小泉政権の誕生と憲法−憲法記念日によせて

(鹿児島大学教職員組合ニュース1144号・2001年5月25日発行より)

 この5月3日は、54回目の憲法記念日だった。しかし、その記念すべき日を迎える状況はこれまでと大きく異なっていた。「反派閥」「構造改革」を唱えて、自民党の総裁選挙を圧勝して、成立した小泉政権は、高い支持率を記録している。前の森政権があまりにひどかった「反動」もあろうし、政界を裏から牛耳り、「ゼネコン政治」をおしすすめた竹下派(小渕派・橋本派)の長期支配に批判的な気持ちの現れでもあるだろう。しかし、その「高支持率」の裏で、日本の将来にかかわる方向転換が公然とすすめられようとしている。
 岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘はじめ、日本国憲法に敵意をもつ、いわゆる「タカ」派が総理・総裁の座にすわったことはこれまでもあった。しかし、それらの政治家も、総理の座についたときには「自分の在職中は、憲法に手をつけない」ことを所信表明せざるをえなかった。なぜなら、保守的な有権者の多くでさえ、憲法の平和主義的傾向を支持していたからである。ある政治家の話だが、地元で講演して、支持者から「先生、わしの息子が戦争にとられるようなことは再びないやろうな」といわれると、もはや自民党は憲法改正をおしすすめますなどとはいえなかった。事実、70年代から80年代にかけて、「自主憲法制定」を党是にかかげる自民党も、有権者からの反応を恐れて、実際には「憲法改正」をいいだすことができなくて、事実上この党是を棚上げしていたのである。
 しかし、今回はどうだろう。「高支持率」に気をよくして、小泉首相の「改憲発言」はとどまるところを知らないかのごとくである。4月28日の初会見では「首相公選へ改憲提唱」「集団自衛権の解釈の見直し」「憲法9条の改正の必要性」をぶち上げた。さらに衆議院本会議では「靖国神社へ参拝する」と公言した。これまでの首相とことなり、「自分の在職中に、憲法を攻撃する」ことを売り物にしているのである。
それをうけて、自民党・保守党それに野党の中にもいる「憲法改正」派が勢いづいている。開かれたもののなかなか「成果」を見出せない両院の各憲法調査会でも声高に「憲法改正」が唱えられることになるだろう(あくまで「憲法調査」が目的なのだから、本来の目的を逸脱しているのだが)。そういう「攻勢」にいま私たち憲法を守り育てることを主張してきた大学の教職員組合はじめとする側がいかに抵抗し、反撃し、人々を説得できるか。21世紀の幕開けは、憲法をめぐる「攻防戦」ではじまった。
  改憲の主張は、国民のもっている不満をうまく利用している。「首相公選」論はその最たるものだ。腐敗・汚職をくりかえす国会議員に、首相選びをまかせてよいものかと言われたら、つい誰でも「うん」といってしまうだろう。しかし、そのように主張している本人たちが実は腐敗・汚職の根源たる利権政治の上にどっぷりとつかってきた連中であること、そして「首相公選」は、国民の代表である国会からのコントロールを逃れる手段にもなりうることを知っておかなくてはならない。アメリカのような大統領制度にするというのなら、それに対抗するべく国会に十分な調査権限・能力をもたせることが不可欠のはずである(すくなくともアメリカの議会の調査権は日本よりすごい)。そのような総合的な考察をしないままに「首相公選」のための憲法改正に安易に賛成してしまうことはいかに危険なことか。
 国民に受けのいい「首相公選」導入のために憲法改正を、という主張は、実は憲法の基本原則である平和主義を変えようという狙いの「突破口」であると私は考えている。自衛隊に憲法上の地位を与え、「国軍」となった自衛隊が海外出動して、米軍と共同行動できるようにすることが憲法9条改正のねらいである。さっそく首相は「集団的自衛権」についての解釈を変更しようと、9条改正にむけて第1歩をふみだした。「日本近海で日米共同行動中に米軍が攻撃を受けた場合、何もしないことができるか」といって、彼は「自衛」のためのやむをえない軍事行動を強調して「集団的自衛権」の承認を主張している。しかし、これまでの米軍の軍事行動と安保条約の歴史をふりかえれば、この主張がいかに危険かがわかる。ベトナム戦争に例をとろう。この戦争で米軍はベトナムを侵略した。もしあのとき、日本がアメリカとの間に「集団的自衛権」をもっていたら、ベトナムの反撃に対して、日本がアメリカといっしょになって、ベトナム攻撃に加わったということを意味する。わが国が「戦争にまきこまれる」のではない、「戦争に積極的に参戦する」のである。さすがに自民党政権も「集団的自衛権」を認めてはこなかった(内閣法制局の解釈。だから右派勢力はいま、この内閣法制局の解釈に攻撃の照準を合わせている。)。憲法9条があったからである。「集団的自衛権」の承認さらに憲法9条を改正して、自衛隊に海外派兵の根拠と権能を認めるねらいは米軍との攻撃的・侵略的な軍事共同行動の容認にあると私は思う。日本が「軍事大国」になるか否かの決定的な転換点にいま私たちは立っているといってもいいのではないだろうか。
 靖国神社への公式参拝もいいだした。戦前、靖国神社は陸軍省・海軍省の管轄とされ、戦死した「皇軍」の将兵を「英霊」として祀り、「国家神道」の中心的な存在だった。GHQの指令で、ただの民間神社に変えられた靖国神社をふたたび「国営化」しようと右派勢力はひたすら活動してきた。しかし、国家と宗教の分離を明確に定める憲法のもとで、それは許されない。だから彼らがねらったのが天皇、首相の靖国神社への公式参拝であった。今度、小泉首相は「夢よ、もう一度」と公式参拝を画策している。首相などの公式参拝については、違憲の疑いがあると判決の中で裁判所が述べた例もある(岩手靖国訴訟控訴審判決など)。小泉首相の靖国参拝は私的なものならともかく、公的な参拝(たとえば玉串料を公金で支払い、総理大臣の公務として参拝すること)は憲法上許されない。信教の自由という人権の分野でも小泉首相は憲法をじゅうりんしようとしている。
 あまり知られていないが、靖国神社は、戦争でなくなった多くの人々を「差別的」に扱っている。爆撃や飢餓でなくなった一般市民は「英霊」として祀られてなどいないし、鹿児島に関係ふかいことでいえば、西南戦争で西郷軍に加わって戦死した兵士たちは「賊軍」であって、これまた祀られてはいない。あくまで天皇の軍隊の一員として死んだ将兵のみを祀っている。市民ふくめて戦争でなくなった人々を特定の宗教によらないで追悼する施設としては、靖国の近くに国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑があるが、小泉首相には、ここでの追悼は全く念頭になく、あくまで「天皇の軍隊」「国家神道」のシンボルとしての靖国神社への愛慕のみがある。
 かつてリンカーンは「一人の人を長い間だますことができる。多くの人をすこしの間だますこともできる。しかし、多くの人を長い間だますことはできない」と語った。おそらく小泉首相の反憲法的立場は、多くの人の支持を一時的に得ることはできても、長くは支持されないだろう。ただ、その時期が短いか、長いか、それとも、もう取り返しのつかない段階にまですすんでしまうかは、私たち市民の批判的精神と行動能力にかかっている。

 小栗 実(鹿児島大学)

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