ドイツ人ジャーナリストが新証拠を発掘 2007年1月14日
警察より先に現場を撮影していたカメラマンがいた!
弾道学鑑定から、真犯人のいた位置を特定しうる!
ドイツ人ジャーナリスト、ミヒャエル・シフマン(Michael Schiffmann)は、ムミア事件に関する独自の取材にもとづいて Race Against Death. Mumia Abu-Jamal: a Black Revolutionary in White America を執筆。同書は、2006年末ドイツ国内で発売されました。しかし、2007年1月現在、英語版は未発表であり、したがって筆者(今井)も、その内容を見ていませんが、同じくムミア事件を取材してきたアメリカ人フォト・ジャーナリスト、ハンス・ベネットがシフマンに行ったインタビューによって、その概要を知ることができました。
以下に、ムミア事件の真相にかかわる重要な論点だけを要約しました(インタビューの正確な翻訳ではありません)。
インタビュー全文は、以下で読むことができます。
http://hbjournalist1.googlepages.com/schiff
シフマンの最大の発見は、事件当日、警察の移動犯罪捜査班よりも先に現場に到着し、数十枚の写真を撮影していた報道カメラマンがいたことをつきとめ、そのカメラマンが撮影した現場写真から、検察のストーリーが矛盾していること、警察が現場を改ざんしたこと、検察側重要証人(ロバート・チョバート)が現場にいなかったことなどを実証したことでしょう。
また、弾道学的調査も独自に行い、フォークナーを撃った銃弾はムミアがいた方向から撃たれたものではないことを論証しています。
今井恭平
1981年12月9日早朝、白人警官のダニエル・フォークナーを射殺したのは、ムミアでも、彼の弟、ビリー・クックでもない第三者である、とシフマンは書いている。
その真犯人とは、ケニス・フリーマンである。彼は、ビリーの友人で、ビジネスパートナーでもあり、事件のとき、ビリーのクルマに同乗していたことは、証拠上明かである。
フォークナー巡査が先にムミアを撃ったのに対して、フリーマンが撃ち返したのであり、警官隊が到着する前に、現場から逃げ去るのを6人の目撃証人によって見られている黒人男性とは、彼にほかならない。
シフマンは、ムミアが最初にフォークナーの背中を撃ったという説は、弾道学的にほぼありえないと主張する。また、ムミアがフォークナーの頭部に致命傷となる銃弾を撃ち込んだということも同様にありえないとしている。
【新たな証人 ペドロ・ポラコフ(カメラマン)】
2006年5月、著者(シフマン)はインターネット上で、2枚の写真を発見した。それは、1981年の事件直後に現場に駆けつけた唯一の報道カメラマン、ペドロ・ポラコフが撮影したものである。彼は、銃撃事件があったことを警察無線の傍受で知ってから12分以内、警察の移動犯罪捜査班(現場写真と証拠保全を行う部隊)よりも10分ほど早く現場に到着した。30〜45分後にポラコフが現場を立ち去るとき、この捜査班はまだ1枚の写真も撮影していなかったという。
ポラコフをインタビューした著者は、彼が31枚の現場写真を撮影し、そのうち3枚が当時のフィラデルフィアの新聞各紙に掲載され、5枚が紛失していることを知った。筆者は残された26枚のうち、5枚を公表した。それは以下の3つの点を証明するためである。
- 警察は証拠に手を加えており、裁判に提出したのは、それらの捏造されたものであること。
ポラコフの写真では、フォークナー巡査の制帽は、ビリーのフォルクスワーゲンの屋根の上に置かれていた。しかしポラコフより10分遅れて到着した警察の捜査班が撮影した写真では、現場交差点の道路上に置かれている。 - 現場に落ちていた2丁の拳銃を押収したジェームズ・フォーブス巡査は、フォークナー巡査とムミアの拳銃を、両方とも金属部分にふれないように気をつけて保全したと法廷で述べている。指紋がついている可能性があると考えたからである。
