2009/8/2 | 所沢高校井田将紀くん・指導死の控訴審判決と恐い流れ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009年7月30日(木)、1時15分から東京高裁825号法廷で、平成20年(ネ)第4556号所沢高校井田将紀くん・指導死の控訴審判決が出た。 約30分前に傍聴券の配布があったが、48席中18名が並び、全員が法廷に入ることができた。その後、少しずつ傍聴人が増えたが半分程度しか埋まらなかった。 地裁判決と同様、長崎の安達雄大くんのお母さん(040310)、兵庫の西尾健司くんのお母さん(020323)、ラグビー部の顧問にシゴキのターゲットにされ自殺した金沢昌輝くんのお母さん(020325)、井田さんと同じ埼玉で、お菓子を食べたことで指導された直後に自殺した大貫陵平くんのお父さん(000930)も傍聴席にいた。 一審被告の埼玉県の代理人席は空席で、誰も座っていなかった。教育委員会の職員らしきひとがひとり、傍聴席にいただけだった。 裁判官は園尾隆司裁判長、藤山雅行氏、藤下健氏。判決は「棄却」。そっけないものだった。 控訴審では、伊藤進氏の意見書が出るのを何度も待ってくれたこともあって、少しは井田さんの思いを汲んでくれるところがあるかもしれないと期待したが、みごとに裏切られた。最初から結論ありきだったのかと思わざるをえない。 一審のさいたま地裁判決(2008/7/30。偶然、7/30に地裁、高裁とも判決)よりさらに、学校側の言い分のみを上乗せした内容だった。(一審判決については me080731 を参照) 判決文は全部入れても、A4用紙で8枚。 学校・教師の「将紀くんはカンニングをしたに違いない」という主観に基づいた主張を、「当裁判所の判断」としてさらに付け加えた。そこには一切、原告側の意見は入れられなかった。伊藤進氏の意見書にも、一言も触れられていない。学校教師と、何十年もこの問題に取り組んできた日本でも指折りの学者とではどちらが、教育法にのっとった視点をもっているかは明らかだ。よくも、完全に無視できたものだと思う。 「将紀本人の弁解によりその疑いが払拭できない限り、客観的に見てカンニング行為の存在を認定されてもやむを得ない状況にあったと認められる」(P6)。 5人の教師による場当たり的で、長時間にわたる事情聴取についても、「現に行われた本件事実確認の内容は、以上のような必要性に沿うものであると認めることができるし、その態様も、次に検討するとおり、教育的見地からみても適切なものであったと認めることができる」(P6)。 「本件事実確認に当った教諭らにおいても、将紀の弁解を聴いてもカンニング行為の存在についての疑念が払拭できず、単に教育的な配慮から将紀の弁解を受け入れることとしたにすぎないことからすると、カンニング行為の存在を前提とした処分がされる可能性も認められることから」(P7) 約2時間にわたる5人の教師による事情聴取は、試験監督の教師が、将紀くんが物理の試験中に見ていたメモが、「物理の記号に見えた」という思い込みから端を発している。 思い込みと、実際に提出された日本史のメモ。そのギャップを埋めるために執拗に事情聴取がなされた。 「将紀本人の弁解によりその疑いが払拭できない限り」というが、教師の主張する物理記号のメモは実際に、将紀くん自殺後も発見されていない。証拠がないのであれば、「疑わしきは被告人の利益に」というのが司法の世界でさえ常識だというのに、間逆の考え方になっている。まして、教師がその場で将紀くんが提出したメモを確認していれば、誤解は解けたはずだ。いわば、警察捜査で言われるところの「初動ミス」を教師がおかしたことによる。にもかかわらず、将紀くんに立証責任があるという。カンニングをしたことの立証と、カンニングをしなかったことの立証のどちらが難しいか、考えてみてほしい。 将紀くんは必死になって、カンニングをしていないことを教師たちに伝えようとしただろう。しかし、それができないとわかったから、絶望したのではないか。 