はじめに
本ホーム・ページの運営グループから、集団的自衛権について論説を書いてもらえないかと、相談を受けた。そこで、私が今まで調べたことのある政府の集団的自衛権論を基礎にして、小泉政権下の議論について若干の検討を加えることとしたい。ただし、小泉政権下の議論については、主として新聞記事によった簡単な検討にとどまることを、予めお許しいただきたい。市民の方々が問題を考えるうえで、参考にしていただければ幸いである。そのつもりで書き始めたのだが、やや難しくなってしまったかもしれない。
一 国連憲章と集団的自衛権
はじめに、国連憲章における集団的自衛権の位置づけについて、ごく簡単にふれておきたい。戦争を制限しようとする流れのなかで、国連憲章は武力の行使等を原則として違法とした(2条4項)。その原則に対する違反者が加盟国のなかで出た場合に、他の加盟国が制裁を加える集団的安全保障の体制をとっている。そのなかには軍事的制裁(42条)も含まれ、日本国憲法の平和主義の立場からすると、問題も指摘することができる。例えば、アメリカやロシアのような軍事大国に軍事的制裁を加えれば、第三次世界大戦を覚悟しなければならなくなる。したがって実際上、軍事的制裁は小国に加えることはできるが、大国に加えることはできない。
さらに、この集団的安全保障に対する例外として、憲章51条は以下のように個別的・集団的自衛権を認めている。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」
この規定は、集団的自衛権を「固有の権利」としているが、国連憲章によって初めて規定されたものである。集団的自衛権を根拠に、北大西洋条約機構やワルシャワ条約機構のような、軍事同盟が正当化されてきた。また、アメリカのベトナム戦争やソ連のアフガニスタンに対する軍事行動のように、国際世論のなかで評判の良くないものも、集団的自衛権を基礎にした軍事行動の例として、日本政府によってあげられている。
このように、集団的自衛権は戦争を拡大する論理として機能する要素をもっている。
二 従来の政府見解
1 前提となる議論枠組み
憲法9条の戦争放棄規定のもとで、自衛隊や安保条約を正当化する政府の基本的な根拠は、自衛権である。政府によれば、憲法は自衛権を放棄しておらず、そのための必要最小限の自衛力は認められるとする。そこから、個別的自衛権は必要最小限のものとして認められるが、専守防衛が要求され、海外派兵とともに集団的自衛権は認められないとされてきた。これらは(憲)法的制約であり、政策的制約としての武器輸出3原則や非核3原則とは区別されてきた。
政府の集団的自衛権論は、防衛白書によれば、以下のように要約されている。
「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然である。しかし、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」
自国を防衛することは必要最小限のことであるが、外国を防衛することは必要最小限を超えるというのである。このような政府の集団的自衛権論の原型は、1960年安保をめぐる論議のなかで形成されてきた。しかしながら、国際法上集団的自衛権を有していることは、「主権国家である以上当然」とする説明は、シー・レーン防衛とのかかわりで1981年から82年にかけて、取り入れられたものである。
2 集団的自衛権の手段
以上のような集団的自衛権論から、実質的には共同軍事行動と見られる行為も、「実力」によらなければ、集団的自衛権に当たらないと説明されてきた。「実力」は武力とほぼ同意義で使われている。
「実力」によらないために、集団的自衛権に当たらないとされてきた代表的なものは、経済援助や基地の提供である。そこから、安保条約6条によるアメリカへの基地提供は、お座敷を貸しているようなもので、集団的自衛権に当たらないと説明されてきた。
1997年の新ガイドラインの実施のための後方地域支援等は、武力の行使等に当たってはならないとされている(周辺事態法2条2項参照)。基本的な説明は、以下のようなものである。「後方地域支援は、……それ自体は武力の行使に該当せず、また米軍の武力の行使との一体化の問題が生ずることも想定されないものであります。したがいまして、憲法との関係で問題が生ずることもなく、集団的自衛権の行使につながるものでもありません。」(小渕恵三首相、1999年1月22日、参院本会議)。
