木村愛二の生活と意見 2003年4月分 1件のみ

イラク攻撃がアメリカの中東または世界支配の終焉の始まりと確信しつつ侵略の発進基地「北欧海賊」の歴史を振り返る

2003年4月28日(月曜日)

 私は、もともと歴史が好きだが、2001年秋の911以後にも、折りにふれて、歴史を振り返る記事を綴ってきた。

 裸の猿の史上空前の大惨事、911「自作自演謀略」事件以来の事態は、まさに空前絶後(ただし「絶後」の方は保証なし)、人類とか、さらには「ホモ・サピエンス」などと、おこがましくも自称し、このちっぽけな惑星、地球上に盤踞する凶悪な動物の歴史の画期を成すことは、確かなのである。最早、論証を必要としないと断言できるほどの事態なのである。

 しかし、この画期を、いかなる方向に導くべきか、その上で、私個人は、何をなすべきか、または、なすべきか、それとも、なさざるべきか、または、いつまでも堅苦しく、「べき、べき」などと、こだわり続けるべきなのか、否か、これこそが、私個人の存在の「意義ありやなしや」の究極の「問題」なのである。

 実は私は、すでに、それを、様々な方法で、なしてしまっているのであるが、その「なし方」の選び方の基本に、私は、実に平凡にも、歴史を「鏡」、または「鑑」として置いている。

 日本語の「かがみ」の語源については、その物質的な存在の意味からの解釈、または「こじつけ」として、光の赫やきを見る「赫光」の 意、あるいはものの面影を見る「影見」などの説があるようだが、実物の「鏡」の中国語の東洋鬼式の田舎訛りなのかもしれず、ギリシャ神話のナルシスのように、水面に映る自分の姿を「かがんで見た」ことに発するのかもしれず、ともかく、そこまでの真相を突き詰める時間がないし、そこまでしなくても、当面は間に合うだろう。

 さて、「歴史」などと漢字で書いて改まって、あまりに古い大昔から論ずると、ややこしくなるので、今月はこれ1回で終わることとならざるを得ないこの「日記風」では、わが記事の中でも最近の方から逆に再録しつつ、わが構想の全体像に迫ることにする。


----- 引用ここから ------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aku571.html
http://www.asyura.com/0304/war31/msg/1038.html
『亜空間通信』571号(2003/04/13)
【バグダッドに逆巻くアメリカへの怒りから長期抵抗の可能性の純軍事歴史的考察】

 [中略]
 私は、湾岸戦争の際、イラク大使館員のファルークと何度か会った。その後、彼は、イラクに戻り、今回「サハフ情報相」で名を挙げた情報省に勤め、交通事故で亡くなった。帰国前には、彼が、近くにアラブ料理店が無いので、代わりにインド料理店に招待してくれた。私は、お返しに、他の友人と一緒に、彼をフランス料理店に招待した。

 ファルークは、エジプトの最後の王と同じ名前である。日本では、金沢大学と法政大学に合計6年も在学したという。日本語は自由である。惜しい人材である。彼が在日中、存命中に出した拙著、『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の「あとがき」に、私は、次の様に記した。

----- この中での引用ここから ------------------------------
(文芸紙だった読売新聞への元特高課長)正力乗り込みの1924年から数えて、まもなく70年になろうとしている。

 だがつい最近私は、パレスチナ人を支援する立場のアラブ人から、「十字軍の侵略は400年ですよ」といわれたばかりである。[中略]

 彼は、[中略]こう力強く応じ、[中略]最後に、「ユダヤ人の中にもシオニズムに反対する人が沢山いますよ」と静かに付け加えた。
----- この中での引用ここまで ------------------------------

 ファルークは当時、日本の官庁や企業とも接触する立場だったから、私は、その立場を考慮して、「パレスチナ人を支援する立場のアラブ人」と記したのだった。

 昨日(2003/04/12)、私は、「人間の盾」の任務を果たしてイラクから帰国したばかりのジャミーラ高橋さんに、このファルークの話をした。

 侵略者は、遅かれ早かれ、必ず、敗退するのである。

 以上の本日の拙文を、今は亡きイラク人の旧友、ファルークに捧げる。
 [後略]
----- 引用ここまで ------------------------------


