わたしの雑記帳

2001/1/15 岡崎哲(さとし)くんの裁判(1/15)傍聴の報告日本の裁判というものについて。


きちんと時間をはかっていたわけではありませんが、今回はわずか10分程度で閉廷になりました。
裁判官と弁護士の間で、今日提出するはずだった原告側の血液鑑定の結果が、鑑定医の都合で、残念ながら今回は間に合わなかったということの確認(雑記帳の2000/11/20を参照)と、鑑定結果が出た場合の被告側の提出書類の確認と次回日程の決定だけでした。(少なくとも、目の前のやりとりから私が認知することができたのは)
この日のためにわざわざ仕事を休んだ岡崎くんのお父さんにしても、何時間もかけて傍聴に来た支援の人たちからすれば、「えっ?、たったこれだけでおしまいなの?」というあっけなさです。

でも、これが日本の裁判というものなのです。
ひとつのことを決めるのにも、すごく時間がかかる。しかも、裁判官や原告、被告の弁護士(複数いれば複数分)の都合にあわせて次回の日程を決めるので、その間が1ヶ月、2ヶ月あいてしまいます。
(不思議なことに、証言台にたつなどの予定があるとき以外は原告の都合は聞かれません)
結審まで数年かかったと言っても、実際には、年間数回しか審議されていなかったりするのです。
そして、いよいよ大詰めまできたと思ったら、裁判官が移動で交代することもあり、それまで一生懸命に裁判官に訴えかけてきたものが、まるで肩すかしを喰らわされたような形になります。

こうして裁判が遅々と進まない間に何が起こってるかというと、事件の風化に伴う人びとの関心の薄れや、証言する人の記憶のあいまい化、人の地理的・立場的移動、証拠品の変質・紛失・隠蔽などです。
もちろん、法廷で表に出るのは裁判のほんの一部で、実際にはそのほとんどが膨大な書類でやりとりされているわけですが、一般の私たちにはその当たりがみえません

ただ、利点もあります。
何年もの長い間煩わされるということは、被告にとっても苦痛となります。さっさと結論が出てしまえば忘れられるものが、裁判が行われている間は少なくとも忘れることができないし、いつまでも世間の目を気にしなければなりません。(遺族にとっては、裁判があろうとなかろうと、一生涯けっして忘れることのできないことですが・・・)
そして、子どもたちが高校を卒業して大学生になってしまえば、あるいは社会人になってしまえば、学校という場のしがらみから解放されて、ある程度自由に発言できるようになるということです。
学校に在籍している間は、生徒たちの将来は学校に握られています。どんなに勉強ができても、教師の書く内申書ひとつで不合格になるかもしれないと思うと、学校側に不利な証言はできなくなるでしょう。

日本の裁判というものは一般の人間にとって理解が難しいものだと、何度か傍聴に行くなかで実感しています。
専門的な言葉もそうですが、裁判長の言葉のウラにあるものが、読みとれないのです。
弁護士の先生から解説してもらってはじめて、「ああ、そういうことだったのか」とわかります。おそらく、初めて裁判を起こす原告にとっても、同じだと思います。

今日の裁判で裁判長は、「パンツとズボンに付着した血液の鑑定が重要だ」「それが血か血尿か、それとも血と尿なのか、どの場所、範囲についた血なのか、いつついたものなのか、はっきりさせなければいけない」と断言しました。
被告弁護士の、処置した医師のカルテを書類提出しますという申し出に対しても、場合によっては医師の証言が必要となるでしょうと言っていました。

別の裁判傍聴で、原告側が主張する証拠や証人の提出を、裁判官がいかにも面倒臭そうに、「それは、もういいでしょう」「必要ないでしょう」と言うのを聞いて、裁判官はたださっさと終わらせてしまいたいだけなんだと感じたことがありました。対して、この裁判官は、一つひとつの証拠を厳密に見ていきましょうという、原因解明に対して積極的なひとなのだなと、原告に対して好意的な裁判官に私の目にはうつりました。

ところが、弁護士さんの解説を聞いてそうではないことがわかりました。
原告側の主張は、パンツだけでなくズボンにまで血や血尿がついているということは、それだけひどい暴行を腹部に受けた証拠になるということです。だから、もっと死因がはっきりするであろう、保存されている内蔵の再鑑定に早く持っていきたいのです。
本当は最初から保存された内蔵の再鑑定や、検察が言うように生まれつきの疾患があったかどうかを鑑定してほしいのです。しかし、法医学の権威が一度出した結論をひっくりかえすような行為は簡単には認めてもらえないから、前段階としてパンツとズボンの鑑定から始めているということでした。
その第一段階ですら、すんなりとはいかず、原因究明までにいくつもの壁を裁判所は設けてきているということでした。その壁を一つひとつ乗り越えないことには、次の段階に進めないのです。

裁判所は国家権力を擁護する立場に回る、ある面では当たり前のことかもしれません。
この東京地裁で行われている第一次訴訟(加害少年とその両親に対する)と、水戸地裁で行われている第二次訴訟(国と県に対する)は、国が一旦出した結論に異議を唱えるという面では共に反国家権力的な裁判となります。
入り口のところから、本題へと進むことすら困難な裁判になりつつあるようです。

また今回、鑑定医をお願いするのも、実は大変なことだと知りました。
国家権力の出した結論に対して、「その鑑定は間違っている」と言うのは、生半可な覚悟ではできないというのです。自分の鑑定に少しでもずさんなところがあれば厳しく追究されるでしょうし、場合によっては法廷の証言台にも立たなくてはならない。時間を費やし、立場も危うくなる。しかも、それを行うことのメリットは医師側には何もないのです。
裁判の争点を理解し、公正な立場で引き受けてくれる医師がいるかどうかが裁判の重要な鍵となるのです。幸いなことに今回は、弁護士さんの努力で鑑定医は見つかったようですが。

ほんの10分足らずの法廷のなかにも、原告と被告、裁判官という三者の目に見えない激しい攻防があるのです。棋士たちが動かす駒には、小さな動きのひとつひとつにも先々を見通した大きな意味が隠されているように。

ただ、裁判というものは本当に、当事者たちの手を離れて専門家たちの駆け引きで終わってしまってよいものなのでしょうか。一般の人たちの理解が届かないところで、自分たちの問題が審議されるのはおかしくないですか。自分たちに理解できない自分たちの法律というのはおかしくないですか。
そこで何が行われているのか、素人にも解説なしでわかる裁判というのは、不可能なことでしょうか。
それとも、一般のひとたちにはわからないほうが、人びとの関心が向かないほうが都合いい何かがあるのでしょうか。
法曹界が人びとの神様でいられるためには、法律の専門家という巫女の仲介があってはじめてお言葉が理解できるほうがありがたみがあっていいということでしょうか。たかが人間の判断じゃないか、間違うこともあると思われるのは都合が悪いですか。

なお次回は、2月26日(月)です。まだしばらくは、素人目にはよくわからない攻防が続きそうです。

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