憲法改正是認意識の増大と私たちの課題

一 憲法改正問題に対する国民の意識

 憲法改正の賛否をきく各新聞社の世論調査は、1950年代半ばに反対するものが多数を占めた後、反対が増加し、80年代までは反対が賛成を大きく上回っていた。例えば『朝日新聞』調査では57年には賛成27%・反対31%、68年賛成19%・反対64%、86年賛成29%・反対41%であった。この傾向は他の新聞社の調査においてもほぼ同様の傾向を示していた。
 ところが90年代に入ると賛成と反対が逆転する。ともに93年調査の『読売新聞』では賛成50%・反対33%、『毎日新聞』は賛成44%・反対25%となっている。ここには、90年から91年にかけての「湾岸危機」から「湾岸戦争」の時期にかけて一斉に噴出した「一国平和主義」という憲法への攻撃と90年代改憲論の影響が現われていた。90年代前半には調査を行なわなかった『朝日新聞』調査でも97年には賛成46%・反対39%となっている。こうして93年以降の調査では賛成が反対を上回るという結果が示されている。直近の数字をあげておくと、『読売新聞』賛成54%・反対28%(01.4.5付け)、『朝日新聞』賛成47%・反対36%(01.5.2付け)、『日経新聞』賛成58%・反対33%(01.5.3付け)、『毎日新聞』賛成43%・反対14%(01.9.23付け)となっている。
 90年代前半から今日にかけて、憲法改正に賛成するものが50%前後を示しているが、増大を続けているということではない。しかし『読売新聞』『毎日新聞』調査では、反対するものが減少するという傾向を示している。『読売新聞』調査では反対が30%台から00年以降には20%台へ、そして『毎日新聞』では反対が20%台から00年以降には10%台へと減少しているのである。60年代から80年代にかけてみられた憲法改正に対する抵抗感、警戒心が、90年代以降希薄になっていることは明らかなことと思われる。
 しかし、どのように憲法を改正すべきかについての一つの方向性が示されているわけではない。憲法のどこを改正すべきかについては新聞社の設問項目にバラツキがあって、世論の動向を読み取ることには困難がある。例えば、「改正すべき内容」を改正賛成者にきいている00年『毎日新聞』調査(00.9.29付け)では、「首相公選」55%、「国民投票 制」41%、「知る権利」38%、「分かりやすい日本語に」35%、「自衛隊の位置付け明確化」34%となっており、00年『日経新聞』調査(00.5.3付け)の「現行憲法の問題点」では、「環境権やプライバシー権など時代の変化に対応した規定がない」49%、「地方自治の考え方が不徹底」32%、「行政の介入する範囲が広く、経済活動の自由が明確でない」29%、「二院制など国会に関する規定が適当でない」23%、「戦争放棄などを定めた9条が現実に合わない」22%となっている。01年調査では、「首相公選制」が項目に登場して56%でトップになっている。改正内容についての調査にバラツキがあることは次の二点を示している。ひとつは、憲法改正の統一的方向が未だ形成されていないことを示しており、もう一つは第9条に限定されない広範囲な内容の改正が対象とされていることである。
 本稿は、世論調査に示された国民意識の動向をふまえながら、90年代前半以降に登場してきた憲法改正に対する抵抗感、警戒心の希薄化がなぜ登場したのか、私たちはこうした国民意識の動向にどのように対応していく必要があるのかについて、今日の改憲動向との関わりのなかで検討してみることとしたい。

