はじめに
二〇〇一年五月一一日は、日本憲法史に残る歴史的な日になった。もちろんハンセン病訴訟・西日本訴訟の熊本地裁判決のことである。
約一世紀にわたる近代日本国家によるハンセン病者隔離=撲滅政策が、憲法違反として断罪された。判決については、私は、法学雑誌のための解説を書き終えたところであり、重複を避ける意味からも、ここで詳説はしない。
ここでは、熊本地裁判決に対して控訴を断念した小泉内閣が出した「政府声明」が孕んでいる重大な憲法問題を指摘し、「政府声明」を撤回するように政府に働きかけていくべきことを主張したい。
一 裁判官の独立を脅かす「政府声明」
小泉内閣は、原告全面勝利の熊本地裁判決に対する控訴を断念せざるをえないところまで追い込まれた。これはひとえに、「命を賭けても判決を守る」という姿勢で闘った原告や弁護団、その姿を見ていろいろな形で政府に圧力をかけた一人一人の人々の行動の勝利である。
こうした「大きな力」によって控訴断念に追い込まれた小泉内閣は、奇怪な行動に出た。一方で控訴を断念し、熊本地裁判決を「受け入れた」政府が、「政府声明」という形で自ら控訴を断念した判決を批判するという前代未聞の挙にでたのである。
このような政府の行為は、明らかに憲法七六条三項で保障されている裁判官の独立を侵害する行為である。裁判官の独立とは、憲法が定めるとおり、個々の事件を扱う裁判官は、「良心」と憲法以下の法律のみにしたがって裁判をするという職権の独立を意味する。これは、司法権の独立の要となるものであり、これなくしては、司法権の独立はその実質的な存在理由を失う。
では、具体的に「政府声明」の何が問題か。第一に、熊本地裁判決を出した杉山裁判長に対して、政府=行政権が直接に圧力をかけたという点で、杉山裁判長に対する裁判官の独立の保障を踏みにじる。第二に、同様のハンセン病訴訟は、いまなお東京地裁及び岡山地裁で係属中の事件である。両裁判所の裁判官にとって、この「政府声明」が、係属中の事件に対する政府による不当な干渉・介入であることは自明である。第三に、戦後補償をめぐる一連の裁判など、除斥期間の適用や国会議員の責任など、同じような争点が争われている現在、政府がこのような「政府声明」を出して、最高裁判決や法令の解釈について特定の(しかも相当奇異な)解釈を押し付けるかのようなことは、許されるべくもない。
「政府声明」は、このように、おそらく日本近代史上最悪の「裁判官の独立」侵害事件である。しかも、「平賀書簡」事件とは異なり、政府が、「声明」という形で厚顔無恥にこのような行為を公然と行ったという意味でも決して許されない行為である。この「政府声明」を撤回させなければ、今後、日本は、いかなる意味でも「司法権の独立」原則を採用している近代国家であるとは言えなくなるであろう。
二 でたらめな解釈
しかも、「政府声明」が示した最高裁判決や民法七二四条後段の除斥期間についての言及は、法学部の学生なら誰でも奇異に思えるほどに、デタラメでありズサンなものである。
まず、立法の不作為の国家賠償法上の責任について、「政府声明」は、在宅投票制についての八五年の最高裁判決を曲解している。「政府声明」は、国会議員が「故意」に憲法の一義的文言に反する立法を行った場合だけ、国会議員の法的責任が問われるのだと最高裁判決を解釈しているが、最高裁判決のどこをどう読んでも、このような理解はできないであろう。
国会議員の法的責任が認められるのは、憲法違反であるにもかかわらず「あえて立法を行うがごとき」「容易に想定し難い場合」に限られるとする最高裁判決の「あえて」という言葉を、政府声明は、「故意」と理解したのであろうが、では「ごとき」はどのように理解するのか。これは明らかに、「例えば」と言う意味である。つまり、「あえて」憲法違反の「立法を行うがごとき」は、あくまで例示に過ぎないのである。熊本地裁判決も、この点について、「容易に想定し難い場合」以外の最高裁判決の趣旨は、「絶対的条件」ではないと指摘している。その上で、熊本地裁判決は、ハンセン病者隔離政策が「容易に想定し難い場合」に当たると判断したのである。
第二に、民法七二四条後段のいわゆる除斥期間についての「政府声明」の言及を問題にする。この点については、「政府声明」の書き手が、判決文を読んだのかどうかも疑わしい。熊本地裁判決は、実は、除斥期間についてはほとんど何も言っていないに等しい。除斥期間についてのいろいろな判例や学説などに立ち入るまでもなく、判決は、一九九六年の「らい予防法」の廃止にいたるまで、国は、隔離政策の「根本的変更」を全くしておらず、「らい予防法」の隔離規定あるいはへき地や孤島に作られたハンセン病療養所の存在自体が、ハンセン病者に対する差別・偏見を作出・維持・助長してきたとして、国の不法行為を、一九九六年まで続いた一つの継続的不法行為と判断したのである。したがって、熊本地裁判決が除斥期間の主張を斥けたのは、除斥期間について何か判例などと異なる判断をしたためではなく、国の不法行為を一九九六年まで続いたものと判断した結果、除斥期間は問題にならないからである。
こうした判決の内容を無視して、除斥期間についてあれこれ批判している「政府声明」は、「熊本地裁判決とは、関係がない」と断言していい。「政府声明」自体、裁判官の独立を侵害する憲法違反のものであるが、かりに、熊本地裁判決を批判するなら、国の不法行為が一九九六年まで係属していたとする判旨にこそ反論すべきところであった。
このように、「政府声明」は、このようなものを厚顔無恥に発表すること自体の問題性、そしてデタラメな法律論の問題性などを抱えている。
おわりに
足早に、「政府声明」の憲法上の問題点などを指摘してきた。しかし、日本憲法史上最悪の司法権の独立侵害事件であるこの「政府声明」について、今ひとつ関心が低いということに私は、警鐘を発しておきたい。
法学者、法曹、法学部学生、市民は、この「政府声明」の撤回を求めずして、今後、日本でまともな司法が行われるとでも思っているのであろうか。蛇足ながら加えれば、この司法権の独立への公然たる侵害を見逃して、「護憲派」憲法学者は、何を守るつもりなのだろうか?
今すぐに、首相官邸への手紙やFAX、各政党・各国会議員への働きかけ、論文執筆、大学での講義などなど、あらゆる手段・回路を尽くして、「政府声明」の撤回を要求し、行動すべきであろう。
2001年6月1日
石埼 学(亜細亜大学)
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