3 集団的自衛権の目的
前述の防衛白書によれば、集団的自衛権は「外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」、「阻止する権利」である。そこから、実質的に共同軍事行動と見られるものであっても、個別的自衛権の行使としてとらえられる場合には、集団的自衛権には当たらないと説明されている。
そこで政府によれば、安保条約5条における日米の共同防衛は、日本の領域に対する攻撃の場合であり、個別的自衛権の問題ととらえられている。日本の領域内におけるアメリカの基地への武力攻撃に対して、日米の個別的自衛権の共同行使が可能になるとされている。
個別的自衛権を行使できる範囲は、「必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られない」。すなわち、日本の領域への武力攻撃に対する反撃が領域外で行われる場合や、日本の領域外における日本の艦船等への武力攻撃に対する反撃が行われる場合がある。そこから、個別的自衛権の共同行使は集団的自衛権ではないという説明が、日本の領域外にも適用されていった。前述の防衛白書における集団的自衛権の定義によれば、「自国が直接攻撃されて」いれば、「外国に対する武力攻撃を」「阻止」する結果になっても、集団的自衛権には当たらないということになるのであろう。これは「結果理論」と呼ばれている。新ガイドラインに基づく後方地域支援等が武力攻撃を受けた場合、個別的自衛権の行使が可能になり、それによって米軍が助けられる結果になっても、集団的自衛権の問題にはならないことになる。
以上のように政府によれば、集団的自衛権は「実力」による「外国」の防衛である。そこから、実質的には外国との共同軍事行動と見られる行為であっても、@「実力」を行使していない、あるいはA「外国」のためではないとされる場合には、集団的自衛権に当たらないと説明されてきた。逆に言えば、「外国」のために「実力」を行使することは、集団的自衛権の行使として許されないという制約が存在してきた。
4 「一体化論」とは一体何か
以上の論理を具体化したものとして、武力行使との一体化論がある。1990年代に入り、PKOから周辺事態に至る論議のなかで、武力行使との一体化論が前面に出て、政府の憲法論のなかで中心的な役割を果たしてきた。いわゆる一体化論とは、行政法制研究会の定義を借りれば、「それ自体は直接武力の行使を行わない活動について、これが憲法第9条との関係で許されない行為に該当するかどうかについては、他国による武力の行使と一体となるような行動としてこれを行うか否かにより判断すべきであるとの考え方を指す」。個別的自衛権を超える場合、自国の武力の行使等が許されないばかりではなく、外国の武力の行使等と一体化する行為も禁止されるというのである。
このような議論とつながる論理は、基地の提供等を合憲とする前述の見解に、抽象的には含まれていたと言いうる。基地の提供等それ自体は武力の行使等に当たらず、外国の武力の行使等と一体化していないので、合憲だと考えられていたからである。しかしながら、80年代までの議論は一般論であり、90年代に入って、個別ケース毎に、行為主体に即して、「参加」と「協力」を区別し、一体化論は総じて精緻化していった。
結論的に言えば一体化論は、武力行使だけではなく、武力行使しなくても、外国の武力行使と一体化したものまで、禁止する論理形式をとっている。そのため、個別的自衛権合憲論の政府見解を前提にして、立憲的統制を整理したものという面をもっている。しかしながら別の面から見れば、武力行使目的の活動に、武力行使と一体化しないとされる形で、関与することを可能にしたものである。そこで、前述のように「後方地域支援は、……それ自体は武力の行使に該当せず、また米軍の武力の行使との一体化の問題が生ずることも想定されない」と説明されることになる。
三 小泉政権下の議論
1 集団的自衛権禁止の見直し論の経緯
アーミテージ現国務副長官ら超党派による2000年10月の対日政策報告書は、日本の集団的自衛権の禁止が「同盟協力の制約」になっているとし、禁止の解除を求めた。日本でも集団的自衛権禁止の見直し論が進行し、小泉政権下で論議が活発になっている。2001年5月8日政府は、社民党の土井たか子議員の質問主意書に対する答弁書(答弁第58号)を閣議決定したが、そのうち集団的自衛権に関する部分は以下のようになっている。
