4月18日、岡崎さんの東京での第一次訴訟の裁判の傍聴に行ってきた。(過去の傍聴報告は雑記帳の、2000/11/11、2000/11/20、2001/1/15、2001/2/28 付けのところにあります。)
毎回、思うこと。どうしてこんなに遅々として進まないのだろう。1月に1回しか開かれない法廷。前回は、誰を証人として呼ぶかの協議を裁判長と代理人の弁護士など関係者のみの非公開で行って、今回はまた、証人について改めて、原告側と被告側が、「この人を証人として呼びたい」と具体的な名前をあげ、それに対して裁判長が、「2人もいらないでしょう」とか、「証人として出廷してもらえますかね」などの話しで終わった。証人に誰を呼ぶかで2カ月も費やして、まだ決定ではない。次回はもう一回、非公開で協議を行う。
もちろん、その間には、膨大な書類によるやりとりがあるのだろうが、1時間も2時間もかけて地裁までやってきて、わずか10分程度の開廷時間にため息が漏れる。
今、ここで争われているのは、岡崎哲くんの死因だ。それが確定しないことには、この第一次訴訟の本来の目的である「加害者とその両親に対する責任を問う」ところまで辿りつけない。
岡崎さんは、この第一次訴訟以外に、第二次で茨城県警(実際には、管轄である国と県)、第三次で牛久市立第一中学校(実際には学校設置者である牛久市)を訴えている。
ひとつの訴訟だけでさえ、金銭的、時間的、心理的な負担はかなりのものだ。ある原告は、裁判が近づくといつも胸が重苦しくなるという。それが、同時に三つ。
しかし、一つの裁判で明らかになった事実は当然、他の裁判にも影響してくる。岡崎哲くんの事件に関わったすべてのひとが、この三つの裁判の中で、あぶり出されてくる。ひとつの事件が、三方から立体的に検証される、その効果を期待したい。
今回の法廷で、裁判長はあくまで、原告・被告双方から出されている証人=病院関係者について、第三者だと思っていた。一番の争点は、下着とズボンの血がいつついたか。暴行を受けたときの下血なのか、治療中にカテルーテを入れるときに出血した血がついたものなのか。救急治療の時にズボンや下着をどこに置いていたかの証言がポイントとなる。
通常、救急措置の最中に、下着やズボンをつけたままということはあり得ないそうだ。そして、脱がせたものは当然、処置のじゃまにならないところにおく。衣服には砂やほこり、ばい菌もついているだろうから、当然だと素人にもそれはわかる。
ところが、病院関係者の証言は、ころころと変わっている。「下着を側においたまま、処置を行ったために血がついた」と一旦言い、「そんな非常識な」と責められれば、「当然、下着やズボンは外して別のところに置いた」と取材カメラの前で証言している。
原告にとって今回、病院関係者は第三者ではない。
直接訴えてはいないものの、最初からカルテに「一対一のケンカによる」などと、警察の捜査も行われていないうちからわざわざ書かれていたこと、死因が、救急措置した医師が最初に下した死因は、「外傷性くも膜下出血」。その後、「下腹部や肝臓の下などに強い外力が加わったことによる神経性ショック死」、「もともと心臓に重い心臓病をもっており、興奮したために発症したストレス神経症」と、医師が変わるたびにコロコロ変わる死因。
医療関係者は、加害者の親族が警察官であることから圧力を受けて、加害者の都合に合わせたカルテを書いたのではないかという疑惑。
それを医学的にきちんと解説してくれる医師を原告は証人として申請している。
次回は、進行協議をしたのち日程が決まる。また、インフォメーション欄でお知らせしたい。
遅々として進まない裁判。それでも、確実に一歩、一歩を固めている。そして、後戻りはできないのも、また裁判だ。一回、一回が原告と被告側の闘いの場となる。
後になって、「あの時、あのことを聞いておけばよかった」「相手の言い方にまんまと乗せられて、心にもないことを口走ってしまった」「本当はこのことを言いたかったのに、言えなかった」それが通じない真剣勝負の場となる。筋書きがあっても、筋書き通りにいかない、一世一代の舞台でもある。
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