日本共産党への緊急申し入れ
2000.1.7
「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」に(特別巻頭)として追加
本日、1999.11.28.(日曜日)、11.22.(月曜日)に申し入れた「本問題」解決への善処の努力に関して、日本共産党中央委員会直属の訴願委員会は、「解決に努力しないのなら可能な限り情報公開せざるを得ない」との私の申し入れを「脅迫」と称して拒絶し、その他の関係者からも、まったく何の回答もないので、本名を出すのを望むという碓氷夫妻の要望に従い、以下、できるだけ簡略に事情を公開します。
日本共産党が関係する事件が常に陰惨な様相を呈するのは、「内部の問題を外部に出してはならない」との規約を盾に取って、事実上の独裁支配、官僚支配が横行するからです。私が、ホームページで「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」発表に踏み切ったのも、この規約の悪用あればこそのことなのです。
さて、以下、「本問題」としますが、この問題の出発点について私は、私自身が、日本テレビ放送網株式会社を相手に不当解雇撤回闘争をしていた時期、今から十数年前に、詳しく知っていました。現在は「ラジオ日本」になっている元「ラジオ関東」で2人の組合員・日本共産党員が解雇された事件の解決後の経過の中で、その解決以前に生じた不祥事件の傷跡が、関係者の官僚主義的な自己保身の逃げ腰により、ますますこじれ、かきむしられてしまったものなのです。
「本問題」の核心部分は、後段の文書に出てくる「この男{共産党員}」による碓氷夫人、千栄子さんに対する「セクハラ」に発しています。争議中の事件だったので、解決への障害になるとの配慮から、碓氷夫妻は表沙汰にはしませんでしたが、関係者には訴えており、身近な争議団の私たちは熟知していました。
私は特に、民放労連日本テレビ労組の組合員・日本共産党員であり、民放の争議団の代表として東京地方争議団共闘会議の副議長にもなっていましたから、争議解決を控えた時期には、どうにか2人が仲直りをして解決を向かえることができいないものかと、双方に別々の場で働き掛けたりしたので、事情を熟知していました。しかし、悪い方の「この男{共産党員}」は、最後まで詫びの一言も吐かず、碓氷さんは、争議が終ったら顔も見たくないと断言し、私の仲介は無駄に終りました。
争議解決集会には、2人の反目をはらんで、異様な雰囲気が漂いました。私は、碓氷さん一家の方だけと一緒に、2次会、3次会と付き合いました。
ところが、後段の文書に「13年後、平成7年」と記されている時期の集会に関して、突然、私にも「呼び掛け人」になってほしいとの手紙が、前記の「この男{共産党員}」の方から届きました。見れば国民救援会から地元日本共産党議員の他に、民放労連の仲間も連名で「呼び掛け人」に加わっています。その後の事情を知らない私は、てっきり、民放労連も民放労連ラジオ日本労組も、賛同しているものと思い込んで「呼び掛け人」に加わり、武蔵野市から鎌倉市まで出向きました。
しかし、これまた異様な集会だったのです。碓氷さんは出席していませんでした。昔の争議の仲間の顔も、まったく見えません。2人の連名の「磯田・碓氷事件」として、民放労連ラジオ日本労組も民放労連も、その加盟組織である現マスコミ情報労組会議も支援し、港区労働組合協議会から東京地評、総評まで支援決定して闘った事件なのに、これはおかしいなと思いました。碓氷千栄子さんが「この男{共産党員}」と書く磯田政男さんの顔色は真っ青で、目は虚ろ、頬は引きつっていました。普通は、この種の集会には2次会の懇親の場が用意されるものですが、それもありません。
その後、碓氷さんから手紙がきて、やっと事情が分かりました。その集会開催以前に、一番肝心の民放労連ラジオ日本労組が、集会実行委員会から手を引いていたのでした。簡単に言えば、その集会は、碓氷さんに相談しなかっただけでなく、伝え聞いた碓氷さんから抗議を受けても、まったく無視していたのでした。
労組員として、日本共産党員として、私と同じく、下積みの苦労を重ね、特に日本共産党員として、今にも世界革命が成就する、「1970年代の遅くない時期には民主連合政府ができる」との日本共産党中央委員会の御宣託を信じて、家庭を犠牲にして闘い続け、老後の生活にも不安を抱えながら、しかも、今や、その苦労の歴史すら抹殺されようとしていると知った碓氷さん、いや、争議の場でも何度も見掛けた娘さんも含めて、碓氷さん一家は、まさに怒り心頭に発したのでした。