「将紀の弁解を聴いてもカンニング行為の存在についての疑念が払拭できず、単に教育的な配慮から将紀の弁解を受け入れることとしたにすぎないことからすると、カンニング行為の存在を前提とした処分がされる可能性も認められることから」 まさしく、このことを肌で感じたからこそ、自殺にまで追いつめられたのではないか。 表面上では、将紀くんの言い分を聞いているように見えても、自分の言い分はほんとうには信じてもらっていない。やったことの範囲内で処分されるのであれば、納得もする。しかし、やっていないことを疑われて、どんなに言葉をつくしても、それこそ2時間という時間をかけても、しかも教師が5人もいながら、誰1人将紀くんの言い分を信じてはくれない。どれだけ絶望的な気持ちになっただろう。その5人の教師に説得されれば、たとえ自分を信じてくれている母親でも、もう信じてはもらえないのではないか。 たったひとりの教師に信じてもらえないのと、5人もの教師に信じてもらえないのとでは、絶望感はまるで違う。 そして、「現に行われた本件事実確認の内容は、以上のような必要性に沿うものであると認めることができる」「その態様も、教育的見地からみても適切なもの」というが、企業での上司から部下への指導にしても、犯罪の取調べであったとしても、ひとりも味方がいないなかで、5人もの人間が長時間にわたって事情聴取にあたることが「必要」で「適切」だと認められる世界がどこにあるだろう。大人の世界であれば、明らかにパワハラであり、不当な取調べであると思う。 まして、子どもは大人以上に傷つきやすいし、言葉でわかってもらえなければ、あとはもう行動で示すしかない。 たとえどのような聴取の仕方がされたにしても、事実確認後に、指導直後に、生徒が自殺するような指導が「必要」で「適切」なはずがない。結果が最悪の事態であるのに、経過が正しかったはずがない。 いじめ自殺があっても、学校は「教育配慮」のもとに、あるいは「学校は警察ではないので」、どれだけ目撃証言があっても、調査できないという。事実確認さえできないという。相手を死においやった重大事件では加害者が放置され、一切の処分も指導もされない。一方で、日常的なささいな違反行為に対しては、見せしめ的つるしあげる。事実確認が目的ではなく、聴取そのものが生徒に苦痛を与える罰と化している。 子どもは発達途中であり、様々な間違いをしてむしろ当たり前だ。生徒指導はいつ、いかなるときにでも、生徒の成長を目的に、結果を熟慮して行われなければならない。それをするのが教師の役割のはずだ。 5人の教師たちが、「カンニングをしたに違いない」という思い込みのもと、将紀くんの言い分を聞こうとせずに追いつめた。そこに新たに、3人の裁判官が加わって、「疑われることをしたのであれば、クロと判断されても仕方がない」と追い討ちをかけた。 これでは、たとえ将紀くんが生きていたとしても、やはり死に追いつめられてしまうと思う。 女児殺害の足利事件、菅谷利和さんへの冤罪はなぜ起きたのか、思い出してほしい。菅谷さんは取調べに耐え切れず嘘の自白をしてしまったが、将紀くんは最後まで「やっていない」と貫いた。それでも、教師たちの対応に納得がいかないから、死んだのだろう。 将紀くんが命をかけて伝えた大切なことが、学校教師、裁判所にも何も伝わっていない。教師たちに反省ひとつ促すことができない。母親はどれだけ悔しい思いをしていることだろう。 菅谷さんは冤罪を晴らすのに17年間かかった。亡くなった将紀くんの冤罪は、母親が訴えつづけるしかない。 思い込みによる見込み捜査と、自白の強要。警察の密室での取調べも問題になっているが、学校はさらに記録係りもいないなか、教師の一方的な意見だけが採用される。 将紀くんへの事実確認行為が不法ではないとされるなら、これからますます、教師の思い込みによる学校内冤罪事件は多発し、言葉で言ってもわかってくれない大人への不信感から、暴力行為や自殺が多発することだろう。 そして、恐いと思うのは、ここのところの教育界での、司法での、子どもの人権を無視して、大人の一方的な言い分のみを認めて、暴力行為さえ正当化されてしまう流れだ。 