 すでに2ヶ月前に、私は、イラクを巡る世界史の概観について、以下を発していた。


----- 引用ここから ------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aku493.html
http://asyura.com/2003/war24/msg/991.html
『亜空間通信』493号(2003/02/26)
【イラク攻撃で講演依頼あり歴史解説の総合的見地で「文明の衝突」論検証を開始】

 [中略]
イラク攻撃が寸前か否かの状況下、私は、本日(2003/02/26)から数えると3日前の2月 21日の日付で、「イラク問題」という主題の指定で新しい講演依頼を受けた。

 [中略]

かねてからの構想もあり、依頼を受けた講演の準備としての締め切りを自分に課し、これまでの経験を振り返りつつ、総合的見地から歴史解説を展開する準備として、現在の事態に先行するハッチントンとやらの粗雑な「文明の衝突」論を検証してみようか、と考えていた。

 [中略]

(以下は記事の引用)(2019.8追記:出典は『亜空間通信』493号参照)

 マレーシアのマハティール首相は、クアラルンプールで開かれた経済フォーラムで講演し、対イラク戦争が勃発すれば、イスラム教徒への宣戦布告とみなされるだろう、との見方を示した。

 114カ国・機構が加盟する非同盟諸国会議の首脳会議が24日開幕する。

 首脳会議はイラクに武装解除を求める国連決議の遵守を要請する一方、米国主導のイラク攻撃に強い反対を示す声明が採択される見通し。

 会議で議長を務める首相は「イラク攻撃に踏み切った場合、対テロ戦争でなく対イスラム戦争と受けとめるイスラム教徒の怒りを増大させるだけだ」と語った。

 [後略]

(記事の引用は終わり)

 規模は小国ながらもマレーシアのマハティール首相は、イスラム圏で重きをなしている。私は、イスラム圏を、中世の最大の世界システムと考えている。

 ヨーロッパは、十字軍以来、いまだに、この文明圏への侵略を続けているのである。「文明の衝突」という概念は、あながち、間違いとは言い切れない意味を含んでいる。

 ヨーロッパの侵略の中間には、ロシア革命以後のソ連のイスラム圏支配もあった。だが、宗教も社会主義思想も、似たようなもので、(本日[2003.4.28]の追加:「ある集団の結束を強めるための思想的な武器であり」)、実態は、ヨーロッパの東の外れのロシアによる侵略の継続であった。

 イギリスは、「ギリシャ独立」の美名の下に、当時の中東のイスラム圏の「トルコ帝国」の蚕食競争に、横から加わった。

 イギリス、続いてアメリカも加わるアングロ・アメリカによる「東進」のイスラム圏侵略は、ソ連時代のロシアとの「南下」の侵略競争として展開され、現在に至っている。

 イラク攻撃を巡って、ロシアがアメリカを牽制するのも、長い歴史を通して見ると、中世からのイスラム圏侵略競争の継続なのである。

 古代ローマの格言に曰く:「天(あま)が下に新しきことなし」
[後略]
----- 引用ここまで ------------------------------


 中世以後のイギリスとロシアの王朝は、ともに、ヴァイキング王朝であった。私は、そのことについても、911事件から1年後を控えた昨年の11月に、以下の様に記していた。


----- 引用ここから ------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aiaiai-84-aku417.html
http://www.asyura.com/2002/war17/msg/832.html
『亜空間通信』417号(2002/11/01)
【血の復讐の鬼畜英米伝統はアングロサクソンより海賊ノルマン王朝由来の恐怖】

 以下は、さる10月25日発刊のわが新著、『9・11事件の真相と背景、副題:「テロ」か? 自作自演の戦争挑発謀略か?アメリカ=イスラエル=世界支配構想の核心を突く』の11章の内、アメリカ帝国の「三種の神器」「自由、民主主義、文明」の正体の項への追加である。

