第4章
日本軍の南京での常軌を逸した虐殺は、部下に対する指揮者の統制力を失ったための、 偶然の規律を守らない行為では決してありえなくて、計画的で組織的な行動であった。 例えば、南京に進攻した日本軍第16師団長の中島今朝吾(中将)は、 陣中日記に次のように書いている。 「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコト」 また、彼に所属する部隊の、「佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、 太平門ニオケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約千三百、 其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人アリ。尚続々投降シ来ル。」 「此七、八千人コレヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シナカナカミアタラズ。 一案トシテハ百、二百ニ分割シタル後、適当ノ個処ニ誘キテ処理スル予定ナリ」。
また例えば、当時下関の草鞋峡で、
多数の捕虜を「処理」した軍曹の栗原利一は次の様に証言している。
「上からの「始末せよ」の命令のもと、
この捕虜軍を処理したのは入城式の17日であった。
捕虜たちには、その日の朝「長江の長州(川中島)へ収容所を移す」と説明した。
大群の移動を警備すべく、約一個大隊の日本軍が配置についた。
なにぶん大勢の移動なので小回りがきかず、
全員を後ろ手にしばって出発した時は午後になっていた。
……一斉射撃の命令が出たのはそれからまもない時だった。
半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、
川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。
一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄、
阿鼻地獄であった。……一斉射撃は一時間ほど続いた。
少なくとも立っている者は一人もいなくなった。すっかり暗くなっていた」
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