わたしの雑記帳

2009/5/3 最高裁の「体罰と認めず」の判決(2009/4/28)に思うこと。

2002年11月26日、熊本県の市立小学校で、男性の臨時教師が男児(小2)の胸元をつかんで壁に押し当てて叱った。
この行為が、体罰に当たるかどうか争われた裁判で、2009/4/28最高裁の近藤崇晴裁判長は、「行為は教育的指導の範囲を逸脱しておらず、体罰ではない」として、体罰を認定して市に賠償を命じた1、2審判決を破棄し、原告の男児側の請求を棄却した。

2009年4月29日付けの讀賣新聞社説には、『指導には厳しさも必要だ』というタイトルで、『教師を足で蹴って逃げた子どもに対し、胸元をつかんで壁に押し当て大声で叱った。その行為を「体罰にはあたらない」と最高裁が判断したのは妥当な結論だろう』『相手が教師であればもちろん、友だちでも蹴ってはならないことは本来、家庭が゛しつけておくことだ。教師が毅然とした態度で、厳しく指導したのは当然だろう』とある。
そして、『最近は、児童生徒に友だち感覚で接したり、度を越した悪ふざけや暴力的言動を見過ごしたりする教師の存在も指摘される。あくまで教える側と教わる側であることを忘れてはならない』『生徒や保護者が教師らに対し、「クビにしてやる」などの暴言を吐くケースもある。』と書いている。
おそらく、この判決を聞いた多くの大人たちの反応と同じであると思う。

社説には、『最高裁判決は、今回の行為が教育上適切だったと認めたわけではない。判決が「やや穏当を欠く」と指摘したように、教師が手を出すことは、児童生徒の恐怖心や反抗心を生みかねない。』『児童生徒を温かく見守りつつ、やってはならない行為にき厳しい態度を示す。バランスが大切だ。容易ではないが、それこそプロの教師に求められる力量だろう』とも書いている。

最高裁の判決が妥当だったかどうか、正直いって私にはわからない。しかし、判決を聞いていくつか思うところがある。
1つ目。判決がひとり歩きすることの怖さ。
雑記帳ではたびたび体罰について触れているが、とくに2008年6月、「暴力を容認する東国原知事の危険な発言」(me080620)というタイトルで書いているのでぜひ、読んでいただきたい。
そのなかでも触れたが、文部科学省は「水戸五中事件」の判決文(※760512参照)を引用して、「児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではない」として、問題行動を起こす児童生徒に対して、学校に「毅然とした対応」「毅然とした指導」を繰り返し求めている。水戸五中事件がどういう事件だったかふり返ることもなしに。

それでなくとも、水戸五中事件判決は、長い間、教師が暴力を正当化するときに、決まって使われてきた。そこにもうひとつ、この熊本の市立小学校事件判決が加わるようになるだろう。
すなわち、「指導するためで、罰として苦痛を与えるためではなかった」「目的や内容、継続時間から判断すれば違法性は認められない」と、教師がカッとして我を忘れての暴力であっても、正当化されてしまうのではないか。
現に、最高裁は、熊本の事件でも、「教師は立腹して行為を行い、やや穏当を欠いた」と認定している。
「指導が目的だった」とは、教師としての立場であれば、いくらでも理由が後付けできてしまう。

2つ目。児童の心の傷という結果が軽視されているのではないかということ。
悪いことをしたら、叱る。それは当然のことだと思う。
しかし、産経新聞(2009/4/28)によれば、『1審熊本地裁は教員の行為を体罰とした上で、男児が心的外傷ストレス障害(PTSD)になったこととの因果関係を認めて、市に約65万円の賠償を命じた。2審福岡高裁は「教育的指導の範囲を逸脱した体罰はあったが、男児の症状はPTSDの診断基準を満たしていない」と判断、1審判決を破棄し、賠償額を約21万円に減額していた』とある。また、讀賣新聞(2009/4/28夕刊)によれば、『男児はその後、夜中に泣き叫ぶようになり、食欲も低下した』とある。