 英米の神話には、北欧神話も埋め込まれている。今の日本で一番分かり易い言葉で説明すると、テレヴィのアニメ番組にもなったスカンディナヴィア半島の海賊、「ヴァイキング」の系統の神話である。イギリス帝国の中心、イングランド王国の始祖は、この海賊だったのである。

 何とも恐ろしいこの血統および神話的伝統を説明するために、「ヴァイキング」と「ノルマン王朝」で電網検索したら、今から5年前、1997年に日本語訳が出た好著の紹介記事を発見することができた。

 以下、特徴的な記述を2つだけ、先に引く。

1) ノルマン人は、スカンディナヴィアに居住していた北ゲルマン系の部族であるが、彼らは4世紀に始まるゲルマン民族大移動の時には動かず、8世紀末、793年になって初めて第2次民族大移動とも呼ばれる大移動を広い地域に展開し、中世ヨーロッパに大きな影響を与えた。

2) 放浪者オッタルが、ノールカップに到達して、スカンディナヴィア「半島」であることを発見し、ノルウェーがヨーロッパと陸続きであることがアルフレッド大王(註)によって記録される。しかし海岸付近の狭い土地しか耕作に適さず、本国を出て行かざるをえなくなる。

「サガ」と「エッダ」におけるヴァイキングの宗教観。

 血の復讐と祭礼の生贄という殺人が当然とされていた。ユトランド半島の沼地から見つかる沼澤人間はその犠牲者である。海の軍馬ヴァイキング船。身分の高い死者は本物の船に中に正装して安置され、副葬品ともに船ごと埋葬された。略奪と大貿易からなるヴァイキングの航海の拠点ハイタブは後にハンザの模範となる。

(木村愛二註:アルフレッド大王:

http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/cerdic.html#alfredgreat
ウェセックス(セルディック)家 Wessex
アルフレッド大王 Alfred the Great
生没年:846?-899

 以下は、その好著の紹介記事の全文である。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4844/bunnkashi.htm
G.ファーバー著 片岡哲史・戸叶勝也訳 アリアドネ企画 1997
『ヴァイキングの足跡―「海賊・冒険・建国の民」ノルマン人の謎―』

 この本は、グスタフ・ファーバーが、1976年にドイツのベルテルスマン書店から出版したものに大幅加筆し、1996年改訂版として出版したものである。原題に忠実に訳せば、本来ならば「ノルマン人―海賊・発見者・建国者」とされるべきであるが、日本ではノルマン人という用語があまり知られていないため、「ヴァイキング」という意訳が使われている。これについては訳者が冒頭で注を入れている。

 グスタフ・ファーバーは1912年ドイツのバーデンヴァイラーで生まれ、第2次世界大戦後、フリーの著作者として活躍。著書の中には『ポルトガル』、『ブラジル―明日の世界大国』、『南イタリア―歴史・文化・芸術』などがある。

 この本のテーマとなっている「ノルマン人」というのは、本来「北の人」という意味である。これは、日本で一般的に「ヴァイキング」という名で知られているものとほぼ同じである。ノルマン人は、スカンディナヴィアに居住していた北ゲルマン系の部族であるが、彼らは4世紀に始まるゲルマン民族大移動の時には動かず、8世紀末、793年になって初めて第2次民族大移動とも呼ばれる大移動を広い地域に展開し、中世ヨーロッパに大きな影響を与えた。ヨーロッパの歴史は、ノルマン人もまたその一部を形成している数多くのゲルマン的要素を抜いては理解し得ない。ノルマン人の歴史は、それだけをたどることなど不可能であり、ヨーロッパや他の地域の歴史と複雑に絡み合っている。そのため、著者はこの本の中で、ノルマン人の子孫であるスカンディナヴィア諸国民のみならず、ヨーロッパの歴史や文化を見る上で、地理学、文化人類学、歴史学、文化・芸術史といった新しい視点を与えている。

