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『亜空間通信』832号(2004/07/23)
【イラク派兵違憲訴訟7/26口頭弁論7/1朝日記事「自衛隊創設時から極秘に日米作戦計画」証拠提出】
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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!
私は、来週の週明け、月曜日、7月26日、午前10時30分から、東京地裁、713号法廷で、わがイラク派兵違憲訴訟の第1回口頭弁論において、安保条約が憲法違反であると主張し、吉田茂を一人だけ軍のジープに連れ込み、米軍基地の中で署名させた事実の確認を求め、かつ、イラク「戦争」に関しては、アメリカ、または英米イスラエルの謀略説などの主張を展開する。
こちらは通称、「本人訴訟」、たったの一人の原告だけの裁判なのに、わが手許には、14人もの国の代理人が判子をついた「答弁書」が届いている。
ほとんどが「木で鼻を括ったような」答弁の末尾に、「被告の主張」について、「追って準備書面により明らかにする」とある。
裁判公開の原則による多数の傍聴者の参加だけが、唯一の公正な裁判の保証なので、ぜひとも、こぞって、参加されたい。
ところが、なぜか、なぜか、何と、ほぼ同じ時間帯に、「イラク派兵違憲訴訟の会・東京」の口頭弁論が、その電網宝庫(ホームページ)記載の日程を、時間と法廷で分けて並べ直すと、以下のように入っているのである。
10:30~713号法廷
木村愛二
10:30~611号法廷
相原久仁子
いいだもも
堀世紀子
枝 光
徳岡敦人
上里佑子
鎌田 慧
11:00~611号法廷
岡本三夫
野添憲治
三田村伸
大野拓夫
友田良子
藤尾靖之
上記の611号法廷の方の口頭弁論の数は、14である。事実上、つなげて審理するから、12時の昼休みまでの合計1時間30分となる。その90分間を14で割ると、1件当たりの時間は、6分そこそこしかない。これでは、まるで、ベルトコンベアー生産である。ポンポン片づけられるのは、目に見えている。
他の日には、このような混雑状況はない。異常な事態である。裁判所の側の恣意的な取り扱い方は、最早、議論の余地無く、明々白々である。もともと、すでに、わが批判を公開したように、「ゲバ棒」弁護士、内田雅俊の売名に利用された「毎日提訴」なる滅茶苦茶訴訟が、国の罠に嵌ったのである。
私は、この情けない会とは決別した。一人だけの単独の訴訟でも十分である。「小泉レイプ事件」も、その戦法で成功した。当然、7月26日にも、午前10時30分から昼休みまでの90分を全部使って、正々堂々、訴状と準備書面、証拠説明書、証人申請書(証拠申出証拠申出書)の要旨を、口頭で述べる。
他のイラク派兵違憲訴訟の内容は、原告の訴訟に至る心境を述べる点が、貴重ではあるにしても、それは証拠として採用されることはない。違憲訴訟としては、ありふれた議論にしかならず、国側の常套手段、「統治行為論」で、簡単に蹴飛ばされる。
私は、米=日軍事同盟の事実を重視する。証拠の一つは、以下の朝日新聞の電網記事の印刷物の方の複写である。
自衛隊創設時から極秘に日米作戦計画 首相に報告せず (asahi.com)
http://www.asyura2.com/0406/war57/msg/228.html
投稿者 彗星 日時 2004 年 7 月 01 日 09:14:54:HZN1pv7x5vK0M自衛隊創設時から極秘に日米作戦計画 首相に報告せず
自衛隊創設直後から、ソ連による日本侵攻を想定した「日米共同作戦計画」が、自衛隊と在日米軍の間で毎年作られていた。最高度の秘である「機密」指定で、存在そのものも秘密にされてきた。朝日新聞の取材に対し、複数の元自衛隊幹部が初めて証言した。また、それを裏付ける米太平洋軍司令部の秘密指定が解除された報告書も見つかった。日本政府はこれまで、共同作戦計画づくりは78年の日米政府間合意である「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」にもとづいて始まったと説明してきたが、それが完全に覆された。
この計画は、旧ガイドラインの策定が始まるまで、自衛隊の最高指揮官である首相にも報告されず、正式な「政治の承認」のないままに行われていた。政治問題化を恐れて防衛庁が内密に処理していた。自衛隊の文民統制(シビリアンコントロール)の根幹を揺るがす問題で、政治責任の欠如は、イラク多国籍軍をめぐる国会審議・承認の回避など、現在にも尾を引いている。
証言したのは、50年代から70年代にかけて、統合幕僚会議や陸上幕僚監部でそれぞれ共同作戦計画づくりを直接担当した中村龍平・元統幕議長、源川幸夫・元東部方面総監、松村劭(つとむ)・元富士学校機甲科副部長ら。その内容は、琉球大の我部政明教授が入手した米太平洋軍司令部の73年版年次報告書と一致した。
