1月26日付け『聖教新聞』に、創価学会の池田名誉会長の憲法にかかわる発言が掲載されました。元になった発言は、『第26回SGI(創価学会インタナショナル)の日記念提言・生命の世紀へ 大いなる潮流』でなされたもの。憲法についての言及は紙面計五ページにおよぶ発言のうちの一部ですが、その内容は注目されます。
この発言について『産経新聞」は、「創価学会によると、池田氏が憲法改正について本格的な提言を行ったのはこれが初めて」、「創価学会では、今回の池田氏の提言について『憲法改正論議の機が熟しつつあるとの判断から、学会のリーダーとして、考え方の軌道を示したもの』(幹部)としている」と報じています。
池田発言についての新聞報道には、「論憲の必要性強調・九条改正には反対」(朝日)、「憲法9条 手をつけるべきではない」(毎日)というように、この発言が9条の平和主義を擁護するものであるかのようにとるものがあしました。なるほど「聖教新聞」の見出しには「"平和憲法"のグローバルな開花を」とあり、至るところで平和という言葉が連発されています。しかし、意味のない飾り文句をとりさってまとめてみれば、その要点をは次のようになります。
(1)「時代や社会の変化に呼応して、一国の最高法規である憲法」を検討し、見直すことは大切である。
(2)「21世紀の日本の民主主義のあり方にかかわ」って、「新しい環境問題や多様 化する人権問題、情報化社会への対応、民意を直接問う国民投票制や首相公選制の導入など」のテーマがあり、「論憲」は当然。
(3)第9条は「国権の発動たる戦争の放棄を謳い、国家主権をあえて制限し」、その"半主権性"は、それを国連に委ねる約束事の上で成立している。「"一国平和主義"の陥穽を超えて」日本は、「国連による普遍的安全保障と紛争予防措置の環境整備・確立に主導的役割を果たすべきだ」。
このうち(1)(2)の言い分は、改憲推進派の主張にも頻繁に出てくる言い回しとそっくりそのままのものです。
では、「九条改正には反対」と報じられた(3)はどうでしょうか。ここでは語られていない部分ににこそ問題があります。
第一に、池田氏は9条第2項の戦力不保持と交戦権否認規定について語っていません。しかし、日本国憲法の平和主義の核心部分は、平和的生存権規定とともに、この第2項の規定にこそあります。この条項こそが日本の軍拡や海外派兵に歯止めをかけるよりどころとなったものであり、また、世界の軍縮平和にむけて日本が積極的役割をはたしていくうえでの手がかりとなるものでです。非武装条項を無視して戦争放棄一般についてしか語らないことは、日本国憲法の平和主義を、単なる侵略戦争禁止にとどまるような他国の憲法の平和主義と同列に扱うことにほかなりません。それはとりもなおさず日米安保体制と自衛隊の容認することをも意味します。
第二に、国連の集団安全保障システムには軍事力の行使が前提として含まれていること(国連憲章第7章)が無視されています。国連憲章にないPKOにしても、それへの参加が日本で憲法の問題となるのも、PKOが軍事力行使を含む活動であるからに他なりません.。 "半主権性"を理由に、国連の基準に合わせて「主導的役割」を日本が果たそうとするならば、海外における軍事力行使を日本の憲法上で認める必要があります。いま九条改憲派にとって「国連協力」という理由づけこそが改憲のかっこうの大義名分になっているわけはここにあります。
池田氏の発言は、なるほど現行第九条を賛美し、その文言に手をつけることを一言も述べていませんから、この限りでは「9条改正には反対」しているように見えます。しかし、九条第2項の意義を無視し、国連をとおしての「国際協力」を強調することは、現在の九条1項2項をそもまま残しながら、これとは別に「国際協力」のための派兵やら「文民統制」の条項を設けようという自由党第一次案や小沢一郎氏の改憲構想とも十分に両立するものです。唯一の違いは、「国際協力」条項を唱えているか否かにしかなく、両者の距離はほんの数歩まで近づいているということができます。
創価学会といえば平和運動に熱心な会員も多く、安保・自衛隊を容認する公明党にたいしても時には対立し、いわば歯止めの役割を果たしていました。昨年になって池田氏は、首相公選制を容認するなど改憲問題にのぞむ姿勢を変える気配を見せていたとはいうものの、このように9条にまで立ち入った「憲法見直し」を明確に語ることはありませんでした。池田氏のこの発言は、これまで改憲問題に慎重な姿勢をとっていた創価学会の方針転換を予知するものです。
2001年2月27日
三輪 隆(埼玉大学)
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