 著者はノルマン人の移動を以下の3つの観点から見ている。

(1) 海賊・・・もともと海洋民族として航海に長じ、冒険心に富んだノルマン人は、ヴァイキングの名で知られる「海の英雄」として「海の軍馬」である竜頭を船首につけた船に乗り、自然条件に恵まれぬスカンディナヴィアからヨーロッパへ各地へと遠征を行った。海賊行為そのものは破壊と恐怖しかもたらさなかったが、著者は、ヴァイキングの魂の中に進取の精神と歴史を動かすエネルギーを見落とさない。

(2) 発見者・・・ノルマン人は、アイスランド・グリーンランドを発見し、さらにコロンブスより500年も早く北アメリカに渡った。豊かな土地を求めて移住した彼らの植民は苦難の連続であった。特にグリーンランド移民のたどった運命は悲惨である。アメリカ移民は実現しなかったが、これは、ノルマン人の文明がまだ十分に成熟しきっていなかったことを示している。

(3) 建国者・・・ノルマン人は、ロシアの原型とされる国家を建てることにより、スラブ世界に衝撃を与え、また地中海のシチリア島に王朝を開き、サラセン世界やビザンチン帝国と接触した。フランク王国から西フランスのノルマンディーを取得したノルマン人は、その後イングランドを征服したが、このことはその後の英仏の歴史に大きく影響することになる。ノルマン人は少数であったこともあり、人種的にも文化的にも被征服者に同化吸収されたが、彼らが植民するときにもたらしたインパクトやノルマン的要素は、長く歴史にとどめられた。

 この本は、上記のようなノルマン人の広範かつ多岐にわたる足跡を、資料からだけではなく、史跡の実地見聞により肉付けし、我々の目の前に浮き上がらせたことが特色といえる。ノルマン人は、民族としてはごくわずかなものを除いて滅亡した。しかし彼らは右傾無形(有形無形?)の証言を残していった。ノルマン人というテーマについて、リビウス、サルトル、タキトゥスといった古代の歴史家の証言はない。あるのは、一方的で偏った考えを持った僧たちの記録や、暦、あるいは無味乾燥な年代記である。これらの記録文書は、いつ・どこで・何が行われたかというデータのみであり、何故・どのようにしてそれがおこったのかというデータという骨組みを補強するものが欠落している。しかしこの文字による記録の欠落を、技術的な成果と実地見聞が補う。考古学上の発掘や、科学的分析、深海研究などを基礎としたものである。

 この本では、ノルマン人の足跡を7つの章に分けて記述している。

(1) 北方・・・海に放浪者オッタルが、ノールカップに到達して、スカンディナヴィア「半島」であることを発見し、ノルウェーがヨーロッパと陸続きであることがアルフレッド大王によって記録される。しかし海岸付近の狭い土地しか耕作に適さず、本国を出て行かざるをえなくなる。「サガ」と「エッダ」におけるヴァイキングの宗教観。血の復讐と祭礼の生贄という殺人が当然とされていた。ユトランド半島の沼地から見つかる沼澤人間はその犠牲者である。海の軍馬ヴァイキング船。身分の高い死者は本物の船に中に正装して安置され、副葬品ともに船ごと埋葬された。略奪と大貿易からなるヴァイキングの航海の拠点ハイタブは後にハンザの模範となる。

(2) 西洋の恐怖・・・聖カスバートがヴァイキングのリンディスファーン襲撃を予言し、ヴァイキングの西洋への最初の襲撃が記録される。スウェーデンヴァイキングはフィンランド湾からロシアへ、ノルウェーとデンマークのヴァイキングはフリースランド・ドーヴァー海峡沿岸・イギリス・アイルランド・アイスランドへ向かう。ヨーロッパ大陸への進出はナント襲撃から始まる。ハンブルクを焼き払い、ライン沿岸を次々に襲撃。守備の堅いマインツは「難民収容所」と化す。セーヌ川流域では、ウード伯が必死でパリを防衛し、セーヌ川にかかる橋の撤去を拒否されたヴァイキングは、橋を迂回するようにヴァイキング船を陸上輸送する。ロロを首領としてユール川とエプト川の間の土地にノルマンディー公国建国。