その後の裁判の経過も、私は、常に手紙で知らされていました。何も手伝えなくて申し訳ないと思い続けてきました。中身の薄い「裁判の和解」には、当然、碓氷さん一家としては、不満だらけだったに違いありません。しかも、その「和解」は、当事者同士だけのものであって、日本共産党や国民救援会の責任が免罪されたわけではありません。
私は、このためにワープロの使い方を習ったばかりだという碓氷千栄子に、電話で、かすれ文字のファックス通信ではスキャナーで読み込むのが難しいからフロッピを送ってくれと頼みました。それを速達で受けとってから、急ぎ以下のE-mailを、2度も会って会話をしたこともあり、年賀状や移転の挨拶状を受けとり、ユーゴ戦争問題ではE-mailで情報分析を送り、礼状も貰ったこともあり、つい最近にも国際法律家協会の集会でユーゴ戦争問題のヴィデオを直接買って貰ったこともある日本共産党中央委員・参議院の緒方靖夫に送りました。その前後に2度、参議院会館の事務所に電話をして、秘書に詳しく事情を話しました。先方も本問題を熟知していました。
しかし、本日、1999.11.28.(日曜日)、いや、真夜中を過ぎ、翌日になっても、何の返事もありません。以下、E-mailの再録です。
緒方靖夫 様
1999.11.24.木村愛二
拝啓。さる日曜日、1999.11.21.15:04の日時記入で、後段のFAX通信を受けとりました。碓氷さんは、私にとっては、日本共産党の党員としても民放争議団の団員としても先輩です。この件の事実関係については、争議中から知っており、「裁判闘争より13年後」の異様な集会にも「騙されて」出席しています。
悪いのはもっぱら「この男{共産党員}」とある磯田さんの方なのですが、日本共産党と国民救援会の対応の悪さから、今では逆に、娘さんも含む碓氷一家の方が、「きちがい」扱いされるという、新たな悲劇へと発展しています。党本部の訴願委員会にも、下記と同様の申し入れをしましたが、本日、1999.11.24.この問題は「裁判の和解でけりがついている。一切関知しない」との従来通りの結論と同時に、私の行為を「脅迫」と判断して、そのことを「通告」するとの回答を得ました。あの「反動の砦」での「裁判」で一切解決なら、日本共産党や国民救援会などの組織の役割は、一体何なのでしょうか。
貴兄の方には、月曜日に参議院会館の貴兄の事務所に電話をして、下記「神奈川県警の盗聴事件で闘った議員秘書の発言」が事実であれば、遺憾である、1週間以内に善処されたし、善処なければ、わがホームページで発表すると申し上げました。
何でも、可能な限り早く公開するというのが、最近の私の主義ですので、その主義に基づく「オンバー」(オンブズマンでは男女差別説があるので造語)活動をしている関係上、日本共産党だけを特別扱いはしません。情報公開を「脅迫」と受けとるのは、それだけ後ろめたいところがあるという判断となります。
以下、一部ミスプリ訂正、記号変更の上、全文を送付しますので、ご検討下さい。
日本共産党の表の顔と=裏の顔
1999.11.21.15:04(碓氷さんより)
私の夫と同僚の1人は資本と国家権力の手で組合弾圧を受け詐欺罪の汚名を着せられ解雇されました。昭和41年から57年迄、実に16年間という長い年月を組合員と共に裁判闘争をし、無罪、解雇撤回を勝ち取りました。
日本共産党の本部ビル建設寄付のお知らせを朝日新聞に掲載されたのを読み、私達家族が日本共産党という組織から、ことごとく人権を犯され、踏み躙られ苦しみぬいている事、そしてその間に見せた、この党の体質の汚さ{裏の顔}を一人でも多くの方々に知らせなければと言う思いでこれを書きました。
その問題は前記の裁判闘争より13年後、平成7年におきました。共産党員、その関係者が前記に記した裁判闘争を題材に大きな集会を鎌倉で開きました。「呼びかけ人」には共産党鎌倉市議会議員5名、現参議院議員、また主催者の中には歴史に残る闘争を経験した松川事件の方もおりました。
私達家族の怒りは集会そのものではありません。集会の中心人物だった共産党員が、前記闘争中に行った、私に対するわいせつ行為を隠蔽するため、私達家族をその集会から排除しなければならなかった。その目的意識のために集会関係者に数々の卑劣な嘘をつき、また本を出版するにあたって私達に知らせる事が出来ず、全く無断で当時未成年であった娘、私、夫の写真を多数のせました。この事によって、屈辱的なわいせつ行為を受けたうえ、闘いへのマイナスを考慮し、沈黙を守らざる得なかった私達家族に対し、さらなる屈辱と被害を与えたのです。
