沖縄県収用委員 第6回会審理記録
新崎盛暉 一坪反戦地主
当山会長:次に新崎盛暉さん。よろしくどうぞ。
新崎盛暉:
え、あの新崎です。前回、伊江島の反戦地主が非常に感動的な証言がございましたけれども、わたしが今日若干追加しようとしていることは、その前回のおひとりおひとりの発言が、戦中戦後の伊江島の歴史相対の中で、どのような位置を占めているのか、というような点について、すこし整理をしておきたいと思います。
やはりスライドを使いたいと思いますので、電気を消して、スライド28からはじめてください。
あの伊江島の、阿波根さんの「ヌチドゥタカラの家」に、ここに今・・・。あれ、見えないね。
あの、ちょっと見えにくいと思いますけれども、「伊江島における土地闘争の経過と軍事基地被害の記録」という年表が11枚にわたって掲載されています。ちょっと、スライドでは見にくいのですが、その一番最初、1943年7月、田村大隊が満州から移動し、飛行場建設2箇所を始める。そして日本軍が300町歩あまりの畑を強制接収したという記述から、この伊江島闘争の経過の記録というのは出てきます。で、あの、沖縄に、日本軍が駐留してくるのは、ほとんどが中国地方から転用された部隊ですけれども、その田村部隊というのが伊江島に配置されるのが1943年、昭和で言うと18年7月ですが、この辺が、まず飛行場建設をはじめます。で、最盛期には、まあ、翌44年の8月くらいには、伊江島に4500人の日本軍がいました。そして、伊江島の人たちを、いわば戦争協力に駆り立てて、そして、飛行場建設を行っています。
スライド3を出してみてください。
で、あの、これは伊江島の全体図です。手前のほうがさきほどの説明のなかにあった、旧射爆場と呼ばれているところです。で、一番手前にあるのが旧射爆場のなかで、ハリアー、垂直離着陸機・ハリアーのいわゆるハリアーパッドになっているところであります。このへんは阿波根昌鴻さんの土地だと思います。その向こうに、要するに演習場外に一本滑走路があるのが見えます。その向こうに米軍の滑走路があります。さらに向こうに滑走路がある、つまり滑走路が3本あって、ずっと上の方にいわゆるタッチュウがありますけれども、この上の二つの飛行場を島の人たちは、田村飛行場とか、国場飛行場とか呼んでいます。それはいわゆる田村大隊がつくった飛行場であるとか、当時国場組が、日本軍の下請としてつくった飛行場ということで、この二つの飛行場は、えー、田村飛行場とか国場飛行場とか、島の人たちに呼ばれているんですが、この話は前回、平安山良有さんの話の中でちらっと出来てきました。そして、戦後、戦時中、この二つの飛行場が作られて、戦後慶良間からもどってきたら、もう一つ滑走路が出来ていた。という話をされたと思いますけれども、この中央にある二つの滑走路が日本軍によって作られた滑走路です。
もう一度、さきほどの、ちょっと見にくい28に戻ってください。
で、こうして滑走路建設等が行われますが、ここに米軍が上陸してくるのは、1945年の、4月16日です。この辺に、書いてありますが、ちょっと見にくいですね。4月16日、米軍上陸というのが、ここにでてきます。で、米軍の、伊江島の戦闘というのは、わずか1週間で2000人の日本軍が全滅し、なくなった村民の方は1500人と言われています。
伊江島の戦争の一つの大きな特徴は他の地域のとおなじように集団自決とか、いろんな問題がありますけれども、島の人たちの多くが戦闘要員として、直接戦闘に参加させられたということがこの島の戦争の大きな特徴になっている。そして、戦争が終わってどうなったかと、これは5月のことでしたけれども、生き残った人たち、約2100名は、約400名が慶留間島へ、座間味村の慶留間です。それから1700人くらいの人が渡嘉敷に移動させられます。で、ここに、書いてあるのは、生き残った村民が慶良間に移動させられて、食う物も食えず、海草とか貝類をあさって飢えをしのぐというような、ことが書かれていますが、この話は、前回は平安山良有さんの話のなかにすこし出てきています。
