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ものづくりエッセイ
京都ものづくり塾塾長 滋野
週刊京都経済 連載記事
第4回 道を切り開いた民の力
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第4回 道を切り開いた民の力 今回は京都の産業史概略について述べたいと思う。 その後、武家政権に移っても、公家の文化は継承され、伝統としての美術工芸は保護された。また、安土桃山期には信長、秀吉が公家文化を洗練させた上に海外の文化が流入し、伝統との融和から新たな形が生まれた。また、茶の湯が起こり、町人が新たな文化の担い手として登場した。 江戸時代になると、様々な様式を積み重ねながら洗練されたことに加えて、京都は手工業中心の都市へと成熟していった。また、地方の諸大名や諸侯が京都のデザインやソフトを自らの領地に持ち込み、各地域に京都の文化を伝播させていった。 一方、この頃活躍した多くの芸術家は、茶道、華道、芸能などの家元というスポンサーの存在によって名声を得た。京都は文化や流行の発信源であり、「京物」というブランドの供給地になったのである。 そういった中で、技術や意匠を競う職人と目の肥えたユーザーのせめぎ合いが「京物」の質を高めてきたことも見逃せない。前回も少し触れたが、工程ごとの分業とそれらを取りまとめるプロデューサーによる製造システムが生まれたのはこの頃である。質の高いものを供給するために生まれた知恵といえよう。 明治維新後、工業化と東京遷都で京都の地位は下がったものの、産業界は新しい生活用品を作り、西洋の技術やデザインを貪欲に取り入れることによって、時代に合った形への革新を図った。また、世界各国の万博に出品し、欧州のデザインへも影響も与えたのである。 京都の産業はこれまで、戦争や災害、政治の混乱などによって幾度となく危機に瀕してきたのであるが、道を切り開いた事例の多くは民の力で、それが官を動かし再興させていったのである。 現在、ハイテク関連を中心とした「京都企業」が強いのは、大企業の系列に属さず、保護も受けず、自力でここまでやってきたからであろう。その成功によって、行政も京都市南部の高度集積地区へのハイテク企業の誘致をはじめた、という経緯にも通じるところがある。 幕末の混乱、明治維新で極度の不振に陥った西陣織の再興に尽力した四世周斎 伊達弥助は「西陣を救う道は、保護を受け入れていたこれまでの甘い夢を破って、自力で、織物業を盛んにすることである。」と述べているが、今こそ人頼みではない「自力」で道を切り開くことが求められているのではないだろうか。 参考資料 『デザインとクラフトマンシップに関する研究T』京都府中小企業総合センター |
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