「政府は、従来から、我が国が国際法上集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えてきている。憲法は我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第9条については過去50年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える。他方、憲法に関する問題について、世の中の変化も踏まえつつ、幅広い議論が行われることは重要であり、集団的自衛権の問題について、様々な角度から研究してもいいのではないかと考えている。」
集団的自衛権の禁止について、前述のように従来の見解では「考えている」とされていたが、この答弁書では「考えてきている」とされている。すなわち、「考えている」と現在形で表現されていたものから、「考えてきている」と言わば現在完了形のニュアンスを込めたものに変えられている。それは、集団的自衛権についていわゆる論憲を説き、「解釈の変更」の可能性に言及した後半部分に対応しているのであろう。
2 見直し論の政治的目的
見直しの政治的目的として、日米関係の長期的な再編を別にすれば、具体的に言われていることは、後方支援の拡大、シー・レーン防衛の拡大、ミサイル構想における役割の増大などである。後方地域支援の限定が後方支援の制約になっているとし、後方支援の拡大を模索する動きがある。日本はシー・レーン防衛の範囲を1000カイリに限定してきたが、マラッカ海峡やペルシャ湾までの拡大を求める声がアメリカのなかにある。日本は近隣からの攻撃に対する弾道ミサイル防衛(BMD)構想の共同研究に専念していたが、長距離ミサイルからアメリカ本土を守る国家ミサイル防衛(NMD)構想を含めて、ミサイルを発射直後に迎撃する構想に関して、研究面などでの日本の参加を求める動きも、アメリカのなかで出ている(日本経済新聞、5月13日)。
3 見直し論の法的意味
以上のなかで、政府が直接に言及している後方支援の拡大について、従来の政府見解との関係でその法的意味を簡単に検討してみることとしたい。
5月15日衆院予算委で小泉首相は、「日本が他国の領土に行って武力行使することはありえない」とし、「武力行使を伴わない後方支援はどういうことが出来るか、研究が必要だというのが真意だ」と述べている(朝日新聞、5月16日)。さらに、6月6日の党首討論のなかで小泉首相は、「後方地域が何かという問題が出てきた場合、定義についてはいろいろある」と答えている(朝日新聞、6月7日)。5月25日防衛庁防衛研究所委託の「防衛戦略研究会議」がまとめた報告書は、「解釈の変更を要するのは……一体化論で、後方支援を厳密な意味での集団的自衛権の枠外とする解釈変更が必要」と言う(日本経済新聞、5月28日)。この報告書の提言は、政府の構想を見極めるうえで、一つの参考になろう。
まず、一体化論を前提としつつ、後方支援を拡大する可能性がある。前述の1999年の小渕首相の答弁は、「後方地域支援は、……それ自体は武力の行使に該当せず、また米軍の武力の行使との一体化の問題が生ずることも想定されない」としていた。言い換えれば、前線での後方支援は、「一体化の問題が生ずることも想定され」るが、すべて一体化するとは言われていない。前線と後方の区分けを見直しつつ、従来前線とされてきた地域での後方支援のなかで、米軍の戦闘行為と一体化しないものを模索する可能性があるのではないであろうか。
一体化論自体を見直す場合、その憲法論は相当困難である。一体化論は「憲法9条から発する」制約として、「憲法解釈の当然の事理」(大森政府委員、1997年11月27日、衆院安保委)であり、「客観的」な「法的評価の問題」であるとされていたからである。従来の憲法解釈の変更に踏み込むことになろう。
一体化論の見直しは、集団的自衛権論の基本構造の見直し論に至る可能性がある。まず、集団的自衛権を国際法上有していることと、憲法上その行使が許されないこととのあいだには、憲法上有しているかどうかという問題が論理的にはある。過去の国会論議において、憲法上あるいは国内法上集団的自衛権を行使できないとしても、その前提としてもっているのではないかという質問が出されたことがある。それに対して、全く行使できないから、「持っていると言っても、それは結局国際法上独立の主権国家であるという意味」しかなく、「観念的な議論」であり、「持っていないと同じ」という説明がされた(角田(禮)政府委員、1981年6月3日、衆院法務委)。この点が問題にされる可能性がある。
