はじめに
このテーマについては、私よりも、よりふさわしい書き手がいるに違いない。しかし、憲法を守ることは、結局、目の前に起こっている人権侵害と闘うことであり、ポルノグラフィー=主として映像による女性差別表現は、私の目の前で起こっていることであり、ただそれだけの理由で、私は、このテーマについて発言する資格があると思い、この拙い論説を書く気になった。
I 表現の自由と差別的表現
私は、ポルノグラフィーを女性差別表現だと書いた。しかし差別表現とは、そもそもなんであろうか?憲法学者の多くが同意しうる定義は、「人種的マイノリティーや被差別部落出身者などを対象に、かれらの人格を侮辱し、貶める表現」といったところだろう。
では、このような意味での差別表現と日本国憲法21条が保障する表現の自由とは、いかなる関係にあるものとして理解すべきか?
第1に、差別的表現を、「価値の低い表現」とみなし、表現の自由の保障の範囲外のものと考えるという理解の仕方がある。「定型的に価値が低いとみなしうる表現については、非常に手厚い保護ではなく、相当程度の保護が及ぼされる。したがって、それに対する制限が合憲となるためには、きわめて強い理由づけは必要ではなく、かなり説得的な正当化がなされればたりる。差別的表現は、場合により、このような意味での価値の低い表現に属するとみることができよう」という内野正幸の理解が、その一例である(内野『差別的表現』有斐閣、1990年)。
第2に、差別的表現を、そもそも「表現」としてではなく、「差別行為」と考え、表現の自由の問題ではないとする理解がある。「『白人のみ』という看板はただの言葉であるが、法的には『当店では黒人お断り』という『視点を表現』してとは見られず、・・・そうではなくて、これは、『ユダヤ人お断り』などと同様、『差別行為』の一つと見られるのだ」というアメリカの憲法学者マッキノンの理解が、その典型である。(マッキノン・柿木和代訳『ポルノグラフィー―「平等権」と「表現の自由」の間で―』明石書店、1995年)。
この第2の立場に立てば、「思想の自由市場」における「対抗言論」をもって差別的表現と闘うべきであり、法的規制は良くないという主張は、成り立たない。現に、マッキノンは、アメリカでポルノ禁止法制定の活動を行っている(詳しくは、内野・前掲書)。
しかし、立法で差別表現を規制することには、いくつかの問題点がある。第1に、差別的表現を「定型化」し、規制することは可能かという問題であり、第2に、ある特定の言葉が、「差別的表現」になるわけではなく、その言葉が使われる文脈・状況が問題となる場合があるからである。例えば、日本における部落解放運動においても、差別糾弾においても、「言葉狩り」が問題となっているのではなく、差別語を使用した人の差別意識を明らかにし、差別者と被差別者との人間関係を結び直すところに本質があるはずである(なお、私は、糾弾闘争というやり方がいいとは思っていない)。
もっとも、あとで、述べるように、ポルノグラフィーの害悪は、実は、このような表現の自由をめぐる論点に矮小化されるよりもずっと深刻な問題である。
II ワイセツとポルノグラフィーの違い
1 ワイセツの定義
念のために、ここで、刑法のワイセツ文書規制(刑法175条)と、反ポルノの主張の根本的違いについて説明しておく。ローレンスの文学作品の伊藤整による翻訳が、刑法175条違反で起訴された事件であるチャタレー夫人の恋人事件の最高裁判決(最大判1957・3・13)が、規制されるべきワイセツ文書とは何かを、一応、定義している。それによれば、規制されるべきワイセツ文書とは、(1)普通人の羞恥心を害し、(2)性欲を刺激し、(3)善良な性的道義観念に反する文書のことである。さらに最高裁判決は、次のようなことを言っている。(1)は、「普遍的な道徳の基礎」であって、「性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露」であると。また刑法175条の保護法益は、性道徳・性秩序の維持であり、「猥褻文書は性欲を興奮、刺激し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している・・・」と。そして、ある文書がワイセツ文書かどうかは、裁判所が「社会通念」にしたがって判断すると。
私は、このようなワイセツ文書規制は、多くの憲法学者と同様に、以下の理由により憲法違反だと思う。第1に、「ワイセツ」という刑法175条の文言は明確性に欠け、それゆえ表現の自由に対する萎縮効果を持つので文面上違憲である。第2に、結局、ワイセツの三要件を満たすかどうかを裁判官が主観的に判断することになる。
加えて言えば、日本の刑法および最高裁が、必死で守ろうとしているところの「性秩序」・「性道徳」なるものは、男性優位社会において、男性の女性に対する性的支配を正当化するような類のものに過ぎず、男性優位社会の維持に反しない限りで、「性秩序」・「性道徳」を守ろうとしているに過ぎないと、かねてから疑念を持っている。
2 ポルノグラフィーの定義
