はじめに
本稿は拙稿「ハリウッド映画を読む」を、昨年11月に脱稿した後に見た2001年の映画2本について評論を行なうものである。なぜこのような文章を書くことにしたかあらためて説明すれば、その巨大な資金力をバックに、今や日本の映画界もハリウッド映画に文化的な占領を受けているからである。これら映画の中には法的視点から考えれば非常に問題のあるものが多いのだが、おそらくそれらを見る多くの観客が、その問題点を特に気にすることもなく、「楽しかった」「面白かった」で終わってしまう可能性がある。しかし、法律家としては許せない描写も見られる。大資本を相手に名もない一研究者の批判は非力ではあるが、一つの問題提起として受け止めていただければ幸いである。
反米テロリストを殺して「大団円」
まず、1本目は『ソードフィッシュ(Swordfish)』(ドミニク・セナ監督、2001年)である。この映画の内容はこうだ。1980年代初頭にアメリカの麻薬取締局が麻薬資金の流れをつかむためにダミー会社を作って「ソードフィッシュ」という極秘作戦を行なった。この作戦の過程で予想外の利益が出てしまい、作戦終了後4億ドルの利益はその後利子と共に銀行で眠り続け、今や95億ドルもの額になってしまう。この政府の不正な闇資金を元モサドのスパイであるガブリエル(ジョン・トラボルタ)が、天才的ハッカーのスタンリー(ヒュー・ジャックマン)を雇って、彼に銀行のコンピュター回線に侵入させ、資金を奪おうする。ガブリエルは熱烈な愛国主義者であり、反米テロリストからアメリカを守るために武装集団を組織し、奪った資金をそのような活動費に充てるのが狙いであった。これに対して、サイバー犯罪取締官ロバーツ(ドン・チードル)をはじめとするFBIが取り締まりに乗り出すのである。
しかし、この映画は複雑である。誰が善人で誰が悪人かを単純にはっきりと描き分けていないからである。ガブリエルは自分の作戦を遂行していくために、関係ない者も平気で殺してしまうような悪人であるが、彼が奪う対象は政府の闇資金であり、彼の裏のスポンサーには上院議員の犯罪対策委員会議長がいる。スタンリーは前科のあるハッカーであるが、それは彼がFBIの市民メール監視システムに憤慨し、そのシステムを破壊したからFBIにより犯罪者とされてしまったのである。FBIもガブリエルの犯罪行為を取り締まる側である一方、通信の秘密及びプライバシー権を侵害して市民を監視する側でもある。したがって、それぞれが自らの「正義」に基づいて行動していながら、それぞれ他者からは「不正義」と見なされるのである。
物語としては、最後の方で逃走しようとしたガブリエルらが乗ったヘリコプターが撃墜され、彼の計画は失敗したかに思われる。映画自体も、一見、麻薬取締局の闇資金作りやFBIの市民監視に対して批判的視点を投げかけているともとれなくもない。しかし、この映画は、その後、反米テロリスト・ビンハザードが何者かによって爆殺されるところで終わる。映画自体は「9・11」以前に製作が進められたものとはいえ、アメリカがアフガニスタン「報復戦争」以前から追っていたビンラディン氏ならぬビンハザード(hazardは危険の意味)を、最後に暗殺してしまうところが巧妙である。もちろん、モサドとはイスラエル中央情報局のことである。
結局、この映画は正義と不正義に関する多種多様な捉え方を観客に提示しているようでありながら、結局それらはアメリカ国内での争いに過ぎず、一歩国外に足を踏み出せば、アメリカの敵がはっきりと描かれているのである。ビンハザードがなぜ対米テロに走るのか、どういう人物かは一切描かれていないし、彼を裁判で裁こうという視点もない。法も介在させず、ただ殺されるべき人物としてしか描かれていないのである。
アメリカが国際法に優越する