二 第9条の実質改憲の進行と国民の平和意識の変容

 50年代改憲の時期から憲法改正問題の焦点が第9条の戦争放棄・戦力不保持規定に向けられていたことは明らかであった。50年代前半には第9条改正に賛成するものが反対を上回っていたが(例えば52年『毎日新聞』調査、賛成43%・反対27%、54年『読売新聞』調査、賛成38%・反対30%)、50年代半ば以降反対するものが上回り、反対が増大を続けることになる(例えば『朝日新聞』調査の55年、57年、62年、68年の賛成は37→32→26→19%、反対は42→52→61→64%と推移している)。
 この変化をもたらしたものは、50年代に展開された米軍基地の拡張・新設に反対する闘い、原水爆禁止運動の高揚、「占領政策の見直し・民主化の行き過ぎ是正」の名のもとに強行された「悪法」反対闘争のなかから形成されてきた「自由・人権・民主主義の課題」と「9条・平和主義の課題」とを密接に結合して意識するという平和意識の形成であった。50年代改憲論が、9条の改正にとどまらずに天皇の元首化、人権制約条項の新設、知事の公選制の廃止などの大日本帝国憲法への親近性を示していたことは、憲法改正が戦前社会への復帰であることへの強い警戒感をもたらしたのであった(平和意識の動向については拙書『戦後日本の平和意識』青木書店、1997年参照)。そして60年の日米安保改定以降の日米安保体制の強化の動きに対しては、米ソ冷戦体制のもとで日本を再び戦禍の火中に巻き込むことになるものとして強い抵抗感が示されたのであった。
 ところが89年から91年にかけての「米ソ冷戦体制」の崩壊と「湾岸戦争」における米軍とその同盟軍の圧勝という「二つの戦後」は国民の平和意識大きな変容をもたらすことになった。イラクのクウェート侵略・併合という「湾岸危機」の発生への対応について当時の自民党幹事長・小沢一郎はこう主張した。「憲法の平和主義と国連憲章の理念とは合致する。国連決議の遂行に参加するのは憲法の国際協調主義の実践である。日本だけが平和であればいいというのは一国平和主義だ。従来の政府解釈を変更して多国籍軍へ自衛隊を派遣すべきである。それができないというなら憲法を改正せよ」。90年代改憲論を特徴づける「一国平和主義」論の登場であった。国民の多くの層に存在していた「生活保守」と「紛争巻き込まれ拒否」意識に内在していた「一国平和」論的意識に対するある種の「痛撃」として、この「一国平和主義」論は突きささることになった。
 それでも湾岸戦争それ自体への参加には国民は抵抗感を発揮したが、湾岸戦争後の機雷除去のための掃海艇派遣には抵抗を示さなかった(『朝日新聞』調査で派遣を「よかった」65%、「よくなかった」24%)。こうして「国連協力」「国際貢献」の名のもとに92年のPKO等協力法から昨年のテロ対策特別措置法まで、自衛隊の海外での軍事行動の体制確立に向けての実質改憲が一歩一歩進行することになるのであった。自衛隊のPKO(国連平和維持活動)への参加についてみれば、総理府調査での「賛成」「どちらかといえば賛成」と「反対」「どちらかといえば反対」を合わせた数を91年から00年への推移を見ると、「賛成派」46→80%、「反対派」38→9%となっている。
 こうした変容はなぜ生じたのだろうか。その主要なものは、「米ソ冷戦体制」の崩壊と「戦争形態の変化」であると思われる。60年代から70年代にかけて日米安保体制に警戒感をもっていた国民意識は、米ソ激突のもとで日本が戦争の参加にさらされるという「戦争巻き込まれ拒否意識」であった。しかし米ソ冷戦体制の崩壊は自分たちが重大な惨害をこうむることを拒否するという戦争巻き込まれ拒否意識を希薄化させていった。そして、湾岸戦争、ユーゴ空爆、アフガン空爆は、対等な国家間戦争ではなくアメリカを中心とする一方的殺戮であった。そして日本はアメリカ側に属していた。そこではテレビの映像管理もあって一般民衆が殺戮される戦争の悲劇は実感としては伝えられず、フセイン、ミロシェビッチ、ビンラディン、タリバンという「悪」を征伐する「正義」の戦いであるかのように受け取られることになっていった。そこには戦後日本の平和意識の根底に存在していた「軍」「武力行使」に対する強い否定的意識が弱化され、「正義の戦争」「正義の武力行使」を是認する意識が登場してきていた。こうして「軍隊」「軍事力行使」の是認に対する抵抗感の弱化は、憲法改正に対する警戒感をも希薄化させることになるのであった。