そのような、疑わしい「ワイセツ文書規制」とは、別に、何とかしなければならない(私が考えている)ポルノグラフィーとは何か。「映像や言葉を通じて女性を従属させるような性的にあからさままな素材」(マッキノン・前掲書)という定義で、さしあたり十分だと私は思う。「女性の身体を性的表現の文脈においてモノ扱いすることで象徴されるように、女性の性を貶め、人格を傷つけ、女性が社会において肉体以外の存在としては評価されないという心理的な暴力を行使し、男性の支配と女性の従属という社会構造を構築する」ものという紙谷雅子の定義(紙谷「性的表現と繊細な神経」『リーディングズ現代の憲法』日本評論社、1995年)にも私は同意する。
3 なぜ、ポルノグラフィーと闘うべきか
では、ポルノグラフィーがいかに女性の身体・人格を傷つけるかについて、以下、述べる。それが同時に、「ポルノグラフィーとは闘うべきである」という主張の根拠である。
第1に、ポルノグラフィーは、憲法上保障される「表現」ではなく、差別行為であり、暴力である。マッキノンの、以下の叙述だけで、このことは十分に理解できるはずである。マッキノンは、ポルノグラフィーが文章ではなく、写真や映像であることを重視した上で、「女性をセックス映画に出演させるために強制をし、威嚇し、脅迫し、圧力をかけ、ごまかし、言葉巧みにだますのは、そこに表れた思想ではなく、ポルノグラフィ産業であると言うことだ。・・・ポルノグラフィのために、セックス映画を撮るために、女性は傷つけられ、挿入され、縛られ、猿ぐつわをはめられ、衣服を剥ぎ取られ、性器をむきだしにされ、うるしや水をスプレーのようにかけられるのである。・・・ポルノグラフィを作るには、こういうことは本質的に必要なのである」(マッキノン・前掲書)。日本でも、例えば、遙洋子の『結婚しません』(講談社、2000年)の「私が封印したもの」という文章でも、このような制作過程における暴力を示唆するところがある。
第2に、ポルノグラフィーは、「女性らしさ」の観念を植え付ける:「性的虐待が他の虐待と違う点は、被害者がそれを楽しむことが期待されることである」(マッキノン)。女性は、いたぶられたり、強姦されるのを楽しむのだというメッセージをポルノグラフィーは伝えるというのだ。性的虐待に限らず、アダルト・ビデオの性交のイメージが、「これがセックスだ!」と多くの人が思ってしまっていると思うと、それ自体恐ろしい。
第3に、ポルノグラフィーは、女性を、ひとりの人格としてではなく、モノ扱いし、侮蔑の対象とし、卑しい地位に貶める。
そして、以上の効果をもって、ポルノグラフィーは、日々、男性の女性に対する性支配を維持し、再生産しているのである。したがって、個人的に鑑賞するのはいいのではないか(プライヴァシー権!)といった自由主義者の見解は、とりわけ第1の問題を無視しており、不当である。否、むしろ鈍感にすぎる。
III 日本弁護士連合会の提言(日本弁護士連合会編『報道と人権』明石書店、2000年)
日本弁護士連合会は、1999年11月に、実際の調査に基づいて、嫌ポルノ権なるものを提言した。それによると、ポルノグラフィーは、(1)明白な女性のプライバシー権、性的自己決定権の侵害を容認・助長しており、(2)女性の意思を無視し、女性を単なる性的対象物として見る見出しは、「暴力」と言える可能性があり、性行為のアダルトビデオ的具体的描写が、交通機関などで「目をさける自由」を奪われた中で望まない者の利益(嫌ポルノ権)を侵害しており、(3)女性の身体の一部だけの強調は、女性差別表現であり、不快感を助長させるという。こうした人権侵害に対して、日弁連は、法的対抗手段として、(1)嫌ポルノ権(「今まで、ポルノないしポルノ的表現に対して見たくない者、望まない者の保護が十分でなかった」)を提唱し、また(2)契約義務違反(「交通機関は、A地点からB地点まで安全に運行するだけではなく、運行契約に基づく付随義務として乗客に快適な車内空間を提供する義務があるのではないか」)として、民事訴訟に持ち込む可能性を示唆している。
とりあえず、先のポルノグラフィーの害悪の3番目のところに対抗しようという、私にいわせれば、きわめて微温的で、おっかなびっくりの提言であるが、行動する女たちの会編『ポルノ・ウォッチング』(学陽書房、1990年)に描かれているような反ポルノ闘争に、法曹がようやく重たい腰を上げたという点で、高く評価したい。
結論
あまり、まとまりのない論説であるが、反ポルノの大きな運動をつくっていくことに、ホンの少しでも役立てれば幸いである。こういう重大問題の解決には、まったく無頓着な連中に、「改憲だ!」「改革だ!」だと声高に叫ぶ資格があるのかどうか、読者の判断に任せたい。
なお、この問題は、まさにこれを書いた私自身のセクシュアリティーの問題とも密接に関係しており、ポルノ氾濫文化としての「日本の美しい文化」・「日本の美しい風土」のなかで育ってしまった私自身の存在を問い返す問いであることは、一応、自覚している。
2000年12月18日
石埼 学(亜細亜大学専任講師)
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