点では確認できず、またどういう情況で警察が介入したのかもよく分からない。しかし、警官が大学構内に入ってきたことに対して、みんなで一斉に抗議をする。
No More Diallo, Let them go
というシュプレヒコールが一斉に起こる。No More Diallo とは、言うまでもなく4人のニューヨーク市警の白人警官から射殺されたディアロ氏のことだ。Let them go! と言っているのは逮捕者を釈放しろ、ということのようだ。したがってやはり誰かが逮捕されたらしいと見当をつける。
新聞とテレビなどの報道機関にすぐに連絡を入れ、抗議の記者会見を行うことになる。構内のロビーにもどると、そこに記者会見の場がすでに設定されている。まだマスコミは来ていないが、警官から暴行を受けた、という黒人女性が、涙ながらに情況を訴えている。彼女はきょうの集会のオルガナイザーの一人のようだ。この日の夜、ニューヨークワンというケーブルテレビでこの事件が報道され、この黒人女性とコンファレンスの司会をしていた白人女性による抗議が放映された。黒人女性は、自分のそばに妊娠してる女性がいたので、乱暴しないように言ったのに、警官は彼女にまで暴力をはたらいた、と抗議していた。
警官介入の引き金になったのは、誰かが大学構内から道路に椅子を投げたことが原因だ、とか断片的に耳に入ってきたが、真義のほどはよく分からない。
このニュースにつづけて、警察官による暴行事件が何件かたてつづけに報道されたのは、警察の暴力への怒りが大きくなっていることが、報道にも反映しているということなのだろうか。
記者会見では、何人かが次々に立って発言したが、その中である白人男性の教員が、大学内で、日常的に政治活動への監視が行われていることを指摘。最近も学生がよく使うエレベータの近くに隠しカメラがしかけてあり、活動家の動静を監視している、という報告もされた。
この後、集会は再開されたが、進行が約1時間以上遅れてしまい、夜の8時くらいの予定だった終了が9時を過ぎてしまった。
ユリは、やることがあるし、疲れるから、最初だけ出て早めに帰る、と言っていたのだが、 けっきょく最後までコンファレンスに残っていた。
午後はいくつかの分科会に分かれ、僕は「ムミアについてみんなが知りたいことのすべて」というワークショップに参加。
おもに事件自体のディテールについての話が多かったが、やはりムミアの弟のビリーの行方や、彼がなぜ95年の再審請求の際に証言しなかったのか、あるいはムミア自身が証言台に立たないのはなぜか、といった話題が出たのは当然だろう。
夜の総括セッションでは、ムミアが新しく作ったCDの中から、彼自身による作品の朗読が披露された。「Live from Death Row」を出版したことで懲罰処置を受けたムミアは、その後さらに「Death Blossom」を出版し、さらに新たなCDを出版した。出版活動に対する懲罰処置については、すでに憲法違反で州の矯正局側が敗訴する判決が連邦地裁で出ているのだが、にもかかわらず、ムミアはいまだに法的に可能な一番厳しい処遇におかれており、彼のジャーナリスト活動への報復措置を受け続けている。