沖縄県収用委員 第5回会審理記録
平安山良有(へんざん りょうゆう) 伊江島反戦地主
平安山良有:
え、わたくし、伊江島、えー、反戦地主の平安山良有(へんざんりょうゆう)です。えー、わたしたち、伊江島には、戦争中にも、に、国場組と日本軍によってですね、飛行場が二つ作られました。そして、わたしたちが、慶良間に行ってる間に、米軍がもう一つ作って、先ほど、写真にもありましたように、3本の飛行場が、あるわけです。
また、城山(ぐすくやま)を中心に、えー、陣地がたくさん作られました。そのお陰様で、わたしたちは、大きな被害を受けております。えー、犠牲者が、村民が1,500名、えっと、日本軍が2,000名、米軍も800名、亡くなったといわれています。全部で、こんな小さな島で、4,300名も、尊い命を亡くしております。
これを、その戦争ってものは、基地が、いや、基地があったから、わたしたち、あの、伊江島のー、犠牲が大きかったということが、あ、なんと申しましょうか、大きかったということであります。
わたくしは、その時、尋常高等小学校の1年でありましたけれども、学校は、えー、軍、軍隊と、飛行場建設のためにー、来ておりました人夫が、占拠しまして、わたしたちの学校は、あ、モクマオウの下でありましたけれども、それでも、学校、あのー、勉強という、どころでは、な、あのー、ありませんでした。飛行場建設と、陣地構築で、奉仕作業、奉仕作業で、勉強するあれはありませんでした。
そして、えー、その戦争も、段々激しくなりまして、戦争から、あー、わたしたち生き残った村民は、慶良間に連行されまして、慶良間で、約1年。慶良間では、食べ物もなく、大変な苦労をしました。そして慶良間で、慶良間から、1年後に今帰仁へ、また1年。
わたしたちが、島に帰ってきたのが、うん、1947年の3月、です。2年間も、自分の島を離れて、帰ってみると、伊江島は、焼け、焼け野原のような、に、なっておりました。あの城山、今青々としておりますけれども、青い木というのは、葉っぱのあるのは、一本もありませんでした。
それから、わたしたち、いー、伊江村民は、米軍が、ブルトーザー、車両で敷き詰めた土地をつるはしで一坪一坪、耕して、芋を植え、ようやく、生活できるかな、と言う時に、わたしたちの土地が、米軍のブルトーザーと銃剣でもって、取り上げられております。
そして、えー、その、おー、土地の、土地取り上げの後の被害は、ほんとに言葉では言い表しきれない、ことがいっぱいであります。
まず、わたしの甥の平安山良福(へんざんりょうふく)が、演習地外で演習弾に当たって亡くなっておりますが、その、後、米軍は、その、おー、亡くなったところを、演習場内だということで、翌日はブルトーザーでまた、鋤き取って、演習地内であるので、補償はしないということ、にもなっております。
また、比嘉良得さん、石川清鑑さんが、おー、スクラップ、演習、演習弾を解体して、スクラップにするために、爆死しております。3名が亡くなっており、まあ、銃弾で怪我をした、人も、網羅すると、ほんとに、十二、三名になると思います。
無法な逮捕もありました。5時からは、演習が終わって、5時からは、あー、演習場内で草刈りとか、芋を、掘るとか、あれも出来よったのですが、その演習が終わるまで、待っている後ろのほうに、移動用の、土地の立入禁止の、看板を立てて、逮捕して投獄をしております。
そういうことが、あります、ので、わたしたちは、戦争に対しての土地は、一坪でも、あ、貸さないというあれが、わたしたちの、おー、これまでの信念で、これからもまた、続けていかなければ、子や孫たちに、なにをしていたんだろうという、言われたらいかないということも兼ねて、そういう思いであります。
まあ、食べるものも無くて、無く、わたしたち真謝区民は、あのー、始めのうちは、一日21円、B円のです、21円の食料費は、あったわけですが、これが、米軍のいうことを聞かないということで、一ヶ月とちょっとで打ち切られまして、その、結果、わたしたちは、乞食行進をして、えー、真謝区民の命をつないで、いたものであります。
えっと、わたしは、石川市、だけしか行っておりませんが、交代で、南は糸満から、国頭のずっと東のほうまで、やっております。
あ、いろいろ申し上げたい、ことは、ことはありますけれども、こっちに立っておるとあがってしまって。ただ、怒りにあれするだけで。
そういうことで、ありますので、わたしたちの土地は、ぜひ、あのー、収用委員会のみなさんも、考慮なさいまして、いい方向でやってもらいたいと、いうことであります。終わります。
(拍手)
当山会長:はい、ごくろうさんでした。それじゃあ、次に平安山良尚さん。