2007/2/5 文部科学省は、いじめ自殺の多発をうけて、「水戸五中事件」の判決文(※760512参照)を引用して、「児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではない」とわざわざ通知(18文科初第1019号)を出したこと。 2008/11/12 県立湘南高校定時制で、非常勤講師が、使った食器を片付けさせようとして男子生徒に約1週間のけがを負わせた行為が、「生徒指導上の行為で、正当な範囲を逸脱したものとは認められない」と、刑事裁判で横浜地裁が「無罪判決」を出したこと。 2009/4/28の最高裁の「体罰と認めず」の判決。(me090503参照) いじめの定義に見られる「(被害にあった)児童生徒の立場にたって行う」ことなく、学校教師の言い分だけが一方的に採用され、児童生徒が、けがをしようが、PTSDになろうが、自殺をしようが、すべて正当な生徒指導の範囲とされてしまうことだ。 被害者の身になることも、子どもの味方になることもなく、大人の理論、強者の理論が優先されている。 指導死は、このサイトでもたびたび取り上げているし、具体的な例は子どもに関する事件・事故2(教師と生徒に関する事件)をみてもらえばわかるが、文科省の数値にはほとんど反映されていない。 文部科学省発表の児童生徒の自殺統計では、「教師のしっ責」を原因とする公立の小・中・高校の自殺者は、 1994年小学生1人、1995年中学生1人。(教育データランド 97→98 時事通信社 参照) 1996(平成8)年から、2005(平成17)年までずっとゼロ。2006(平成18)年からは項目が、「教職員との関係での悩み」となったが、2006年、2007年ともにやはりゼロ。 一方、警察庁は「教師のしっ責」を原因とする自殺は、警察庁の自殺統計の学生生徒の原因別では、1978(昭和53)年から1987(昭和62)年の10年間、「教師のしっ責」という項目があった。 毎年数字があがっていたにもかかわらず、1988年から項目に「教師のしっ責」がなくなった。「その他」に入っていると思われる。 2007(平成19)年から、「教師との人間関係」として復活。
それでも、警察庁の統計で10年間、数字があがっていたということは、その後はゼロになったとは考えがたいし、現実に新聞等では報じられている。 教師が原因の自殺だったとしても、警察庁は責任が問われないので、本当の数字をあげやすいが、文部科学省は責任が問われるのであげたくないのが理由ではないかと考えられる。だとすれば、どちらの数字が正しいかは明らかだろう。 同じように、警察庁の職業別自殺理由の統計では、学校問題と家庭の問題では、常に学校問題のほうが多いが、文部科学省の統計では、学校問題で自殺する児童生徒より、家庭問題で自殺する児童生徒のほうが毎年、多いことになっている。 「教師との人間関係による自殺」とあいまいな形にはなったものの、2007年、2008年にもやはり数字はあがっている。 このことを考えると、教師のしっ責、あるいは指導、人間関係等で、自殺している子どもは毎年のように出ており、けっして少なくはないと思われる。 指導死は、いじめ自殺以上に遺族が声をあげにくい。 今回、棄却された井田さんの裁判もけっして無駄ではないと私は思っている。 いじめ自殺も、かつては同様に、声をあげるひとが少ないがために、いじめが自殺に結びつくということさえ認知されていなかった。いじめられる側に問題がある、自殺する子はさらに問題があると、専門家たちが大々的に書いてきた。そのときに刷り込まれたものは、今も人々の意識のなかに根強く残っている。 いじめ問題も、子どもの死と結びつくと認知されてはじめて、様々な対策が動き出した。 指導死の遺族が声をあげることで、教師の言動で子どもが自殺に追い込まれることもあるのだということが、世間に認識されれば、少しは真に子どもための指導がなされるよう、教育現場が自分たちの生徒との接し方を見直ししてくれるのではないか。 それがなれば、子どもたちはこれからも、教師に殺されつづけるだろう。 |
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