三 政治への閉塞感に対する苛立ち

 憲法改正への賛成の90年代に入っての増大の要因として考えられるものは、政治のあり方に対する強い不満である。それは、「首相公選制」「国民投票制」「知る権利」に対する強い支持となって示されている。93年から94年にかけて「政治改革」の名のもとに強行された衆議院議員選挙への小選挙区制の導入は、国民意思の国会構成への反映を乱暴に破壊することになった。96年、00年の総選挙結果における自民党の小選挙区部分における得票率と議席率は次のようなものであった。96年選挙、38.6%対56.3%、00年選挙、41.0%対59.0%。4割の得票で6割の議席を占めているのである。投じた票が議席に反映されなかったいわゆる「死票率」は、二度の選挙ともに5割を越えている。
 また小選挙区制の導入と300億円を越える政党への公費助成は、社会党の解体を典型とする政党の離合集散、再編を恒常化させている。93年の細川内閣以来、連立政権が恒常化し、いまでは日本共産党以外のどの政党の組合せによっても政権が成立可能という状況を生み出している。
 こうした政治状況のもとですすめられていった90年代の政治は、医療保険に象徴的な社会保障制度の縮小、公教育のスリム化、資本の海外投資にともなう国内産業の空洞化、大企業を中心とする空前の規模のリストラ、「規制緩和」による農業・中小零細企業の淘汰、そして軍事大国化をめざす動きであった。社会内部においては重大な争点として激しい対立が形成されているにもかかわらず、国会内においては基本的な同質性が担保されているという政治の状況のもとにおいて、国民意思の政治への反映のルートが閉ざされ、国民の政治への閉塞感はかつてないほどの高まりを示している。それは無党派層の増大や知事選挙における無党派の知事の誕生としても示されている。
 こうした状況のもとで改憲派が憲法改正意識への水路として設定した「首相公選制」「国民投票制」「知る権利」などへの強い支持が示されることになるのであった。(「首相公選制」導入のための憲法改正という論点設定は、50年代に中曽根康弘が憲法改正への水路として設定したものであり、90年代以降の改憲論にとってもこの憲法改正意識への国民意識の改編への水路としての意味を有している。ただ、今日の「首相公選」論が単に水路としての役割だけではなく、新自由主義改革を強力に推し進める政治体制の確立という実質的意味をも担ってきていることについては、渡辺治編著『憲法改正の争点』旬報社、2002年参照)。このことは、改憲推進勢力である自公保政権への不満・不信が改憲意識増大の一つの温床になっているというパラドックスな事態でもある。

四 「新たな時代」「21世紀の日本の国のかたち」論

 衆参両院に設置された憲法調査会は、00年1月から活動を開始した。改憲推進派にとって憲法調査会の役割は次の三点であった。第一に、憲法調査会において多数派を形成する改憲派の議論をマスコミを通して流すことで憲法改正の気運を育成すること、第二に国会内で三分の二を超える改憲勢力を結集させることを可能とする改正案を作成すること、第三にその改正案への国民の支持を得るための改憲のイデオロギーを構築すること、の三点であった。憲法調査会はその最初には「押しつけ憲法論」に基づく憲法制定過程の論議を行なったが、これは早々に切り上げて「21世紀の日本の国のかたち」をどう構想するかという視点からの論議に移って現在にいたっている。
 この「日本の国のかたち」論の一つの特徴は、「憲法の理念と実態とが乖離」していることを各党派が「事実」として承認して議論していることである。したがってそこでは日本の実態・現実をいかに評価するかが中心的争点になる。すなわち、憲法の理念に即して「21世紀日本」を展望するのか、それとは逆に憲法の理念から乖離した現実に即して「21世紀日本」を展望するのかが根本的な論争点となる。
 改憲推進派が憲法調査会の役割として期待した第一の点はそれなりの役割を果たすとともに、「新たな時代に即応した憲法を」「21世紀の日本の国のかたちを構想する憲法を」という主張は、改憲イデオロギーとして国民のなかに一定程度の浸透を示していると思われる。それは、50年代以降の改憲論に対してはそれが後向きの復古的な色彩をもっていることに対して国民が警戒感を示したのに対して、なにか前向きな未来志向の変革的な雰囲気を醸し出すことにそれなりの成功を示していることによっている。他方で憲法改正に反対することは、なにか現状維持的な守旧的なニュアンスをもたらされるにいたっている。このことは「新たな時代」への対応として目玉的に打ち出している「環境権」や「知る権利」にしても、そうした権利の確立に現実の場面で敵対してきたのが改憲推進派勢力であることをおおい隠すことにもなっている。
 実は憲法の理念の実現こそがそれに敵対している日本社会の現状を根本的に変革する道であり、改憲派はいま推し進められている新自由主義改革と軍事大国化をめざす日本社会の現状を肯定する上に立っているにもかかわらず、それがなにか逆転してとらえられているような雰囲気が醸成されている。

