連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (15-2)

「ガス室」裁判 判決全文 6

理由の第一:前提となる事実(八~十三)

平成9年(ワ)7639号 名誉毀損・損害賠償請求事件
1997.4.18.提訴 判決[1999年2月16日]
《シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態》と《「ガス室」裁判判決全文》兼用

理由(続き)

第一:前提となる事実(続き)

 本誌(平成8年9月27日号)の「投書」欄に、寺門正倫(以下「寺門」という。)の「『ガス室はなかった』か」と題する意見が掲載された。これは、前項に掲げた原告の意見中ガス室の存在に疑問を投げかけた部分に対する反論で、寺門は、この中で、「マイダネク(収容所)では確かにシャワールームのようなところがあったが、ガス室はそこに隣接した鉄筋コンクリートの部屋であり、そこの説明には、『CARBONOXIDE(以下COX)を用いて収容者を虐殺した。ツィクロンBも用いられた』旨が書かれてあった。」と指摘し、このような原告の主張は、「事実認定からして誤っており、『科学的事実』からかけ離れたものである。現状をよく知らない日本人をだますのはやめてもらいたい。」と述べた。

 本誌(平成8年10月2 日号)の「論争」欄に、浜地稔(以下「浜地」という。)の「木村氏の『論争』姿勢に根本的な疑問を提出する」と題する意見が掲載された。これは、第7項に掲げた原告の梶村に対する反論が、正鵠でなく的を得ていないと指摘するものである。

 この中で浜地は、まず、「木村氏は、『梶村の最大の錯覚の表れは、ドイツの刑法を無批判に崇め奉り、大上段に振りかざしていることだ。』などと大上段の非難を加えているが、梶村氏の文章のどこを指すものか」「言論の自由とアウシュヴィッツの嘘言説との関連について、梶村氏は連載の第1回で論及しているが、氏はここで人種差別に関する国際法の現代的展開と、反ナチの市民行動という2つの文脈から論じており、特定の実定法を『崇め奉る』ことはおろか、『無批判に』論じてもいない。」と指摘し、さらに、「(原告の)『ヴァイツゼッカーらの偽善的保守攻治家を神格化する議論』なる言辞も、荒唐無稽である。梶村氏がヴァイツゼッカーに関して詳言しているのは連載第3回であるが、ここで氏が同大統領の1985年5月8日の有名な演説を未来へ向けてのドイツ政治の文脈において肯定的に評価しているに過ぎないことは……一見して明白である。」「一体どうすれば、『神格化』などというオドロオドロしい表現に達せられるのであろうか。……木村氏が自著の宣伝文句に大言壮語を連ねるのはご自由だが、他者の言論を批判するのにこの種の事実に反するレトリックを弄ぶようでは、およそ『論争』の当事者適格を欠くという他はない。」と論ずる。

 次いで浜地は、原告が前記の意見の中で取り上げた「言論の自由」について触れ、「言論の自由について原理的な議論をする紙幅はないが、それが歪曲・デマ・差別的言論の自由を含意しないのはいうまでもあるまい。氏は嘘の禁止を言論の自由の名において非難している、と理解しても不当ではないと考えるが、嘘について、ナチズムとの関連なしに論じられるなどと考えることが全く非現実的であることも、明白であろう。……少なくともナチ権力の成立という歴史的経験の後では、言論の自由をめぐる環境は、言論に携わる者に無責任なナイーブさを許さないというべきである。梶村氏に対して先のような批判を行いつつ、ご自身はかくも無邪気にヴォルテールを引用できるという神経は、およそ私の理解力の範囲を越えている。」と述べた上、「最後に。私がガス室否定論者の主張内容について議論する気になれないのは、これらの言説の構造と修辞の、かかるいかがわしさに起因する。こうした修辞は政治的アジテーションとしては別に珍しいものではないし、明確に政治の文脈で発せられる限り、私としては(内容はともかく)議論の仕方それ自体を問題にするつもりはない。その場合は要するに、議論の余地なくそれらの言説はネオナチ宣伝である。しかし、それが「科学的事実」探求の名において発せられるならぱ、修辞の不当性について問題にし続けるだろう。知的誠実さを政治的デマゴギーから、まずもって区別しなければならないからである。」と結んでいる。

 梶村は、本誌(平成8年10月25日号)の「論争」欄に、「ガス室論争へのふたつの回答」と題する記事を投稿した。この中で、梶村は、原告の「ガス室否定論」を批判して、「木村氏は相変わらずナチスの 350万人ものガス虐殺犯罪を『ガス室は密閉性に欠けており、科学的事実と相反する神話』であると決め付け、これら犠牲者の墓地であり、追悼の地であるアウシュヴィッツやマイダネクを『観光名所』と冒涜し、さらに貴重な生存者たちの証言を『イスラエル製の戦時宣伝』で『机上の空想・創作』であると否定します。このほぼパラノイアに近い主張に対し、論理的に答えようとするならば、木村氏へ次のような提案をするしかないでしよう。」とする。梶村の提案とはこうである。

