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『亜空間通信』854号(2004/08/16)
【ヒロヒト帝国「国体護持」で沖縄県民3分の1の命と2発の原子爆弾で分からぬ日本人への警告
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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!
私は、昨日の敗戦記念日に、以下の2つの投稿をした。中間には、意外も意外、天皇、裕仁を、無私の平和主義者と教え込まれた日本人(らしき)投稿者が、複数、出没した。
1)------------------------------------------------------------
裕仁はマッカーサーに沖縄占領を乞い天皇制を維持した。
http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/634.html
投稿者 木村愛二 日時 2004 年 8 月 15 日 21:35:55:CjMHiEP28ibKM
(回答先: 米軍の脅威に侵された戦後審判は誤りである! 投稿者 ごるごるもあ 日時 2004 年 8 月 15 日 19:47:37)
裕仁は、日本の歴史始まって以来、初めての敗戦後、退位せずに、マッカーサーに、25年か50年かの沖縄占領を乞い、天皇制を維持したのである。
その意味では、サウジアラビアの王様と同様に名君なのである。
右か左かを問わず革命を恐れたのである。
自称「左」の自己中心平和売人どもは、この実録を暴露しない。
幕府でも薩長でも、アメリカでも、臣下なのである。
かくして、エチオピア(本当はアビシニア)の君主が廃絶された後、最も長い血筋を誇る万世一系の日本の天皇制の伝統が、世界に輝いているのである。
おお、君が代、おお、日の丸、おお、明治、おお、慶応、テンノー、低脳!
フレッ、フレッ、低脳!
チャ、チャ、チャ!
逆立ち!
なお、王朝には「いろいろ」ある。エジプトのマムルーク王朝は、奴隷の軍人が開いたのである。日本は今、象徴天皇を頂くアメリカ奴隷軍の王朝期なのである。
2)------------------------------------------------------------
嘘つき歴史業者に騙された誤解を叱る。
http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/655.html
投稿者 木村愛二 日時 2004 年 8 月 16 日 13:28:11:CjMHiEP28ibKM
(回答先: くれぐれも誤解なきように 投稿者 津田十月 日時 2004 年 8 月 16 日 10:57:09)
嘘つき歴史業者、インチキ作家に騙された匿名投稿者の誤解を叱る。
以下に、本当の歴史がある。天皇は、天皇制の護持を、自分の為ではないと信じ込む狂信者の典型なのである。
マッカーサーも、天皇制を利用するアメリカの体制の方針の忠実な実行者であった。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nhk-4-6.html
嘘つき歴史業者、インチキ作家の横行にも、呆れる他ないのだが、やはり、しかるべき情報を与えなければなるまい。そこで、以下、20年以上も前の拙文を、2つ紹介する。これには、特攻機も加える必要がある。
を、じっくりと検討されたい。1)------------------------------------------------------------
yosoji-00.html
拙著『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』(筆名・征矢野仁、鷹書房、1982)
[中略]
「5月のナチ降伏以後のヒロヒト帝国の絶望的な3ヶ月」、降伏条件に「国体護持」を確保すること、そのための捨て身のデモンストレーションとして、沖縄県民の3分の1の生命が犠牲になり、ついには、アメリカ軍を占領と戦後処理の中心に据えるべく、2発の原子爆弾さえ使用されるに至ったのである」。
[後略]
2)------------------------------------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nhk-4-6.html
電網木村書店 Web無料公開
拙著『NHK腐蝕研究』(筆名・徳永正樹、汐文社、1981)
第四章 NHK《神殿》偽りの歴史
(4-6) NHKと天皇制官僚による“大東亜”最後の作戦
[中略]
終戦の“玉音”放送もあるが、その前に、海外放送の短波が活用されていた。しかも、なんと五月二十七日からだというのだ。主謀者は、情報局・同盟通信社・日本放送協会の上層部であり、サンフランシスコからの短波放送に応じたものである。先方のアナウンサーは、日本語を使い、ザカライアス大佐と名乗っていた。
「この放送に対して日本からは、五月二十七日夜から七月末まで一回三十分、八ないし九回にわたって日本放送協会の海外放送による“打ち返し放送”が行われていた。マイクの前に立ったのは同盟通信社海外局次長の井上勇であった。当時は毎朝、内務省の一室で、情報局、陸軍省、海軍省、外務省、日本放送協会、同盟通信社の代表などによって、海外からの放送などを基に情勢分析を行う連絡会議が開かれていたが、この会のメンバーであった情報局第三部第一課長の稲垣一吉、同盟通信杜から放送協会国際局に出向していた大屋久寿雄、それに井上の三人によって、ザカライアス放送に打ち返し放送をしてみようという相談がまとまった。そして軍には内密に、それぞれ上部の暗黙の了解をとったうえで放送が行われた。こうして、短波放送による交戦国間の対話が行われた。以下は、井上勇の回想による。
井上が『世界の歴史の中で、無条件降伏というものはありえない。降伏の条件を知らせよ』と放送すると、ザカライアスは『日本の無条件降伏とは、軍が解体され、兵士が復員することを意味する』と答えてきた。井上が『もっと具体的に』と追及すると、相手は『無条件降伏というものは、もともと貴国の山下奉文将軍がシンガポールで使用したことばではないのか』と反問してくる。井上が『日本はこれまでに負けたことがない。負け方を教えてもらいたいのだ』と問い返せば、ザカライアスは『それはおかしい。貴国の西郷隆盛は酉南戦争で敗北したし、源平の侍たちも始終降伏を繰り返していた。知らないわけがあるまい』といってくる。そこで井上は答えた。『君の知っている東京はもう存在しない。今の東京はまったくの焼け野原だ。わたしたち日本人は、掘っ立て小屋のトタン屋根の下から月をながめて幕らしているのだ。しかし、戦争に負けたからといって、簡単に頭を下げるわけにはいかない。勝者はもっと寛大であってよいのではないか』」(『五十年史』)
何ともジレッタイ問答だが、この種の打診は、他の外交ルートでも試みられていた。だが、連合国に日本のエリート反軍(?)主謀者たちがオソルオソル求めていた「寛大」な講和条件とは、具体的には何を指していたのであろうか。この点については、すでに歴史家の結論が出ている。それは、一にかかって「国体護持=天皇制の維持」にあった。さらに本音をたたけば、天皇制の陰に隠れた資本主義体制の死守であった。つまり、敗残兵も難民も、沖縄県民も空爆被災者もそっちのけ、自分たちの体制を存続させるだけのために、五月から八月までの長い長い打診と、一方では死の恐怖と焼け野原づくりの日々が続いたのである。しかもNHKは、同時に、抗戦体制の要の役割を果たしてもいた。
「あい次ぐ空襲に市民生活は脅かされ、交通網も通信綱も大打撃を受け、官公庁の連絡も思うにまかせない状態になった。五月二十一日から、ラジオには午前十時の時報のあとに『官公署の時間』が設けられ、中央官庁から地方官公署への連絡はすべてラジオで行われることになった。中央から地方への『示達』や『通達』すらが、すでに放送によらねばならなかったのである。連日の大空襲は、日本の崩壊を早めつつあった。軍事も経済も、行政も文化も、あらゆる機構と系統が空襲によって分断されていた」(『五十年史』)
[中略]
かくて八月六日、九日の惨劇。十日には、ポツダム宣言受諾の御前会議決定となる。
[後略]
以上。