五 憲法理念に基づく「21世紀日本の対抗構想」を各分野での戦いの中から

 現在の憲法問題をめぐる対抗は、明文改憲それ自体をめぐる対抗に焦点があるのではなく、新自由主義改革と軍事大国化の道を突き進んでいる各分野における現場での闘いが憲法問題の焦点を形成している。改憲派は、各分野において憲法の理念に敵対する政策を推進して、憲法の理念と現実との乖離を一層極端にまで押し進め、現実に即した憲法の構築をという主張で、憲法の明文改正によって総仕上げをはかろうとしている(改憲派がめざす日本の国家・社会の有り様については前掲渡辺治編著参照)。
 医療改悪に反対する闘い、教育のスリム化に反対する闘い、リストラに反対する闘いなど、一つ一つの闘いに際して、私たちはそれが憲法が描く理念にいかに敵対しているのかを鋭く批判し、憲法の理念に基づくあり方はどのようであるべきなのかを具体的に提示していくことが、今日の憲法闘争の焦点を形成している。各分野の闘いのなかから提示されてくる憲法に基づく日本の国家・社会のあり方を「21世紀日本の国のかたち」として私たちの対抗構想として練りあげていくことが問われている。そこでは個々の条文の学習ではなく、憲法の描く国家・社会の理念を総体としてとらえる学習が必要になる。その際、憲法が描く「平和」観、「自由と平等」観、「生活と暮らし」観は、重要な領域を形成する(拙稿「日本国憲法が描く『この国のかたち』」『日本の科学者』00年6月号)。
 いま、日本社会を席巻している「規制緩和」「自立・自助・自己責任」「自由なる競争」というイデオロギーは、時代を1世紀半前に逆戻りさせ、資本の野放図な展開を確保させようとするものである。こうした「現実」に対して、憲法25条から28条の社会権条項の基礎にある理念は真っ向から対立するものとなる。「生存権」「教育権」「勤労権」「労働基本権」の条項を貫く理念は、人々が充実して生活していくためには、個々人の「自由と平等」の基礎の上に、人が「孤立した存在」ではなく「社会的=協働的存在」であり、人が成長・発達していくためには、人々の社会的連帯とそれを可能にする社会的システムが不可欠であることを歴史的に確認してきたものであった。
 00年5月3日付け『日経新聞』は憲法問題に関する主張を掲げたが、そこでは「市場原理を基本」とした社会を実現していくために「福祉国家目標の根拠となっている25条の問い直しがまず迫られる」と主張し、このことは「経済的自由を制約する根拠となっている22条と29条の公共の福祉をめぐる考え方にもつながってくる」として、資本の野放図な自由を制約する根拠規定となっている22、29条の「公共の福祉」規定の削除を主張している。25条は明文改憲の焦点とはなっていないが、現実に進行している憲法理念に敵対する政治の進行の場面では最も鋭い憲法問題となっているのである。
 「弱肉強食」「優勝劣敗」の原則は常に資本の論理であった。「仲間を助け、仲間と連帯する」ことが労働の論理であった。憲法25条から28条の社会権条項を築きあげてきた歴史から私たちは、いま、改めて憲法が描く「人間像」「社会像」を鮮明にすることが問われている。