 「ナチスが初めからガス室として建設し、破壊を免れ現存しているもののひとつ、たとえばマイダネクのそれを氏は『シャワールーム』と主張するが、そこの覗き穴つきの頑丈な鉄製扉を見ても、犠牲者の爪痕と青酸ガスの青緑色の染みが残る壁と天井を見ても、私には紛れもないガス室としか思えません。朽ちてしまった扉の密閉用のゴム枠さえ新調すれば現在でも機能するものです。このような私の判断が『非科学的な観光地での空想』であることを木村氏がもし実際に科学的に証明したいならば、いとも簡単です。ガス室否定論者の西岡昌紀氏と共に室内に入り、同志の花田紀凱氏に外からチクロンBを放り込んでもらえばよいのです。」と。

  もっとも、梶村は、直ちにこの提案を撤回して、次のように述べる。「これはいかに論理的であれ、明らかに自殺と殺人を教唆する馬鹿げた提案ですから、誰であれすべきことではなく、私もしません。この例をあげて私が述べたいのは、ガス室否定論は本来的に誠実な論理的議論とは無縁で、ただの『タメにする議論』、すなわちデマゴギーの典型であるということです。毒饅頭を『毒ではない』と言い張る相手には『それでは喰ってみせろ』としか反論できません。また自分の嘘を隠し続ける秘訣は相手の論をひたすら嘘であると言い続けることです。相手が反論する限り、何時までも水掛け論がつづいて終わらず、木村氏の場合は、これにかこつけて売れない自著の宣伝意図までが見え、実に不毛かつ不愉快ですから、同氏への回答はこの一度きりで終わりとします。」

十一 原告は、本誌(平成8年2月15日号)の「投書」欄に「『覗き穴』で馬脚を露した『世界現代史講座』の奇術」と題する記事を寄稿した。この中で原告は、前項に掲げた梶村の意見に対して、「マイダネクの『覗き穴』付きのドアを唯一の具体例に話を逸らし、シャワールームのものではないのに『そこの』と形容している。……ドクロ印の危険物扱いなので、写真が『ガス室』誤報の走りとなった。」と反論し、「氏は私が『売れない自著の宣伝』のために投書しているかのような下司の勘ぐりをするが、紙幅のない場合に資料の参照を求めるのは当然だ。」と反発している。

  また、原告は、同じ記事で前記の寺門の意見にも反論を加え、「感情的表現は別として、投書者が拙論を『科学的事実』でないとする根拠は、訪れた収容所に『書かれ』ていた掲示の鵜呑みでしかない。掲示の件は前述の通りである。氏が挙げるマイダネクの部屋も非常に小さい。『数百万の人間が自然死』などという誇大な数字を私は主張していない。」と主張している。

十二 寺門は、本誌(平成8年12月13日号)の「投書」欄に、再度「『ガス室はなかった』のか」と題する記事を投稿して、前項に掲げた原告の見解に反論した。いわく、マイダネク収容所の掲示を信頼することに疑問を呈する原告の主張は「博物館を管理するポーランド政府が虚偽の情報をばらまき続けているということであり、重大な問題だ。木村氏には、いつ・誰が・どのように捏造を行ったのか、それを企画・指示したのは誰かを客観的な物的証拠とともに提示されるよう要求する。単なる噂や推測などではいけない。歴史的には必ずしもユダヤ人に好意的とはいえないポーランドが、戦後のソ連の影響下にあってなおかつアメリカ合衆国及びイスラエルに都合のよいように物事を提造するというのは私の想像力を超えたできごとだ。収容所ではポーランド人もたくさん死んでいるのだ。」と。これに続いて寺門は、「確たる根拠なしに『ガス室はなかった』と公言することは、犠牲になった全ての人々の魂を冒涜することであり、かつ、現ポーランド政府をイカサマ師呼ばわりすることである。年寄りのヨタ話ではすまされない。」と述べている。

十三 本誌(平成9年1月10日号〉の「投書」欄に、医師である西村有史(以下「西村」という。)の「木村愛二氏にひとこと」と題する意見が掲載された。これも、「ガス室はなかった」とする原告の見解に対する批判を展開するもので、「肉親をナチに奪われた多くの人々の証言や、自責の念に駆られている元SS隊員の告白よりも、自らの『仮説』が正しいとうぬぼれるならば、実物大のシャワー室を造り、再現実験を全世界の歴史修正主義者を被験者として、ぜひ行うべきだ。これは脅迫ではない。証明されない推論よりも、当事者の証言の方が資料的価値が高いという常識を指摘したいだけである。」と述べる。そして、ナチの似非医学思想について、「ナチズムはその出発から、優生思想と民族衛生学という似非医学をバックボーンとしていた。多くの障害者、同性愛者・腺病者があるいは断種術の対象になり、『安楽死』という名の殺人の対象となった。片々たる妄説ではこれは消せない。」と述ベ、最後に、再び原告の見解に対し、「自らの反ユダヤ主義・人種差別を隠すイチジクに、パレスチナ問題をもちだし、片方でソ連の陰謀説を唱えながら、ドイツ基本法が反共だと非難する。木村氏の友人=ネオナチが、今アラブ人相手に何をしているかを見れば、主張の意味は明らかだ。こういうのを、信念のない、もっとも下劣な政治的レトリックという。」と結んでいる。


7:理由の第一:前提となる事実(十四前半:1~3)に進む