だが、ポラコフが撮影した写真には、フォーブス巡査がこれらの銃の金属部分にさわっているのが写っており、他の数枚の写真でも、彼が銃のいたるところをさわっており、指紋があったとしても判別不能になるような取り扱いをしているのが分かる。 - 検察側の第2の重要証人であるタクシードライバーのロバート・チョバートのクルマは、フォークナーのパトカーのすぐ後ろに停まっていたとされているのだが、このクルマは存在していない。チョバートは、その位置にいたということになっており、またその位置からムミアが警官を撃つのを見たと主張しているのである。(今井注/チョバートのクルマが彼の主張する場所に停車していなかったということは、他の目撃証人も述べている)
ポラコフによれば、警官たちがこのように信じていたのは、そのときまだ現場付近にいた3名の目撃者の証言にもとづいているように思える。つまり、ローキャスト通り北側にある駐車場の管理係、その管理係と顔見知りだったと思われる、薬物中毒の女性、そしてもう一人の別の女性である。後になってポラコフが同僚のマスコミ関係者から聞いた話では、駐車場管理係は翌日から姿を消してしまい、薬物中毒の女性は2日ほど後に、薬物摂取過剰で死亡した。これらの証人たちが何を見たか、あるいは何を見なかったかにかかわらず、興味をひくのは、これらの証人のことが、警察およおび検察の一切の記録に登場しないということである。
ポラコフが著者に語ったところでは、彼は何度も検察に連絡をとり、自分の目撃したことや写真について情報提供を申し出たが、まったく黙殺されたという。
ポラコフの証拠は、著者によってムミアの弁護団に知らされており、さらに検討を加えられることになっている。
【銃弾の痕跡は、歩道からは発見されていない】
フォークナーが倒れていた現場。舗道上に銃弾による傷はいっさい見られない。(クリックで拡大) |
これが事実なら、フォークナーが倒れていたわきの歩道には銃弾でえぐられた2、3箇所の目立った損傷があるはずである。しかし、写真でも警察の報告書でも、そうした道路の損傷や銃弾の破片などは、まったく見出せない。
ここから著者は、検察側主張はまったく成り立たないと結論づけている。
この「失われた道路の損傷」については、2001年にムミアの前弁護団によっても指摘されたことがあるが、この問題をさらに追究したジャーナリストは、著者が文字通り最初である。
この点をさらに確証するために著者はドイツ人の弾道学専門家にも話を聞いているが、「そうした痕跡が見落とされることはあり得ない」という回答を得ている。著者は、「要するにそんな弾痕はなかったのだ」と結論づけている。
またポラコフも、血痕の周辺や歩道上の他のエリアなど、事件現場を撮影した彼の写真のどこにも、弾痕の跡をしめす地面の損傷はなかったことをはっきり確認している。こうした点から、検察側の3人の証人(ロバート・チョバート、シンシア・ホワイトおよびマイケル・スキャンラン)は偽証している、と著者は論証をすすめる。
【事件現場における銃弾と破片】
この項目は、現場地図を参照しながら読んでください。地図をクリックすると拡大されます。(今井注)
この著書でもっとも衝撃的な部分は、著者が独自に行った弾道学的調査である。
3年にわたる調査にもとづき、ローキャスト通り1234の入り口付近で発見された銃弾と破片と、歩道上で見つかった銅製の皮甲という、これまで説明がつかなかった物証について分析を行っている。
フォークナーの背中に命中した弾丸(上向きの角度で体内を貫通し、のどのやや下のあたりから体外に射出されている)は、フォークナーがムミアの方向(北西)を向いているときに、その背後の歩道から発射されたと考えるのがもっとも合理的である。そのとき、ムミアは13番通りとローキャスト通りの交差点の北東に位置する駐車場方向からフォークナーの方に向かっていたのである。
ムミアが現場にやって来るときのもっとも自然なアプローチは、北西方向から南東方向へ対角線上に近づくことである。だが、フォークナーを撃った銃弾は、北東から南西に向かって放たれており、ムミアがやってきた方角と鋭角な位置から撃たれている。