そして、この、ここが戦場になるというのは飛行場の建設等でわかっていましたから、それ以前に約3000人の人が、今、海上へリポートで問題になっている久志村に疎開をしています。そして、この慶良間に移された2100人の村民は、翌年46年の4月に、え、ま、あのー、なんというんですか、今帰仁とか、本部とかに移動させられて、47年の3月、漸く、全く人のいなかった伊江島、米軍だけしかいなかった伊江島に戻ってくる、ということになります。
そして、47年8月6日という記述がありますけれども、この時、伊江島の波止場で米軍の爆弾を満載したLSTが爆発して、死者103人、重傷21人というような大惨事が起こります。え、弁護士の阿波根昌鴻さんは、本部からその爆発のすさまじさを、ま、見ていると。
(会場から、阿波根昌秀だよの声)
あ、阿波根昌秀さんの、あのー、対岸からそれを、みた記憶があるそうですけれども、子供のころ。そうゆうことで、伊江島の戦中のみならず、戦争がおわってもなおかつ、そういう悲惨な事件が続いていきます。
そしてそのなかで、漸く生活が再建されて、5年経つか経たないうちに、――次に移っていただけますか――1953年に初めて、1953年の7月になると、米軍から強制的な土地の接収通告が出されるわけです。そして1954年の6月に、4戸が強制立ち退きさせられる。そしてさらにその追加の拡張、152戸の立ち退きが、通告されて、そして1955年3月に米軍が、300人が、催涙ガスや救急車等をもって上陸する。そして、3月12日から、伊江島の真謝区を中心にした農民の土地を武力によって強制接収する。それが、前回、阿波根さんの映画での証言等の焦点になっているのがこの部分です。
次に移ってください。
え、こういうことがずっと続いていきます。そして、立ち退きさせられた人たちは、あの、そこに米軍の、いわゆる幕舎生活を強いられることになります。
スライド7をお願いします。
これが、当時の写真です。
8もお願いします。
家を焼かれたり奪われた人たちの、生活がこういう状態であった。で、結局こういう人たちが生活できないために、米軍に奪われた土地に強制的に立ち入りをして実力行使を始めるということになります。
次に移ってください。
スライド、年表の次に移ってください。
で、えー、その、実力耕作をしている農民たちが、米軍によって80数人逮捕されて、そして、あの、即決軍事裁判にかけられる。というのが6月13日、14日。それがさきほどの高宮城清さんの即決軍事裁判、つまり、9人しかいない傍聴人であった、高宮城さんの詩に読まれているのはこのあたりの出来事です。そしてこういうかたちで土地を奪われて、生活補償も打ち切られて、そして、実力耕作をしていたら、逮捕されて、そして、80数名のうち、32名が、先ほどいったように懲役3カ月執行猶予1年ということになったりして、栄養失調者が続出するというようなそういう状況の中で、それでも強制、えー、耕作をやるんですけれども、今度は米軍はガソリンをかけてそこを焼き払うとか、そういうことをやり、遂に万策尽きた伊江島の人びとがやりはじめたのがいわゆる乞食行進です。
スライドお願いします。9をお願いします。
たぶん、那覇あたりだと思いますけれども、何回かこの写真をごらんになったことはおありかと思います。
次をお願いします。
こういう闘いが翌56年の島ぐるみ闘争を沖縄で、島ぐるみ闘争の爆発を招くと言うことになりますけれども、その間も、伊江島では・・、次、32に移ってください。
伊江島では米軍が、あの、ちょっと、年表のほうを。