日本の裁判で、心の傷は今だ低く見積もられる。かなり後遺症があっても、なかなかPTSDとは認められない。
ひとつには、PTSDを診断できる専門医が少ないこと。精神学会のなかでも、PTSDに対しては諸説があり、「認めない派」の意見が反論として使われること。裁判官に心の傷に対する認識が浅いことなどがあげられると思う。
PTSDという診断名がつくか、つかないかは別にしても、日常生活に長く支障をきたすものは、「傷害」であると思う。

この事件のことは、私は報道でしか知らない。しかし、高裁では認められなかったものの、地裁がPTSDと認めたということは、それなりの診断結果が出ていると思われる。
単なる指導で児童にこれだけ深い心の傷が残るだろうか。また、たとえ指導目的であったとしても、子どもの心に強い恐怖心、深い傷になるような仕方は断じてしてはならないと思う
それを考えると、報道されているような「胸元をつかんで壁に押し当てて叱った」「胸元をつかんで壁に押し当て大声で叱った」程度ではないのではないかと思える。

多くの学校事故、事件で、児童生徒の証言より、大人である教師の証言が、事実として認定されやすい。教師は、保身を考えてたいていが過小報告する。

事件の経緯については、多くの新聞が内容をはしょっているが、朝日新聞(2009/4/28夕刊)には、少し詳しく書かれている。
『02年11月26日の休み時間中、男児が保健室前を通ったところ、講師が3年生の担任と一緒に、別の児童をなだめていた。男児は講師がこの児童をいじめていると思い、講師の肩をもんだ。講師は離れるよう言ったが、離れなかったため右手でふりほどき、男児は廊下に転んだ。
 そこに、6年生の女子が数人通りかかり、男児は友達と一緒に、じゃれつくように女子を足でけり始めた。女子たちは講師に対して、「この子たち、いつもけってくるんです」と言い、講師は男児の友達の肩を押さえ、そういうことをしてはいけないと注意した。
 その後、講師が職員室に向かったところ、男児が後ろからおしり付近を2回けって、逃げようとした。講師は立腹し、男児をおいかけて捕まえ、階段のところで胸元の洋服を右手でつかんで壁に押し当てて「もう、すんなよ」と怒った。手を放したところ反動で男児は階段の上に投げ出され、手をついて転ぶ形になった』と書いている。これは、あくまで2審判決の認定による「事実」だ。

裁判では、「胸元をつかんで壁に押し当てて叱った」行為のみが体罰にあたるかどうかの争点になっているようだが、男児にとって、男性講師の行為は、「児童をいじめていると思った」ことに対して、肩をもんだところ、ふりほどかれて、廊下に転ばされた。そのあと、友だちと一緒に女子たちにじゃれつくように足で蹴ったところ、友だちが肩を押さえられ、叱られた。男児が腹を立てて、講師の尻を蹴って逃げようとしたら、胸元をつかまれ、壁に押し当てられ、怒られたうえ、階段のうえに投げ出された。

1日に2回、講師から転ばされている。まして2回目は階段のうえ。一歩間違えれば、階段を転げ落ちていたかもしれない。
事実認定では、男児がはずみで転んだことになっている。しかし、事実はどうかわからない。
小学2年生であれば、男性講師がほんのちょっと力を加えれば、転がすくらいは造作もないだろう。
教師が直接的にしたしないにかかわらず、男児にとっては、教師に転がされたと感じただろう。

そして、小学2年生という男児の年齢。教師に対しても、6年生の女子に対しても、行動に甘えが感じられる。年齢独特の万能感だったり、大人への信頼感を背景にした甘えではなかったかと思う。
講師に抗議する方法も「肩をもむ」というものだったし、女子をける行為はたしかに相手に苦痛を感じさせる行為であり、許されない行為ではあるが、「じゃれつくように」と認定されているところを見ると、たとえば自分が叱られた腹いせに八つ当たりをするというような悪質なものではなかったように思う。誰かにかまってほしいという気持ちの表れ、あるいは上級生の女子生徒たちにみられたことへの恥ずかしさ、ばつの悪さから、照れ隠し的に出た行為ではなかっただろうか。
時に、子どもは限度を知らないし、小学2年生という年齢からして、相手をみてじゃれてもよいかどうか判断するということができなかったのではないかと思う。