たとえ、ムミアがまっすぐに近づいてきたのではなく、ジグザグにあるいは不規則に動いたのだと考えても、銃弾の破片の発見位置から見ると、それがムミアのいた方向から撃たれたものではありえない。
また、ムミアがいたと想定できる位置から発射した場合に発見されるであろう場所からは、いっさい銃弾や破片は発見されていない。
ここから、フォークナーを撃った人物はほかの第三者であることは明かである。それは、検察側が頑強に否定している人物である、と著者は論じる。
そもそも、ムミアのホルスターから拳銃を引き抜いたのは彼自身ではなく、警察官ではないか、とポラコフは考えている。写真でわかるように、警察官が拳銃を粗雑に扱い、指紋を分からなくしてしまったのは、不注意などではなく、故意の行為ではないかという疑いがある(ムミアの拳銃には5発の空薬莢が入っていただけである)。
ムミア自身が当夜の出来事について書いた宣誓供述書には、ホルスターから拳銃を彼自身が抜いたのか否かという点と、彼の銃に残っていた空の薬莢5発についての説明がない。この点は、今井も疑問に思う点の一つである。
【第三の人物 ケニス・フリーマン】
現場から逃走する人物を見たという6名の目撃証人(うち、数名は警察から脅迫され、その証言を撤回したり変更したりしている)の証言を引用しつつ、著者はこの人物に該当する疑いがもっとも濃いのは、ビリー・クックのビジネスパートナーであり、友人でもあるケニス・フリーマンではないかと推論する。
1995年のPCRA法廷で、はじめて明らかにされた事実(つまり、13年間検察が隠していた事実)だが、フォークナーは前ポケットに、ある人物の車の運転免許証の申請用紙を持っていた。(今井注/正式の免許証ではないが、免許証が発行されるまでのあいだ、仮に免許証のかわりになるもの。それを持っていれば運転はできる)それはアーノルド・ハワードの名義だったが、ハワードは、それを知人のフリーマンに貸していたのだと述べている。(今井注/ハワードおよびフリーマンは事件の起きたその日のうちに警察の事情聴取を受けている)
ビリー・クックの弁護人であるダニエル・アルバがジャーナリストでムミア事件について書いたKilling Timeの著者であるデイブ・リンドホフに語ったところによれば、ビリーは事件後数日してから、フリーマンが事件当夜、自分の車に同乗していたことを告げている。(今井注/2001年末に公表されたビリー・クックの宣誓供述書でも、彼は当日フリーマンが自分と行動をともにしていたことを明らかにしている)
著者は、弾道学的な検証から見て、ビリーのフォルクスワーゲンの助手席は、フォークナーを撃った銃弾を発射したと思われる位置としてもっとも整合性が高いという。
フォークナーは、ピンで止めるタイプのネクタイをしていた。彼を撃った銃弾がノドの下付近から貫通して体外に出たことで、このネクタイははねのけられ、はずれてしまった。そのはずれたネクタイは交差点の少し手前、ローキャスト通りの北側で発見された。検察側のストーリーでは、このネクタイの発見場所は説明がつかないが、真犯人は道路上ではなく、(今井注/ローキャストの南側の)歩道上から撃ったと考えれば、これも説明がつく。
1985年5月13日、奇しくもフィラデルフィア警察がMOVEの住居を爆撃した日、フリーマンは駐車場で死体となって発見された。裸で、手錠をされ、腕に麻薬の注射針がささった状態だった。こんな状態で発見されたにもかかわらず、享年31歳の彼の死因は心臓発作とされ、事件とされなかった。 「フリーマンは警察に殺害されたのだと思う。警察は、フォークナー殺害犯が実はフリーマンであることを知っていたと思う。彼の死は、それに対する復讐だと考える」と著者はいう。
【アーノルド・ビバリーの自白供述】
著者は、アーノルド・ビバリーの自白供述は、矛盾が多く、信頼性がないと結論づける。が、同時に事件の深刻さを考えれば、法廷が彼の証言を調べることもしないのは許されないとも指摘する。