(3) 東方への進出・・・ヴァリャーグと呼ばれる、スウェーデン発の東方のヴァイキングはリューリックのホルムガルド支配をはじめ、スモレンスクやキエフにとどまらず、ビザンツ帝国やペルシアまで進出しようとした。ノルウェーのハラルド苛烈王は、本国がクヌート大王の北海帝国に帰属すると、故郷を離れ、東ローマ皇帝の軍隊の支配者にまでなる。

(4) アメリカの発見・・・アイスランドへの移民と、追放者である赤毛のエーリクによるグリーンランド発見。しかし、グリーンランドに移民したノルマン人は本国に見捨てられ、自立できず全滅してしまう。ノルマンのコロンブスとでも呼ぶべきレイヴ・エリクソンが、995年に現在ニューファンドランドとして知られる場所に上陸するが、彼らはそれが大陸とは知らなかった。

(5) イングランドをめぐる闘い・・・ユトランド北部から来たゲルマン系アングロサクソン人がブリテン島のほぼ全体を侵略し、「ブリタニア」は「イングランド」になる。アルフレッド大王がデーン人ヴァイキングを破る。エセルレッド王がデーン人大量虐殺を行い、スヴェン王が復讐。スヴェンの息子クヌートが北海帝国樹立。エドワード懺悔王が再びアングロサクソンの王となる。ノルマンディー公ウィリアムがハロルド戴冠に異議を唱え、ヘイスティングスの戦いが起こる。ウィリアムのイングランド国王戴冠・・。ノルマン・コンクェスト)

(6) イタリアでの冒険・・・イェルサレムへの巡礼から帰る途中のノルマン人の騎士40人がサレルノ公の危機を救う。タンクレッド・オートヴィル伯と12人の息子たちが南イタリアで勢力を広げる。タンクレッドの息子の1人ロベール・ギスカールが教皇グレゴリウス7世の目の前でローマを焼き払う。タンクレッドの末息子ルッジェーロがシチリア島をイスラム軍から防衛し、ノルマン・シチリアの最初の支配者となる。

(7) ノルマンの南の王国・・・ルッジェーロの息子は、ロベール・ギスカールの子と孫の早世により、シチリアと南イタリアを統合した「両シチリア王国」の初代国王ルッジェーロ2世となる。ルッジェーロ2世は封建制と官僚制をミックスした、中央集権国家の前身とも言うべき体制を築き上げた。ルッジェーロ2世の孫、グリエルモ2世が36歳の若さで世を去ると、ルッジェーロ2世の私生児タンクレッドと、ルッジェーロ2世の娘コンスタンツェの夫ドイツ皇帝ハインリヒ6世が王位を争うことになる。結果、オートヴィル家の一族は皆殺しにされ、ここにおいてノルマン人は歴史の表舞台から消える。

 この本の中で特に、イングランド征服、両シチリア王国建国の部分は非常に詳細であり、他に類を見ない。しかし、ヨーロッパ各地において並行的になされた出来事が、場所ごとの歴史として章立てされ、取り上げられているため、時代が前後し、理解しづらい部分も見られる。また、ドイツ語からの翻訳であるため、デンマーク語・スウェーデン語の歴史書と人名が異なってしまっている。現在、小学生用の教科書でもジュリアス・シーザーではなくユリウス・カエサルとして記述される。それにのっとっていうならば、できれば人名は現地の発音に近い表記にすべきであろう。とはいっても、現代の北欧語と古代の北欧語の間にも大きな隔たりがあるため、どの表記が正しいかというのは一概には言えない。

 後に建国者となった海賊というテーマは、歴史的にも倫理的にも非常に意味が深く、さらに普遍的なテーマとしての広がりも持つ。それは、建設的な発展、つまり自然から文化へ、混沌から秩序へ、すなわち法への方向を明らかにするものであるからだ。礼節ある世界を数百年にわたって自然災害のごとく震撼させた海の遠征者は、驚くべき速さで変身し、教養ある人間になった。彼らなくしては現在のヨーロッパはなかった。

