2000.3.3
湾岸戦争の予測は10年前から可能だった
前回に引き続き、『湾岸報道に偽りあり』からの抜粋を、紹介する。
として、 を、事前の情報から察知し得たかどうか、さらには、察知し得なかった私の反省について、拙著『湾岸報道に偽りあり』(1992. p.220-222)
第9章/報道されざる十年間の戦争準備
「イラク処分」への一本道は十数年前から敷かれていた
[中略]いかにも象徴的ながら、「石油」ではなく「水」の確保を「戦争」の歴史的目的の筆頭に掲げるアメリカ支配層の中東戦略思想は、すでに湾岸危機の十数年も前から声高らかに表明されていた。克明な公式文書の数々も一般公開されていたのだった。それらがなぜ今回の湾岸危機に際して、大手メディアで報道されなかったのか。「平和のペン」の武器として活用されなかったのか。これもまた重要かつ決定的な反省点なのである。
一九七三年に勃発した第三次中東戦争と、それに起因するオイル・ショック以来のアメリカの対中東戦略に関しては、すでに紹介ずみだが、湾岸戦争後(8・20)に出版された『石油資源の支配と抗争/オイル・ショックから湾岸戦争』の分析が、最も鋭い。著者は外資系石油会社に勤めた経験を持つ宮嶋信夫(本名は白石忠夫)であり、主にアメリカ当局側の資料とアメリカ国内の報道を綿密にほり起こして活用しているために、不気味なほどの説得力を発揮している。
以下、同書の記述を、まず新聞報道関係にしぼって要約してみよう。
一九七四年、フォード大統領は世界エネルギー会議の席上、石油価格上昇に関して、「各国民は歴史上、水や食糧、陸上・海上の交通路を求めて戦争に訴えてきた」と警告を発し、それを受けてアラブ諸国の新聞は「アメリカ、アラブに宣戦布告」などと論評した。二ヵ月後、アメリカはペルシャ湾で空母をふくむ八隻の艦隊による演習を、二週間にわたって繰り広げた。さらに、「一九七五年一月、フォード大統領にキッシンジャー国務長官は『OAPEC(アラブ石油輸出国機構)諸国が石油禁輸を行ない、自由世界、先進工業国の息の根が止められる場合には米国は中東で武力行使することを否定しない』と記者会見で明言した。その準備行動として、米国の中東砂漠に似た砂漠地帯で海兵隊の演習を行なう、と世界に向けて報道した」のである。このような対中東戦略は、一九七九年のホメイニ革命に対抗するカーター・ドクトリンに明文化され、「緊急展開軍」創設から「英雄」シュワルツコフの「中央軍」へと発展強化されていった。
宮嶋は、「カーター・ドクトリンでは湾岸地域での脅威がソ連軍であるかのようなあいまいな部分があったが……」と、アメリカ当局のかくれみの作戦を指摘しつつ、「国防報告」などによって「敵は石油にあり」の本音を容赦なく暴いている。
『湾岸報道に偽りあり』(1992. p.222-223)
なぜアメリカ議会国防報告が論評されなかったか
次の問題は、さらに決定的な「計画性」の証拠となる公式文書や、アメリカ議会の国防関係記録があったのか、なかったのかである。答えは「あった」であり、しかも、二重丸つきの「あった」なのだ。
最近のものだけではなく、十年ひと昔前の一九八〇年初頭の計画まであった。現在の「中央軍」につながる「緊急展開軍」編制と増強のために「軍拡」予算が請求された当時の何百ページもの公聴会議事録までが、いとも簡単に入手できたのである。内容もすごい。これら証言と報告が、湾岸危機の初期の段階に詳しく報道されていたならば、誰一人としてアメリカの戦争への意図と、それを可能にする謀略の存在を疑うものはなかったと断言できるほどのリアリティーがある。湾岸戦争は、十年以上前からの予定通りに実施されたといっても過言ではない。実物のコピーを見たとき、私自身、自分の目を疑うほどの驚きを禁じ得なかった。
驚きは二重であった。どうしてこういう公開記録が、最も大事なタイミングで問題にされなかったのか。なぜどのメディアも、これらの十年にわたる議会記録の意味するものを、振り返って解明しようとしなかったのか。英米流の議会制民主主義がはらむ可能性と、その陰の反面をなすマスコミ・ブラックアウト、大衆的「隠蔽」の機能を改めて痛感せざるを得なかった。