もう一つは『スパイ・ゲーム(Spygame)』(トニー・スコット監督、2001年)である。話は以下の通りだ。ベルリンの壁崩壊後2年が経った1991年、CIAの作戦担当官であるネイサン・ミュアー(ロバート・レッドフォード)が引退の日を迎えようとしていた。そんな時に、彼が育てたCIAエージェントのトム・ビショップ(ブラッド・ピット)が、中国の刑務所である人物の救出作戦に失敗し、中国当局に捉えられ、24時間後に処刑されることになる。CIA当局は、アメリカ大統領の訪中が差し迫っていることから、ビショップを見殺しにしようとする。それに対して、ミュアーは上層部を欺きながら、引退後の全財産をビショップ救出のために使い、作戦指令書を偽造してアメリカ軍に刑務所を急襲させ、ビショップを無事救出するという内容である。
同映画のパンフレットには、この映画を評して「男と男のドラマ」「ロマンチックな香りさえ漂う良質のドラマ」(1)という言葉が掲げられ、さらに原案・脚本を担当したマイケル・フロスト・ベックナーの次のような発言が引用されている。「モラルの見えない時代に真の愛国心とは何かを問いかけたかった。国家という大義名分のもとに正義をまっとうする場合でも、愛国心とは、つまるところ個人的な問題に帰着するんじゃないかという点を訴えたかったんだ」(2)。おめでたい話である。
何がおめでたいかと言えば、アメリカの「正義」を疑わないその姿勢がである。映画の中では、ミュアーの回想という形で、ビショップと共に従事してきた作戦を振り返る。ヴェトナム和平協定成立と南ヴェトナムからの米軍完全撤退後の75年に実行した北ヴェトナム側の要人暗殺、ベイルートでの対アメリカ・テロ組織の黒幕の暗殺。しかし、そこにはアメリカが他国で殺人を行う主権侵害・違法性に対する批判的視点はない。ビショップ救出の際にも、なぜアメリカ軍が中国の領土に侵入し、銃撃戦を繰り広げながらCIA要員を救出できるのか。冷戦後の脅威国として中国が題材になるところも巧妙である。
結局、この映画も権力内での個人対組織の争いを描いても、対外的なアメリカの「正義」に疑いを抱かない。「個人が組織に優越する、というのも、アメリカが、そしてハリウッドが主張し続ける哲学なのだ」(3)との同映画に対する評論をもじって言えば、「アメリカが国際法に優越する」ことを描いた映画にすぎない。主権侵害や違法な武力行使を問わずに、アメリカの「正義」を押しつけるだけの映画である。このような法無視の映画が「男と男とのドラマ」だとか「良質のドラマ」になってしまうのだから恐ろしい(4)。
おわりに
『ソードフィッシュ』にしても『スパイ・ゲーム』にしても怖いのは、それぞれジョン・トラボルタやロバート・レッドフォード、ブラッド・ピットなどの人気俳優を使うことで、大勢の人がこの映画を見て、アメリカの「正義」に無意識の内に染まってしまうことである。アメリカによるアフガニスタンへの「報復戦争」を批判的に報道しないマスコミを通じて、「戦争」支持の世論が作られるのと同様の危険性がある。巨大な資金をバックにソフトな形でのこれら意識形成に対して、今後も法的視点から批判を続けるつもりである。(2002年1月5日脱稿)
註
(1) 東宝東和株式会社発行権者による同映画パンフレット(2001年)4頁及び7頁。
(2) 同上、21頁。
(3) 映画評論家・品田雄吉による映画評(朝日新聞2001年12月27日夕刊)。しかし、ここでもこの映画の法無視の描写に対する批判的視点は、ない。
(4) ビショップ救出の際に米軍が行動しやすくするため、ミュアーは引退後の全財産を送電を止めるための電力会社買収に使うのだが、これが一つの「ドラマ」の材料になっている。しかし、主権侵害や他国での殺人も平気で行なうCIA局員が、送電線を破壊しないで電力会社を買収して送電を止めるというのも滑稽である。
(5) 本稿とは関係ないが、和光大学では専任教員有志の呼びかけで、昨年12月に「同時多発テロとアフガン『戦争』を考える集い」というシンポジウムが教員・事務職員・学生の参加の下、開催され、私もパネリストとして参加した。今の時代、教員の呼びかけでこのような集会が大学で開かれるのは貴重なことだと思うので、紹介しておく。
清水雅彦(和光大学)
(青年法律家協会東京支部ニュース第58号より、一部修正の上転載)
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