 この本は世界史の表面にはほとんど登場しないノルマン人―ヴァイキングの歴史をできる限りわかりやすく記している。しかし残念ながら、当時のヨーロッパ世界の流れをある程度理解した上でなければ、この本を読むだけで彼らの活動がどれほど広範囲かつ多岐にわたっていたのかを理解することはできない。けれども、ヴァイキングについてはあまり知らないが、世界史は好きであり、ヴァイキングについてもっと知りたいという人のためには格好の入門書である。

 以上で引用終わり。

 今のアメリカのブッシュ「王朝」にも、この海賊の血と神話的伝統が注いでいるのである。
[後略]
----- 引用ここまで ------------------------------


 この際、以上の「恐怖」の認識を、さらに「北欧神話」のまさに「神髄」に迫ることによって、深めて置くべきであろう。

 以下、そのURLと題名を示すに止めるが、ブッシュとブレアは、その足下で、「無感情(冷淡)と記憶喪失が最大の武器」とまで評されているのである。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.counterpunch.org/pablo04192003.html
April 19, 2003
Roadmap to Resistance
Apathy and Amnesia: a Major Weapon of the Bush/Blair Alliance
[後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 こういう飛んでもない「アングロ・アメリカ」の悪餓鬼どもを相手にせざるを得ない状況下、彼らの家系的な深層心理の奥深くに横たわる「白人優越主義」の狂気、「荒々しくて暗い」北欧の不毛の地に盤踞した海賊の祖先伝来の記憶を、正確に認識して置くことは、決定的に重要と心得る。北欧の「白夜」と「白い皮膚」とは、実に深い関係にあるのである。

 まずは、電網検索で得た「北欧神話解説」の要約である。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.h4.dion.ne.jp/~million/hokuou1.htm
北欧神話解説
[中略]
 北欧神話とは、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドなどの北ゲルマン人の間に伝えられた神話だ。
 根本資料はサクソの「古エッダ」とスノリ・ストゥルルソンの「エッダ」であるが、これらは完全なものではなく、不一致の点もあるため神話の全貌を得るのは難しい。
 [中略]
 北欧神話の特質に絞るとすれば、[中略]あくまで豪快かつ悲劇的であり、荒々しくて暗い。
 北欧の厳しい自然とゲルマン人の深刻な運命感をよく表していると思える。
 それらは世界の始まりや神々と巨人との対立、世界の終末における神々の滅びに特によく現れている。
 [中略]
世界の始まり
 奈落の口の南にムスペルスヘイムという火焔をあげて燃えさかる国があり、そこをスルトという者が警護に当たっている。彼は後に世界の終末で世界を焼き尽くすことになる。
 [後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 この「ように、なぜか、火山の記憶によると思える神話が、北の果て、北極圏の周辺の北欧にまで伝わっていたのである。

 理由は簡単である。北の果てにまで広がった裸の猿の祖先は、彼らの子孫が途中で改竄した神話とはまったく逆に、北の果てに発生したのではなくて、アフリカの中央部で発生し、一定の段階に達してから徐々に、北に移住したのだからである。わが最初の単行本、今から29年前の1974年に発行した拙著『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』には、以下の記述がある。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-50-601.html
(第6章-1)古代エジプト神話

 エジプトには、活火山はない。となりのスーダンにもない。ところが、古代エジプト人は、火山とか、温泉とか、火山地帯でしか見ることのできないものを、知っていた。
 [中略]
 火山――「ほのおの湖」
 温泉――「やけどするほどの熱湯」
 大瀑布――「大いなる捧げもののはてしない落下」、「とどろきによって生ずるおそれ」、「そのなかにいる神は、その名を『捧げものの落下の深み』といって、人がそこに近づかないように守護している」