私達は平成7年から2年間共産党の訴願委員会{訴願委員会とは共産党員が行った行為に対し、訴える事が誰でもでき、党規約に従い調べる調査機関}中央委員、集会関係者{共産党員}鎌倉市議会議員5名、横浜西南地区委員会、神奈川県委員会に手紙電話で訴え続けました。が結果は、現在一連の事が明らかになり、国民が呆れ返っている、神奈川県警と体質が全く同じです。仲間をかばい続け、嘘と恫喝に近い態度で私達を虫けらのごとく捻り潰そうとしました。
私達は民事訴訟をおこし、公の場で事の次第をはっきりさせざるをえないところまで追い込まれました。その結果、当事者はワイセツ行為は争わず時効で逃げ切りましたが、集会の立上がりに不備があった事、また私達の写真を無断で使った事等の非も認め法廷の場で文章で謝罪しました。これにより私達家族は、この男{共産党員}との関係は完全に終わりました。
問題は私達が必死で問題提起してからの日本共産党の態度にあります。これからその態度と言葉をここで明らかにしたいと思います。
(1) 訴願委員会の態度
訴えた時より1月過ぎ何も音沙汰なし、こちらからの連絡に対しての答え「貴方達の私怨と決定しました」私達より「相手の嘘の証拠もある。持って行くから見てほしい」
「こなくて結構」電話をがしゃんと切られる。無念としかいいようがない。
(2) 鎌倉市議会議員5名の態度
尋ねて行っても追い返され、この4年間の私達の悲痛な手紙に対してすべて無視、この内1名は女性議員でありながら猥褻行為に対する怒りも無し。「呼びかけ人」の責任をすべて放棄。
(3) 女性参議院議員の態度
セクハラの事は忘れて闘った誇りだけを大切に今後を生きて言ってほしい。更に現在の自分の立場では何もできない。「呼びかけ人」の責任すべて放棄。この議員は特に酷く議員の資格無し。
(4) 衆議院議員{よくテレビに出てます}の秘書の態度
「調べないとは言ってません」「調べてくれますか」「そういう事ではありません」
この繰り返しの禅問答が夫と30分続く。その後は全て電話に出ず。結局調べず。
(5) 娘から別の衆議院議員{よくテレビに出てます}願いを込めて託した手紙
訴願委員会より返事あり「係争中につき答えられません」議員からは何もなし
(6) 係争中に訴願委員会に再度要請
「係争中につき答えられません」係争が終わったら「貴方はビラを撒いて私を侮辱したから話したくない」ガシャンと電話を切る。最初から何もする気が無かったのだ。酷すぎる、無念だ。
(7) 横浜西南地区委員会の応対
「これは党員がセクハラをやったのよ」と2度も私的発言をしながら何もしなかった。セクハラを追及する資格無し。
(8) 横浜市議会議員
「選挙が終わったら伺います」「セクハラの事は分かってますね」「分かってます」
選挙まで5か月もある。結局何もしなかった。
(9) 日本共産党の中央委員の数々の侮辱的発言
また
神奈川県警の盗聴事件で闘った議員
の秘書の発言もあります。
「右翼ときちがいは相手にしません」「貴方達は個人でしょ。組織ではないでしょ」「うちは警察ではありません。セクハラ等調べられません」「警察に掴まったら除名します、でも掴まってないでしょ」「セクハラは個人どうしの問題です。党員だとしても私達は口だし出来ません」
これは私達が共産党から浴びせられた暴言のごく一部であります。平成7年から今日まで一貫して共産党はこの様な卑劣な態度を取り続けています。公の席で見せたり、言ったりしている事とは天と地ほどの違いがあります。神奈川県警と何等変わりません。組織を守るためには1人の人間等、踏みつぶしても平気です。ほんの数人ですが真摯に解決しようと努力して下さった方もすべて潰されたようです。よって本部ビル建設寄付等、個人に要請すべきではありません。この様な体質を知らずに党を信じ寄付する方々が可哀相です。また女性に対する性暴力、性差別的発言に対しての追及並びに責任問題を言う資格もありません。
1999年11月17日
碓氷千栄子
私の電話番号は日本共産党本部に聞いて下さい。但し、いたずら電話等は録音し警察に渡します。以上記したことは、碓氷千栄子は責任を持って受けてたちます。
以上。
以上で「日本共産党への緊急申し入れ」終り。
連載:(その1)仮初にも「民主主義」を言うのならへ
週刊『憎まれ愚痴』49号の目次へ
連載:元日本共産党「二重秘密党員」の遺言リンクへ