六 第9条に基づく国際平和の構想を

 90年代に入って国民の平和意識に変容が見られることは確かなことと思われるが、第9条を擁護する意識には依然根強いものがある。第9条についてきいている00年『毎日新聞』調査では、「戦争放棄条項の削除」5%、「自衛隊は自衛のための戦力であることを明記」36%、「現在の条文をそのまま残す」20%、「非武装中立の立場をより明確に」26%となっている。9条の改正と支持とにくくると改正41%対支持46%となり、拮抗しつつも支持が上回っていた(設問項目が異なるが01年調査では47%対46%となっている)。現代改憲論の焦点である「自衛隊の海外での武力行使」を可能とするかどうかについては、「海外での武力行使も認める」27%、「認めない」49%、「海外派遣は一切認めない」14%となっている。27%対63%の大きな差で、自衛隊の海外での武力行使には強い拒否を示している(01年調査でもPKO活動は認めるが武力行使は認めないとするものが多数を占めている)。また01年『朝日新聞』調査では「戦争を放棄し、軍隊は持たない」とする第9条を「変えない方がよい」とするものは74%の多数にのぼっている(97年調査では69%)。しかし他方で01年『読売新聞』調査では、改正賛成者の理由のトップが「国際貢献など今の憲法では対応できない新たな問題が生じているから」が51%と群を抜いており、「国際貢献」「人道的貢献」論が9条改正への国民的合意形成へのテコとなる可能性をはらんでいるともいえる。
 戦後の改憲論議において第9条が焦点となり続けていることは一貫しているが、その取り上げられ方は大きく変化している。70年代までの対抗軸は、安保・自衛隊体制それ自体が合憲か違憲かにあったが、90年代に入ると合憲・違憲の座標軸は、90年代前半にあっては「自衛隊の海外派遣の合憲・違憲」に移り、後半にあっては「日本の領域外における自衛隊の武力行使の合憲・違憲」へと大きく転換されることになった。別の視点から表現すれば70年代までの第9条の取り上げられ方は「日本の安全保障」という視点からのものであったのに対して、90年代から現代改憲論議は「日本が国際平和にいかにかかわっていくのか」という視点へと転換されていった。94年11月の読売新聞社の「憲法改正試案」が第3章「安全保障」で「自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための組織を持つことができる」とした上で、第4章に「国際協力」の章を設け、「平和の維持及び促進並びに人道的支援の活動に、自衛のための組織の一部を提供することができる」と規定したのは、90年代改憲論の特徴を典型的に示していた。
 90年代改憲論は、それまでの政府の解釈改憲を新たな段階へと押しやる効果を果たして、PKO等協力法から新ガイドライン体制の成立をみることになるのであった。武力行使と「一体化」しないかぎり日本の領域外での米軍への軍事支援行動をすること可能とする新ガイドライン体制の基盤の上に、さらなる体制構築をめざしているのが現段階である。そこでは海外での武力行使を可能にする体制をめざしての明文改憲が課題として登場してきている。しかしここで注意しておく必要があるのは、明文改憲をめざす現代改憲論にあっても、集団的自衛権行使否認の政府憲法解釈の変更、そしてそのことを盛り込んだ「国家安全保障基本法」の制定といった解釈改憲、立法改憲を先行させ、その既成事実の上に憲法改正に突き進むといった路線が主流になっていることである。ここでも憲法問題をめぐる対抗は、有事法制の制定をはじめとする現実に進行している場面での対抗が焦点となっているのである。
 この対抗の場面で重要なことは私たちの側が国際平和の構想を体系的に提示することである。80年代までの日本において「平和」はいわば「国内問題」として意識されていた。安保・自衛隊体制のもと日本が紛争に巻き込まれることを拒否し、基地や軍によって生活が侵害されることを拒否することが主要な側面であり、日本が能動的に国際関係でいかなる役割を果たすのかという点は十分には意識されてはこなかった。しかし「米ソ冷戦体制の崩壊」のもとでの「国際貢献」「国際的責任」論の展開とそれをもたらした日本資本主義のあり方の変化は、「平和」を「国際問題」として意識させることになった。日米安保体制が明確に質的な転換を開始し、アジア・太平洋地域における支配秩序維持・形成として日米共同軍事行動体制の構築に乗り出しているとき、私たちには第9条の平和主義原理を、アジアの、世界の平和主義原理として構築する構想を提示することが問われている。
 この構想をこの小論で展開することはできないが、私たちの運動が安保・自衛隊体制に課してきた制約の国際化という視点にふれておきたい。第9条を守り豊かにさせてきた私たちの運動は、安保・自衛隊体制を否定することはできなかったが、その野放図な展開を阻止して、さまざまな制約をそれに課してきた。すなわち、軍事力の保有を「自国防衛」に限定するという「専守防衛」論、それに基づく集団的自衛権行使の否認と保有兵器への限定、海外派兵の禁止、武器輸出禁止三原則、軍事費の上限設定、徴兵制の否認そして非核三原則などである。80年代以降、とりわけ90年代の軍事大国化への動きの中でこれらのいくつかは撤廃されたり、風穴をあけられたりしているが、その大半は公式の建前としては今も政府が認めざるを得ないものとなっている。今日の世界史の段階で軍事力の撤廃を国際社会に提起することには困難があるが、各国の軍事力のあり方に対してこれらの制約を提起することは十分に現実的基盤が存在するものである。
 アメリカのこれまで築き上げられてきた国際法秩序を破壊する「9.11」以降のきわめて物騒な軍事力行使による支配秩序形成への道に対する国際的批判の輪を形成する中から、「軍事力への制約・縮小・撤廃による国際平和の構築」の道を提起することが問われている。