 とくにこの大瀑布について、村上光彦は、「中央アフリカのザンベジの滝のことではないでしょうか」、と書いている。
 この滝には、イギリス人が、ヴィクトリア滝、という名前を勝手につけているが、現地名は、モシ・オア・ツンヤといい、雷鳴する煙の意だという。
 [中略]

http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-51-602.html
 [中略]
 セキリム川の水源に当るエドワード湖は、魚類に富み、漁業はいまも、ウガンダ西部の重要産業にひとつである。湖のまわりには、間歇泉、火口湖群があり、観光・保養地ともなっている。
 [中略]
 セキリム川の東側には、月の山として古代から知られた、ルヴェンゾリ山がある。この山塊は、「地上で最も湿っぽい場所の一つで、年間360日は雨が降り、降雨量は5000ミリメートルに達する」(同前、P.32)。

 ところが、今では頂上に雪をいただいた、この神秘な山塊が、かつては活火山で、紀元前6000年頃に、大爆発を起し、巨大なセキリム湖を埋めたてて、細い川にしてしまった、という意外な事実が明らかになった。
 [後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 アフリカで発生した以上、黒人が裸の猿の中心であり、自然の姿である。では、アフリカ由来の神話を持つ北欧人は、いかにして「白人」になったのか

 拙著『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』では、以下のように要約している。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-46.html
(第5章-5)北ヨーロッパ人

 長い間、北ヨーロッパの諸民族は、北方に起源をもつ「純枠種」であるという神話が、定説であるかのように、語りつづけられてきた。

 しかし、形質人類学、つまり、人類の生物学的研究が進むにつれ、北欧神話はくずれはじめた。たとえば、アメリカの人類学者、クーン、ガーン、バードセル(以下、クーンを代表とする)の3人の共著による、『人種』という本では、北ヨーロッパ人の中にみられる高身長で鼻の細くとがった骨格は、「紀元前5000年をこえないある時期に、おそらくイランから農耕民・牧畜民としてユーラシアの草原に入ってきた」人々がもたらしたもの、と説明されている。

 では、その当時、イラン高原にいた人々はどんな肌色をしていたかというと、クーンは、「淡褐色の皮膚、褐色の眼」をしていたと考えている。そして、イラン高原からインドに侵入した、いわゆるアーリア人についても、従来主張されてきたようなブロンド人種ではなかった、と説明している。では、淡褐色の肌色、褐色の眼の人々は、どういう時期に北ヨーロッパに移住し、ブロンド型になっていったのであろうか。

「その頃ウラル山脈の氷河の融解によって地表をあらわした地域は曇りがちであった。彼らは紀元前2000年代に中央および北西ヨーロッパに到達した。彼らがここに来たのは雲多い時代の終末期であった。彼らは第一には原住民との混血により、第二には環境的淘汰によって、あるいはこの2つの経過にしたがって、皮膚、毛、眼に関するブロンディズムの遺伝子を獲得したのだろう」(『人種』、p.114)

 では、「原住民」は、どんな人種的特徴を持っていたのであろうか。そして、ブロンディズムとは、どのようなものであり、どのような自然環境の中で発生したものであろうか。

 ブロンディズムは、雲や霧の多い、氷河期の北ヨーロッパ特有の気候の中で発生した。基本的には「白皮症」である。つまり、色素細胞の機能消滅である。この現象はどの地方でも発生するが、太陽光線のとぼしい環境の中では、これが、かえって有利な条件となった。しかもこの環境はほぼ、紀元前の2200年までつづいた。ホメーロスも、北ヨーロッパについて、霧多き国とうたっていたほどであろ。

 このことからすれば、北ヨーロッパ人の「純粋性」を主張する際には、もっとも色素沈着のすくない住民をあげなくてはならないだろう。事実、クーンは、こう書いている。

 「灰色ブロンドの毛はバルト海地方の東方および南方の中部ヨーロッパの、皮膚の青く、灰色の眼をした住民の間ではもっとも普通である」(同前、p.113)

 つまり、いわゆる金髪青眼ではなくて、銀髪灰眼の方が、北ヨーロッパの古くからの現住民だった。バルト海は北ヨーロッパの中心部であり、凍りついた海の上には、ツンドラ草原がひろがっていた。曇りがちな空の下で、狩猟民が紀元前3000年もしくは2000年頃まで、つまり古代エジプト帝国がアフリカ大陸からオリエントに進出していたころまで、氷河期と同じ生活をつづけていた。現在のバルト海沿岸には、「白眼」とよばれる人々さえいる。