アメリカ議会の公式記録の重要性を私が再認識し、直接原資料に当たる気になったのは、本書の巻末付録の資料リストをほぼ整理しおえたのちのことであった。情報洪水との格闘に疲れはて、やっと一年後に訪れた谷間の休息のひととき。整理の合間に収集した資料をパラパラめくったわけだが、その際はじめて宮嶋以外には「だれもこれらの記録を引用しておらず、存在にもふれてない」という事実が、次第に浮かび上がってきた。あたかも、情報洪水を覆っていた霧が晴れてみると、突如、濁流の真中にそそり立つ巨岩が不気味な全容をあらわにしたような情景であった。
『湾岸報道に偽りあり』(1992. p.227-233)
米帝国軍「中東安全保障計画」に石油確保の本音切々
[中略]一九八〇年の上院外交委員会聴聞会議事録『南西アジアにおける合衆国の安全保障上の関心と政策』(『U.S. SECURITY INTERESTS AND POLICIES IN SOUTH-WEST ASIA 』[中略]は、マイクロ・フィシュではたったの四枚だが、議事日程で二月から三月にかけての六日間の証言と付属報告集であり、B5版で本文が三六八ページにもおよぶ長文のものであった。
[中略]定まり文句の「ソ連の軍事力の増大」ではじまり、「ペルシャ湾への合衆国(軍)の接近作業」(「U.S. APPROACHES TO THE PERCIAN GULF 」)という題名の軍事作戦地図でおわっている。だが、むしろ驚嘆すべきなのは、実に詳しい石油事情の分析と予測である。つまり、「安全保障」といい「軍事力」というものの本音が、まさに石油資源地帯確保にほかならないことを見事に自ら告白しているのだ。途中からは「追加報告」となり、文書提出の「CIA長官の陳述書」、「緊急展開軍」(中央軍の前身)、「ペルシャ湾からの石油輸入:供給を確保するための合衆国軍事力の使用」などが収録されている。「事件年表」の発端が、一九七三年十月十七日から一九七四年三月十八日までの「アラブ石油禁輸」となっているのは、この報告の歴史的性格の象徴であろう。
大手メジャー、エクソン作成の報告書「世界のエネルギー予測」もある。
[中略]「緊急展開軍」はすでに、イラクがクウェイトを侵攻する事態を予測した編制になっていた。聴聞会は、その事態に対抗する「必要条件」( REQUIREMENTS )の予算化を前提として開かれたのである。ではその際、なにが必要だと判断されていたのかというと、なかんずく……
「イラクは一九六一年にクウェイトへ越境しようと試みた。……ソ連は……イラクの二度目の計画を指導することがあり得る。想定される事態に最もよく目的を達成するためには、空軍の支援を受けた地上兵力が必要である。イラクの一〇個師団(四装甲師団、二機械師団、四歩兵師団)と二爆撃機、一二戦闘攻撃機隊に支援された二〇〇〇台近くの戦車隊は、米国の『ベストケース』の緊急戦力に十分対抗する戦力を持ちうる。イラクの総合戦力はどんな事態に対してもその第一日に展開できる一方、米国軍は空輸能力、海上輸送能力不足のため、少数ずつ逐次投入できるにすぎない」
米軍の世界憲兵戦略で最大のネックは、この「少数ずつ逐次投入」がはらむ危険性である。ネックの基本的原因は、世界最大の物量を誇る大部隊を地球の反対側の国まで送り込むことにあるわけだから、克服は容易でない。
[中略]そこで一九七九年十二月以降、ブラウン国防長官は緊急展開軍の増強計画予算の請求を開始した。翌年の予算決定にいたるまで、上下両院の軍事・外交・予算の各委員会における国防総省関係の証言と提出報告の記録は、優に千ページを超える。
[中略]第一次計画は一九八五年、第二次計画は一九九〇年に達成する方針だった。第一次計画達成段階で、緊急展開軍の基本戦力を一八八〇年現在の所要時間「数週間」の三分の一でペルシャ湾に展開できる。第二次計画達成で、地上戦闘部隊の基本部分が動員発令後十日以内に展開できる。
繰り返すが、この第二次計画達成の期限はまさに、イラクがクウェイトに侵攻した湾岸危機発生の年、一九九〇年なのであった。ドイツや日本の駐留軍からの追加戦力も当初から予定されていた。