さらに、自衛権は必要最小限のものでなければならず、集団的自衛権は必要最小限の範囲を超えるとされてきた。それに対して過去の国会論議において、「必要最小限度」の「範囲を超えない集団的自衛権の行使は全くあり得ないのでしょうか」という質問が出されたことがある(前原誠司議員、1997年12月2日、衆院本会議)。このときは否定の答弁がなされているが、集団的自衛権論の見直しに取り組む場合、必要最小限の集団的自衛権という定式化は、一つのステップとして出されるかもしれない。
4 見直しの方法
実質的な改憲の実際上の方法として、一般的に明文改憲、解釈改憲、立法改憲などの言い方がなされ、集団的自衛権論の見直しについても多様な論議が出されている。見直しの範囲やレベルについて論議が確定しておらず、それに応じて、また世論の動向もかかわり、見直しの方法も確定していないのであろう。
そのなかで、国会決議という方法が提案され、小泉首相も「国会決議も一つの方法ではないか」という答弁をしている(5月15日、衆院予算委。朝日新聞、5月16日)。決議は議院によってなされ、全会一致によることを例としているが、大多数の賛成による場合もある。両院一致による決議であっても、法的拘束力を有しているわけではなく、国会に対する内閣の連帯責任(憲法66条3項)から、政治的拘束力を有している。このように、国会決議は容易に実現できることではなく、また法的効力の点でも問題を含んでいる。むしろ、国会決議という提案によって、見直し論に向けた世論へのインパクトが考えられているのであろう。そのために、内閣に対する国会のリーダーシップの形式が、使われようとしているように思われる。
長年内閣が積み重ねてきた憲法解釈を内閣自身が変更する場合、内閣の責任や信用に重大なかかわりをもつ。内閣法制局が憲法解釈を固めるうえで実際上大きな役割を果たしてきたとしても、その解釈の責任は内閣にある。変更の内容が憲法解釈にかかわる場合には、政策の変更とは異なる大きな意味をもとう。ちなみに、この点について過去において、以下のような答弁がなされている。「政府の憲法解釈等につきましては、……論理的な追求の結果として示してきたものでございまして、一般論として言えば、政府がこのような考え方を離れて自由にこれすなわち憲法上の見解を変更することは、そういう性質のものではない」。「特に、国会等において、……議論の積み重ねを経て確立され、定着しているような解釈につきましては、政府がこれを基本的に変更することは困難であると考える次第でございます。」(大森(政)政府委員、1998年12月7日、衆院予算委)
さらに、内閣ではなく国会が、憲法解釈(の変更)を行うことも考えられる。最高裁判所の判決が確定するまでは、有権解釈は法的には国会が行うことになろう。しかしながら、国会による有権解釈が機能するためには、真剣な憲法論議と世論との往復運動が条件になる。事態が実際に示しているように、国会を中心にした政治の世界は、民主主義とともに立憲主義の場でもあることが、もっと自覚される必要があろう。
おわりに
個別的自衛権合憲論を基礎にして、「武力行使との一体化」論に至った政府の憲法解釈は、一定の軍事力を正当化するとともに、それに歯止めをかけるという、二面的な役割を果たしている。法的にそうであるばかりではなく、実際面でもそうである。後方地域支援のように、しばしば軍事的常識に反すると批判されるほど、多くの重要な軍事活動を合憲化するとともに、実際の軍事活動に制約を加えている。
したがって政府の憲法解釈には、軍事力正当化の複雑な政治状況に規定されつつ、憲法の平和主義とそれを支える世論が反映している面がある。憲法の平和主義規定と世論がなければ、今あるような政府の解釈は存在しなかったからである。個別的自衛権論を基礎とする政府の憲法解釈は、非武装平和主義の憲法解釈によれば違憲であるが、限定された立憲主義も含んでいる。政府の憲法解釈を出発点にして、憲法の平和主義の実現を目指すのか、憲法の平和主義から離れていくのか。その点を選択しようと、考えてみてはどうであろうか。
2001年6月15日
浦田一郎(一橋大学)
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