七 地域から広範な連帯の輪の構築を

 国会議員に対する02年の『読売新聞』の憲法調査(02.3.22付け)では、全体で憲法改 正に賛成71%・反対24%となっている(第9条改正を求めるもの55%、回答率65%)。政党別では自民党97%、自由党、保守党100%、民主党65%、公明党64%が賛成、共産党、社民党は100%が反対している。国民意識と国会内意識との乖離は著しいものがある。また各論をみても『読売新聞』自身が語るように「国会議員と一般国民の意識に大きな違い」が見られる。改正理由として、「自衛権を明記し、自衛隊の存在を明文化するため」が国会議員では64%だが、一般国民では19%にすぎない。この政治への国民意思の遮断という現象が憲法改正の一つの気運をもたらしていることはすでに指摘したが、私たちは地方政治の場面から国民意思に基づく政治の実現をはかる努力を強化していく必要がある。
 NHKの「社会行動性」に関する調査では、「政治」「職場」における領域ではその活動性が70年代以降減少傾向を示しているが、「地域」における活動性は90年代に入って増大を示している(NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造(第5版)』日本放送出版協会、2000年)。このことは住民運動の高揚にも示されている。
 新自由主義改革による生活・暮らしの破壊は私たちの生活・暮らしの場である地域で目の前に現われている。共産党、社民党を含む広範な人々の共闘した力で、地方政治の場から住民意思に基づく政治の実現という体験をつくりだしていくことは、憲法改正に対抗していくうえでも重要な課題となっている。
 紙数がつきてきたので最後にドイツ・ファシズム台頭に対するドイツ民衆の教訓としていわれている「発端に抵抗せよ、終末を考慮せよ」という言葉を紹介したい。これは「ドイツ・ファシズム台頭までには何百という段階があった、どの段階も次の段階でショックを受けないような準備をしている、第二段階で抵抗しなければなぜ第三段階で抵抗しなければならないでしょうか、こうして事態は第四段階に進みます」という教訓からでたものであった(M・マイヤー『彼らは自由だと思っていた』未来社、1983年)。すなわち、いま起きている状況が突き進んでいったらどういう事態をもたらすかを見通す力を持ち、その発端で抵抗することが不可欠であるというものであった。第9条の形骸化はまさにこの通りに90年代に進行していった。私たちは、自らが終末を見通す力を持つとともに、それを人々に語りうる力量をもっていく必要がある。そのためには、それぞれの分野での闘いを「21世紀日本の構想」と結びつけ、憲法の理念と結びつけて論議し合うことが問われている。

和田 進(神戸大学)

(『国公労連調査時報』02年5月号より転載)

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