第3章
日本軍は上海を攻撃して占領して以後、中国の抗戦意志を「徹底的にくじき」、 中国を屈服させるために、南京の占領を決定した。 11月25日、中支那方面軍事司令官の松井石根の指揮の下で、 日本の上海派遣軍と杭州湾に上陸した第十軍(柳川平助中将)は、 三つのル−トに分かれて南京に向かって侵犯した。 当時、中国の首都であった南京には約10余万人の守備軍がいた。 事変前の南京の人口は約100余万で、 日本軍が接近するに従って一部が西に避難したものもあった。 12月8日蕪湖が陥落し、南京は三方面から包囲されている状態に陥った。 揚子江方面では、12月12日の午後、日本艦隊が烏龍江の揚子江封鎖線を突破し、 13日には下関の江岸に到達した。 こうして十数万の中国守備軍は、ただ数千人があわただしく渡江、撤退し、 その残りは全て日本軍に捕らえられ殺害された。 数十万の身に寸鉄を帯びない南京市民も、 日本侵略者の血塗られた刀の下に倒れていったのである。
12月13日、南京が陥落し、中国守備軍は完全に抵抗を停止し、 あるいは南京城外の揚子江沿いの一帯に撤退し、 あるいは武器と軍服を捨て国際委員会の組織した難民区に避難した。 日本軍が南京に入城した後、殺害、放火、強姦、 略奪など地獄さながらの残虐行為がおこなわれた。 当時、南京の金陵大学に留まっていた教授のベイツ博士は語っている。 「強奪、残虐な拷問、虐殺、強姦、放火など、想像がつく罪悪行為なら何でも、 日本軍の入城当初から、何をはばかることもなく勝手しほうだいに行われた、 ……近代で、この日本軍の残虐行為をしのぐようなものを探し出すことはできない」と。
日本軍は、敗残兵狩りとか「便衣兵」狩りの名目で、難民区や町中の至るところで、 これはという青壮年を次々と引きずり出して捕虜として連行した。 敵愾心と殺意に燃えている日本兵にとって、 「敗残兵らしきもの」という基準はいい加減なものであった。 南京攻略戦に参加したある元上等兵は次の様に述べている。 「わしが一番懺悔するんやが……本物の中国兵は、十人中の一人か二人やった。 あとは一般の市民、難民……けど、若い男を見ると「こいつらは間接的には ……中国軍の使役にも応じた奴だろ、税金も納めていたやろ、 広い意味での敵にまちがいない」と思い ……片っ端から「殺せ、殺せ」という感情が、中隊にみなぎっていた」。
日本軍は、郊外や市内の随所で武装解除された捕虜やつかまえた青年を斬首したり、 生き埋めにした。
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