元全造船機械浦賀分会役員
石川 秀夫さん(写真左、1939年生)と林 充孝さん(1938年生)
2人へのインタビューは2010年5月6日におこなわれました。このときのインタビュー映像と、林充孝さんが70年春闘を撮影した8ミリフィルムを、以下の20分のビデオにまとめました。
全造船浦賀分会とは
第二次世界大戦直後の1945年11月に結成された「浦賀船渠労働組合」に源流を持つ。1946年の「全日本造船労働組合」の結成に参加して以来、「全日本造船機械労働組合浦賀分会」として活動する。現在の名称は「全日本造船機械労働組合住友重機追浜浦賀分会」である。
1.1956〜1960 入社のころ
2人は横須賀工業高校を卒業後、浦賀船渠(うらがせんきょ、通称「浦賀ドック」)、後の浦賀重工業の設計部に配属された。
林:かつて浦賀(の職場)には演劇研究会があったけど、崩壊していてね。毎日会社へ行ってもおもしろくない。そこで石川さんに働きかけて芝居を始めた。それから、なぜか皆で(組合)代議員にもなった。設計の代議員がだらしなくて、きちんと報告もしなかったからな。
石川:議論は、芝居が半分、組合の悪口が半分だったね。
当時は2年間で11人が死亡 600名を代表する職場代表
2.1960〜1965 組合選挙の不正発覚
林:それまでは職場に(役員選挙の)投票箱を持ち込んでやっていたけど、中を入れ替えたとかいう不正があって、通勤門で投票をすることになった。
石川:現場の皆がだいぶ激昂して、それで制度を変えた。・・・1963年に林さんが、ぼくは1966年から執行部に入った。
3.70年春闘 賃金等級給制度の導入反対
1969年、経営が悪化した浦賀重工業を住友重機械工業が買収。
1971年、全造船浦賀分会は分裂した。
林:等級給の制度の導入に対して、良く闘ったとぼくは思う。こっちが一定の組織を確保できたのは、70年春闘や職場での攻防や地域の支援があったから。
石川:しかし、会社はそれを上回る、成績制度を導入して、組合員の半分以上が班長になってしまって、給料をあげていった。これには、みんな弱かった。一級あがるとボーナスが20〜30万あがったからね。あれで、どんどん崩されていった。
4.1975〜1980 造船不況下の首切り
1971年 追浜造船所を開設
石川:追浜造船は2〜3年は良かったけど、その後不況で。・・・最終的にむこう(二組合)が600名で、ウチが60名の指名解雇になった。
林:これは大手が大きなドックを全国につくって、勝手に設備拡張の競争をやった結果であって、労働者には何の責任もない。
1980年代以降、林さんは職場から地域の労働運動や市民運動との連携を深めていく。一方、石川さんは組合専従として上部団体の全造船機械労働組合で、それぞれ新たな活動を展開した。
林 充孝さんはこのインタビューのあと、2010年11月に亡くなられました。
「おおぜいの皆さんに支えられて今日まで来たんだなぁ。このことは私の宝として死ぬまで持っていたい。」(2010年4月24日「林さんを激励する会」での発言より)
70年春闘フィルムでみる
全造船浦賀分会の闘い
2010年9月
インタビュー:大井 呑、高須 裕彦
撮影 編集:青野 恵美子