南京大虐殺について
最終更新:1998年12月03日
南京大虐殺
概説 -- 林伯燿
南京大虐殺
証言を中心に -- 劉彩品
1.1937〜8年冬、南京で何があったか
1)南京占領まで
日清戦争(1894ー5年)に始まる日本の中国侵略は、
1937年からの日中戦争で頂点に達しました。
7月7日北京郊外ではじまった戦闘(「盧溝橋事件」)は瞬く間に華北に広がり、
8月13日には上海に飛び火しました。
上海では中国軍が頑強に抵抗しましたが、次第に日本軍が増派されるに及んで、
11月中旬には上海から撤退、南京の方へ敗走しました。
日本の「中支那派遣軍」は二度にわたって、
軍中央で決定された「制令線」(追撃停止線)を独断で突破し、
南京へと追撃を続けました。
中央政府もまた11月20日に宣戦布告もないままに「大本営」
(天皇の下におかれた戦争指揮本部)を設置し、本格的な戦争態勢を固め、
12月1日には正式に南京攻略を発令しました。
その間海軍航空隊は南京に無差別爆撃を繰り返し、多数の市民を殺傷しました。
これは僅か半年前のゲルニカ空爆にならい、
戦略爆撃の思想を大々的に実行した世界最初の例となりました。
2)南京陥落
当時の中華民国の首都南京は、城壁に囲まれた美しい古都で、
人口は百万人を超えていました。
日本軍が近づくにつれて首都は重慶に移り、
多くの人々は西に避難しましたが、逃げ遅れた人、
行き場のないひとが、まだ四五十万人残っていたようです。
中国軍は南京死守を叫んで十数万人が立てこもりますが、
日本軍が城門を突破した12月12日夜には、
すでに防衛軍司令部は離脱していて、
指揮系統を失った烏合の衆となっていました。
3)「残敵掃蕩」の実状
城内に進撃した日本軍はほとんど組織的な抵抗を受けることはなく、
大量の捕虜を獲得し、これを計画的に殺害しました。
また多くの中国兵が軍服を脱ぎ捨てて隠れたため、
「便衣兵(制服を着ていない兵隊)狩り」と称して、
元兵士や一般市民の男性を無差別に拉致連行して集団虐殺しました。
捕虜殺害を戦闘行為であるとしたり、
「便衣兵狩り」を「対ゲリラ戦闘である」とする意見もありますが、
全く戦闘能力を失ったものに危害を加えることは
明らかに国際法(ハーグ陸戦法規)違反であります。
4)性暴力
「便衣兵狩り」や「食糧調達」=財物掠奪の過程で、
日本兵は一般市民の間に入り込み、多数の無差別な強姦・殺傷、
あるいはさらにおぞましい変質的性暴力を働きました。
このような行為は戦闘とはなんの関係もなく、
いかにしても正当化できるものではありません。
性暴力の広汎さと変質性は南京大虐殺を特徴づけるものです。
5)「南京大虐殺」の範囲と規模
虐殺は南京攻略の途中においてもすでに発生しており、
また翌1938年3月ごろにもまだ続いていました。
場所の広がりも、南京城内だけでなく、
近郊農村を含む南京特別区全面にわたっており、
一般市民の被害は郊外の方が甚だしかったともいわれています。
南京大虐殺の範囲を、城内だけや陥落後の二三日に限定し、
あるいは旧軍の公式記録(それらは大部分が敗戦時に証拠隠滅され、
一部はいまも隠匿されています)だけを数えて、
虐殺は少数であったと強弁した輩もいましたが、
彼等の論理はすでに論破されています。
最近の詳細な研究をもってしても、
南京大虐殺の犠牲者の数は少なくとも十数万人、
あるいは二十万、三十万としか分かっていません。
しかしながらこれらの数字にこだわるよりも、
三千万人を超える犠牲者を出したアジア太平洋戦争の象徴的始まりとして、
南京大虐殺を捉えることが重要であると考えます。
(ちなみに日本人軍民の死者は約350万人です。)
2.異常な事件はなぜ起こった
1)捕虜処置の方針
日本軍はみずからの将兵が捕虜になることを不名誉なこととして
厳しく禁じていました。
このような精神の自然の延長として、戦争において敵兵の捕虜を得た場合に、
彼等を虐待し、虐殺してもよいとする風潮が生ずることになりました。
さらに実際に南京攻略時のように大量の捕虜が発生したときには、
下の3)で述べるように自軍の補給でさえも確立していなくて、
まして捕虜への給養など考えていませんでした。
そこで「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコト」
(第16師団長、中島今朝吾の陣中日記)にも見られるように、
捕虜虐殺は組織的に実行されました。
2)日本軍のなかの頽廃
日本の軍隊の内部は、例えば野間宏の『真空地帯』に描かれたように、
天皇=上官の命令には絶対服従、苛酷で恣意的な懲罰など、
抑圧構造が兵士たちを圧迫していました。
このような抑圧構造の最下層にあった兵士たちが、その憤懣をより弱い者、
無力な捕虜や一般市民に向けることになりました。
3)食糧の「調達」
日本軍の作戦には、現実的な兵站(へいたん=弾薬・食糧などの補給)の計画が
軽視されていて、弾薬はともかく、食糧は多くを「現地調達」に頼っていました。
従って戦闘の合間に、
小部隊単位で民家に入って食糧を「調達=掠奪」せざるをえなくなり、
これが次第にこうじて食糧以外の金品財産を強奪し、拒まれると虐殺し、
あるいはレイプなどの性暴力に及ぶ過程を生んでいきました。
(この兵站軽視が、
敗戦の前には「名誉の戦死者」の大部分が餓死であったという、
自滅の道に導くことになります。)
4)「神国優越」の思想
南京大虐殺のようなすさまじい暴虐行為の根底には、
自国民優越すなわち他民族蔑視の思想が働いていたことを否定できません。
明治維新以後いちはやく「脱亜入欧」に走った日本は、
近隣諸国を「遅れた国」であり、帝国主義支配の対象であるとのみ考えました。
江戸時代には文化の源泉として崇拝していた中国を、
日清戦争に勝ったあとは一転して侮蔑の目で見るようになり、
国民の間に「神州不滅」の優越思想をすり込みました。
日清戦争のなか旅順陥落のときにおこった虐殺事件は、南京大虐殺の原型であり、
さらに日中戦争で中国全土にわたって「三光作戦」として広がっていきました。
(文責:西村 史朗)
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