計画の正式名称は、日本語で「共同統合作戦計画」。英語では「Coordinated Joint Outline Emergency Plan」(CJOEP)。日本語版と英語版の2通りが作られた。日本語版はA4判で数千ページ。十数部しか作成されず、防衛庁内の金庫に厳重に保管されたという。
計画は毎年改定され、統合幕僚会議議長と在日米軍司令官が署名した。防衛庁内局の防衛局長を通じ、防衛庁長官に報告される形になっていた。
「共同統合作戦計画」のシナリオは、ソ連軍が北海道に上陸侵攻。自衛隊がまず独力で対処し、米軍の来援を待つ。米軍の来援部隊は、陸軍が3個師団プラス1~2個旅団、海軍がおよそ3個空母機動部隊、空軍が十数個飛行隊。数次に分かれて、1週間から2カ月かけて日本に展開することになっていた。
陸海空自衛隊はこの共同作戦計画を前提に、毎年度の日本防衛計画である「年度防衛警備計画」(年防)を策定してきた。
一方、米側は、こうしたソ連軍による直接の日本侵攻よりも、朝鮮半島有事が日本に波及する事態の可能性が大きいと見て、その検討を優先するよう強く求めた。だが、日本側は「集団的自衛権の問題に踏み込む恐れがある」と主張し、具体的な検討には至らなかったという。
共同作戦の指揮権については、日米双方とも「統一指揮が望ましい」という点では一致したが、どちらも相手の指揮下に入ることを望まず、この点は作戦計画に明記されなかった。
日米の制服間による計画づくりは米側の主導により、日米安保条約(旧安保条約)が結ばれた翌年の52年から始まった。自衛隊の前身である保安隊の時代だった。54年に自衛隊が誕生し、翌55年に最初の計画が陸上幕僚監部と在日米陸軍司令部によって完成。57年から陸海空を統合する形で、統合幕僚会議と在日米軍司令部の間で作られるようになった。
日米ともに政府レベルでの承認は正式に行われなかった。米側は政府承認を求めたが、日本側が「難しい」と拒否したためだ。米太平洋軍司令部の報告書には「極めて微妙な政治問題であるため、自衛隊の担当者は政府の承認を得ることに消極的だった」とある。
しかし、70年代に入って、米政府は世界規模で各国との共同作戦計画の見直しを行い、日本との作戦計画の政治的位置づけのあいまいさに着目。政府承認を強く求めた。この結果、75年に坂田道太防衛庁長官とシュレジンジャー米国防長官の間で、「作戦協力」の協議開始で合意。78年に計画作りの指針である旧ガイドラインが出来た。
◇ ◇
〈旧ガイドラインと日米共同作戦計画〉 日米両政府が78年、日本が武力攻撃を受けた際などの防衛協力や任務の分担などを明確にした指針。これにもとづいて、改めて「共同作戦計画」の研究が日米制服間で始まり、84年に北海道侵攻を想定した作戦計画「5051」、95年に中東などの有事波及を想定した同「5053」が完成。いずれも防衛庁から首相に報告された。
旧ガイドライン以前に共同作戦計画が作られていたのではないかという疑惑は、65年と75年の衆院予算委員会で、岡田春夫議員(社会党)が64年ごろの防衛庁文書と見られる共同作戦計画「フライングドラゴン」の関連文書を示して追及した。防衛庁側は「共同作戦計画はない」「幕僚レベルの研究はしている」などと否定していた。 (07/01 08:30)
上記の記事は、以下の特集、わが長年の主張の補強の役割を果たす。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/akuukan-01-10-23.html
『亜空間通信』23号(2001/10/1)
【軍と軍の日米共同参謀組織の直接関係は1980年の米議会の約18か月前から】
http://www.jca.apc.org/~altmedka/akuukan-01-10-27.html
緊急協力要請!『亜空間通信』27号(2001/10/03)*2001.10/14.改訂
【来週国会で論戦の的となる自衛隊後方支援は米軍の下請けで密約の押し付け】
http://www.jca.apc.org/~altmedka/akuukan-01-10-27-b.html
2001.10.03:27-b号
緊急協力要請!
『亜空間通信』27号(2001/10/03)縮小版
来週国会で論戦の的となる自衛隊後方支援は米軍の下請けで密約の押し付け】
以下、広く知らせるために縮小の日本語のみ版を作成。転載など大歓迎!
[後略]
この元の情報、B4判で本文が368頁の米議会小委員会議事録、『南西アジアにおける合衆国の安全保障上の関心と政策』の抜粋も、証拠として提出する。議事録は絶版だが、その復刻版(私が作成)の実物を、回覧して示す。
決め手の証人は、原告の私自身である。私は、防衛大学校の3期生として、日本の自衛隊が、アメリカの植民地軍以外の何物でもないことを、実感し、退学し、その後は、米軍基地撤去、日本の独立を求めて、戦い続けてきたことを、つぶさに証言するのである。
なお、上記の7/1朝日新聞記事の背景に関しては、非常に複雑な事情ありと推察するので、別途、詳しく論ずる。
以上。