米軍による、芋を掘っている少年を逮捕するとか、あるいは、模擬爆弾が落下するとか、燃料タンクが落下するとか、あの、演習場外で、逮捕、裁判というのがずっと1950年代の末まで続いて行くわけです。そしてついに1959年には、生活のためにやむを得ず、スクラップや爆弾の解体をしていた人が2人亡くなるということがあります。さきほどの11、12お願いします。
12もお願いします。これが、そのときの写真です。つまり1959年の伊江島の状況を象徴しています。
ではもう一度33にお願いします。
その後1960年代になっても、こういう事件事故は続発し続けます。つまり、演習中の飛行機に銃撃されるとか、あるいは弾拾い中に負傷するとか、そういう事件が次から次へと続発していきます。そして61年と思いますけれども、61年かな。61年の2月に、これは前回、平安山良有さんの発言のなかにありましたけれども、平安山良有さんの甥の平安山良福さんが、演習場の内で、内じゃないですね、演習場の外で、ヤギの草を刈っていたときに、爆弾に直撃されて亡くなる。そしたら、米軍がその亡くなった外側に、線を引き直して、つまり境界を移して、亡くなったあとに境界を移して、これは演習場内に入って草を刈っていたんだから自損行為だというような理由で、補償を行わないということがおこった。これが1961年の話です。
次34番のスライドに移ってください。
そういう中で、1960年代の中頃、頻発したのが、このまえ平安山シズさんの話の中にもあった、パラシュートが民間地域にも落下してくるとか、あの、そういう事故の続発です。そして、この時期、この1960年代の中期というのはどういう時期かと言えば、東京では1964年に東京オリンピックが行われ、高度経済成長が謳われている。そして1964年からは日本の国際収支が黒字になっていく。対外進出が始まっていく時代です。そして、このパラシュート訓練の背後になにがあったのかといえば、ベトナム戦争の全面的拡大がありました。それがもろにこの伊江島という島に襲いかかっていたわけです。
で、こういうなかで、例えば、ミサイル・ホークの陸揚げとかいう問題があり、あの、平安山良尚さんですか、が子供の時にヘリコプターの巻き上げる砂が顔に当たってという話をしていたのがこの時期にあたります。
次に移ってください。
えー、こういう中で、伊江島土地を守る会が生まれたり、団結道場が作られたりします。その団結道場の起工式に、米軍が、ブルトーザーがつっこむとかいうのがこの辺の出来事です。そして、事件事故の続発する中で、沖縄は、復帰を迎えます。
次に移ってください。
復帰を迎えますけど、1974年になっても事故は続発します。事件事故は続発します。この74年の7月には、演習場の外で、米兵のジープが一人の青年を追い回して、至近距離から信号弾で、狙撃をするということが行われています。核模擬弾の投下演習も行われています。こういう中で1976年1月皇太子が伊江島にやってきます。その皇太子が舞い降りたのが先ほどの田村飛行場です。
ここで、この後も、事件事故は次々と続いていきます。
では、光を、電気をつけてください。
こういう形で伊江島の反戦地主たちが前回の発言をせざるを得なかった背景というのを今、おおざっぱに整理をしたわけですけれども、こういう、米軍が、直接支配下で、日本ではできないようなことを沖縄ではやってきた。特に伊江島ではやってきた。そういった、いわば不法、不当、無法な行為を復帰後、日本は公用地法、地籍明確化法、米軍用地特措法、米軍用地特措法の改悪、というような形で形式的に合法化しつつ、契約を強要し続けてきている。それが実態です。
そして、前回の反戦地主たちの一人ひとりの証言は、これに対する民衆の人間としての存在を賭けた抵抗が契約拒否という形で現れているということ、そのことを強調して、わたくしの意見陳述を終わりにします。
(拍手)
当山会長:はい、ごくろうさまでした。つぎに新垣勉さん。お願いします。
年表のスライドは暗すぎて撮影できず省略。スライド7、8、9、11、12は『人間の住んでいる島』から元の写真を引用。