 では、この銀髪灰眼の人々は、どんな骨格をしていたのだろうか。

 「この種の色素をもつ人々の多くはずんぐりしており、顔は幅ひろく獅子鼻である。彼らはモンゴロイドが完成した寒地適応の路を部分的にたどってきたのであった」(同前、p.113)

 つまり、人類そのものの生物学的な研究によれば、すんぐりした身体つきの方が、表面積が少なくて、体熱の発散をふせぐ。この方が寒地適応型なのだ。もちろん、ここでモンゴロイドの典型とされているのは、氷原の狩猟民族、エスキモー人っのことである。

 [後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 アフリカ由来の神話は、これまた当然、北の果ての「原住民」のそれと何度も混じり合い、筋が入り組み、現在にまで伝わっているのである。

 なお、ここで誤解を避けるために注記すると、「白皮症」は、黄色人種にも、現在のアフリカの黒人にも発生する。上記の「ブロンディズム」についての「発生」という表現は、原著の訳語であって、「白皮症」そのものの「発生」とは意味が少し違う。正確に言えば、黒人に発生した「白皮症」が、環境の中で有利だったから、自然淘汰の結果として北欧で一般化したのである。

「白皮症」は、以上のように、「曇りがちな空」または「白夜」の劣悪な環境の中では、太陽の光の中の紫外線を吸収するための必須条件であったが、南を「侵略」しに行くのには不利である。皮膚ガンに罹りやすい。そのことを熟知している「白人の劣等感」の裏返しの非情さが、今、非常に危険なのである。

 また、クーンらは、「イラン高原にいた人々」を「淡褐色の皮膚、褐色の眼」としているが、これは証拠不十分である。現在の住民と同じ肌色、もしくはもっと黒く、サハラ砂漠の遊牧民に近かった可能性の方が高い。いずれは、DNA鑑定によって、確定されるであろう。

 さて、北欧神話とキリスト教は矛盾する。中間にあるのが英国教会である。

 白人優越主義は、一般に「ヒトラー」なり「ナチス・ドイツ」を典型として論じられているが、これは実に、お粗末な認識である。

 近代における基本的な根源は、アフリカ・アラブ・インド・アジアなどの有色人種地帯を植民地にしたイギリスで、最初に広がったものである。

 思想的には、フランス革命以後のフランスの「王党派」、つまりは反動的思想の持ち主、ゴビノー(1816-1882)の著昨、『人種不平等論』によって、「理論化」されたとされており、これまた実に、捻くれ曲がった歴史を持つのである。

 このように捻れに捻れた神話、宗教の束縛を、解き放つのは、難事ではあるが、いずれ、それも、果たさなければならない課題なのである。

 ああ、しかし、わが黄色ん坊こと、これまた北方の島国の野蛮人の子孫、日本人の木村愛二が、この難題を担うべきか、否か、これまた「問題」(problem)なのである。

 なお、わが最初の単行本、拙著『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』には、何度か書き改めた草稿が沢山ある。その中にも、当時の万年筆の手書きで記されているはずなのだが、最初の構想の仮題は、「黒ん坊・白ん坊・黄色ん坊・最後の蛮族アングロ・サクソン」であった。

「黒ん坊」という言葉に関するわが拘りに関しても、別途、書き残したいことがあるが、当面は、30数年前のわが構想、または歴史認識が、今の今、当たりすぎといっても差し支えないほど、当たっていることの方に、むしろ、私自身、呆れ果てているのである。

 この認識は、別に、少年時代から愛読、いや、耽読した空想科学小説などに基づくものではなかった。『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』を執筆した当時は、ヴェトナム戦争の直後であり、アフリカをはじめとする世界の各地に、アメリカを背景とする戦争、または「代理戦争」と「人種差別」が続いていたのである。これまた、何と、その後の数十年も続いている風景なのである。

 おい、こら、「白ん坊」海賊奴、もう、いい加減にせんかい!

 以上。


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