「緊急展開軍」(略称・RDF)のフルネームは「緊急展開統合機動軍)(Rapid Diproyment JointTask Forces )であって、基本となる方面軍を中心に、必要に応じて世界中から応援部隊を集結させるというグローバル戦略に立っていた。実際の動員結果を比較すると、民間の輸送手段に頼る部分が多少遅れただけで、ほぼ十年前の基本計画通りに進行したようである。
[中略]中央軍が増強された十年間の大半は、「力強いアメリカの再現」を叫ぶレーガン大統領時代だった。
『湾岸報道に偽りあり』(1992. p.234-237)
「シュワルツコフ報告」とCIA=クウェイト「密約」
一九九〇年の前年、一九八九年十一月には問題のCIA=クウェイト「密約」が結ばれている。この密約のタイミングの選び方は、当然といえば当然なのだが、決してCIAの独断によるものではなかったであろう。というのは、密約が結ばれた一九八九年十一月に先立ち、一九八九年二月と四月に、中央軍司令官シュワルツコフは上下両院の軍事委員会で詳しい準備状況を報告しており、その中で、次のように述べていたのである。
「イラクはイランとの戦争を通じて湾岸地域で圧倒的な軍事大国となった。より弱体で、保守的な湾岸協力会議加盟国(GCC)にたいして潜在的な脅威を与えている。クウェイト北東部の戦略的重要地点にたいする執拗な領土要求は将来、問題となりうる」
「クウェイト北東部の戦略的重要地点」というのは、イラク側にいわせれば、ルメイラ油田の盗掘問題をめぐる国境紛争地帯のことであり、石油輸出のための水路確保問題なのであった。もちろん、タンカーのための港は軍艦の基地にもなり得る。しかし、シュワルツコフはもっぱら「戦略的重要地点」としての性格を強調していたのだった。
シュワルツコフは、こういう情勢報告を議会に出しただけではない。その時すでに総勢数十万名に達する大軍の動員計画は、あらゆる軍需物資を含めて整っていた。中央軍の準備状況に関しては、前年の一九八八年三月、シュワルツコフの前任者クリスト大将が上院軍事委員会で証言し、病院のベッド数にいたるまでの詳しい報告書を提出している。第一次、第二次と、十年を経た「緊急展開軍」改め「中央軍」の増強計画は、ほぼ達成されていたのである。
[中略]一九八〇年の米議会記録は、その当時のアメリカのメディアでは報道され、かなり議論されていたのだそうである。問題の出発点にはカーター・ドクトリンがある。カーターは一九八〇年一月の大統領教書で「湾岸地域における紛争を米国の死活的利害にたいする脅威と見なし、武力を含むあらゆる方法で介入する」方針を述べ、中東戦略の核心にすえた。その直後に提案された「緊急展開軍」は、その戦略の具体化であった。だから、このドクトリンが歴史の転換点をなしていたのだと考えるべきであろう。かつては、トルーマン・ドクトリンが東西冷戦の開幕を告げたように、カーター・ドクトリンは、湾岸戦争とそれ以後のアメリカの世界戦略を決定づけるものだったのだ。
ただし、この二つの大統領ドクトリンの中間にはアイク・ドクトリンがあり、[中略]アイクは一九五七年、アラブ諸国の石油国有化要求の高まりに対抗しながら、次のような骨子のドクトリンを発表していた。「米ソの冷戦構造の下で、アメリカが中東地域における戦略的物資として最重要の石油の権益を死守することは、ひいては西側の安全保障上の権益を守ることになる」「アメリカは中東湾岸の産油国、とくにサウジアラビアの石油を確保し、もし、サウジアラビアが攻撃されるようなことがあったら、それはアメリカ本土に対する攻撃と同様と見なす」
アイク・ドクトリンは、その主の退任演説を乗り越えて、今まで生き続けてきたのである。
ところが、当のアメリカのメディアまでが、データ・ベースをたたけばすぐに入手できたはずの一九八〇年代初頭の報道すらをほとんど振り返ることなく、湾岸危機を報道していたのである。単なる健忘症のなせるわざではない。「歴史の鏡」は故意に打ち捨てられたのである。このことが意味する危機的な問題点については、もう繰り返して論じる必要もないであろう。
以上で(その2)終り。(その3)に続く。