今は、少子化や習い事、遊び場の不足やテレビやゲームの影響などで、幼児期にギャングエイジを経験することが少なくなって、小学校にあがってはじめて仲間を得て、ギャングエイジを経験する子どもが増えている気がする。
学級崩壊しかりで、その分、先生は大変だと思うが、やんちゃなのはこの男児に限ったことではないと思う。そういう意味で、この男児だからこそ起きた事件ではなく、他の児童であっても、この教師のもとで起きる可能性のあった事件ではなかったかと感じる。

また、子どもの自殺はだいたい小学校3、4年生くらいから発生している。もし、この男児がもっと高学年であったら、ショックから発作的に自殺にいたる危険性さえあったのではないか。
たとえば、男児を叱ったあと、学校や教師はきちんとフォローをしたのだろうか。
学校、教師は、男児が発作的に自殺しなかったことを感謝すべきかもしれない。(私が知る限り、日本の子どもの自殺は小学校2年生からある)

3つ目として、教師の気持ちについて。教師は、男児らが女子児童らを蹴ったから腹を立てたのではなく、自分が蹴られたから腹を立てている。そして、事件の発端になった「別の児童をなだめていた」ことが、いじめているように思えたという。日ごろの、児童への接し方はどうだったのだうろか。子どもたちに愛情を感じていたのだろうか。

体罰は法律で禁止されている。だから、児童生徒を指導できない、今は生徒がつけ上がっているとよく言われる。生徒から挑発してくることさえあると。
しかし、現実には、体罰とさえいえないような暴力は日常茶飯事にある。
それも、中高生に対する体罰は減っているにもかかわらず、小学生に対する体罰は年々増えている。
もちろん、今の子どもたちへの家庭でのしつけがなっていないということもあるだろう。一方で、教師を含めた大人たちが、子どもに対して忍耐力がなくなっているとも感じる。指導ではなく、かっとする自分の気持ちを押さえられずに暴力として出てしまう。
家庭は子どもをしつけなければならない。しかし、教師はきちんとしつけられているだろうか。

また、教師であれば、対人関係に問題を抱える児童を指導しなければならないこともあるだろう。そこで必要なのは児童を押さえつける強い腕力ではなく、子どもへの深い理解と愛情だ。学校にはいろんな子どもが集まる。今は虐待も多いし、経済格差も生まれている。外国籍の子どももいる。どんな子どもにも、そしてできれば問題を抱えた子どもにはさらに、きちんと接することのできる能力をもつ教師であってほしいと思う。

4つ目として、なぜ裁判にまでなってしまったのかということ。
世間ではすぐにモンスターペアレント扱いするが、実際には、普通の市民が裁判を起こすことは並大抵のことではない。
裁判は金がかかる。引き受けてくれる弁護士を捜すのも大変だ。とくにこういう裁判では、訴えた側が非難される。自分の子どもが悪いのに、教師や学校を訴えるなどとんでもない親だ。親が非常識だから、子どもがこうなるのだと。
しかし、みんな止むに止まれぬ気持ちで、ほかに方法がなくて裁判を起こしている。

学校や教育委員会は、裁判に至るまでにどのような話し合いを進めてきたのだろうか。
多くの被害者の親は、学校が事実を認め、心から謝罪し、二度と繰り返されないと信じることができれば、裁判まで考えない。
それが、話し合いを拒否されたり、学校から一方的に責められたりしたときに、裁判を起こしている。
裁判で争わなければならないこと自体、学校のあり方が問われると思う。
学校は、深い心の傷を負ってしまった男児に何ができるか、真剣に考えて、対応したのだろうか。
あらゆる手立てをつくした結果だったのだろうか。事件事故で、学校側が「不満があるなら、裁判でもなんでも起こしたらいい」と開き直ることも増えている。

教師も完璧ではない。しかし、子どもは教師以上にもっと間違う権利をもっている。
教師が自分の行動を反省してこそ、生徒たちにも反省の仕方を教えることができるのではないだろうか。

多くの裁判を見てきて、裁判官は子どもというものを理解していないし、教師を一般人以上に信用していると感じる。
そして、裁判が必ずしも正しい結果を出すとは限らない。
あとは、私たちがここからどのような教訓を引き出すかが問われると思う。
少なくとも、教師の行為によって、小学2年生の男児が深い心の傷を負ったということは動かせない事実であり、私たち大人が忘れてはならないことだと思う。




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