プロフィール
1925(大正14)年新潟県生まれ。1943(昭和18)年商業学校を卒業して東洋通信機に入社。1945(昭和20)年4月に陸軍入隊後、情報兵として国内で敗戦を迎える。1946(昭和21)年に日本労働組合総同盟結成準備会に書記として採用。1949(昭和24)年関東金属労働組合でオルグ。1953(昭和28)年全国金属労働組合中央本部常任書記をへて、1975(昭和50)年に同組合中央本部書記長となる。中央最低賃金審議委員や中央労働委員会労働者委員などを務める。
40年に及ぶ〈争議屋〉としての人生。それは大企業や中小零細企業で働く人々に向き合い、その一方で、企業とその「背後資本」に闘いを挑む日々だった。時代は混乱する終戦から高度経済成長、オイルショックへと、戦後の日本を生きた平沢の人生には、労働運動のひとつの原点がある。
今回の平沢氏へのインタビューは、平沢栄一著『争議屋 戦後労働運動の原点』(論創社・2009年)を参考に構成され、2010年7月に芹生琢也(元連合職員、元中央労働委員会労働者委員)が行いました。
1946年終戦の混乱のなか、平沢は労働組合に就職する。夜間の商業学校を卒業した平沢にとって、大学卒の職員と同等で身分差別のなかった組合は居心地がよかった。その後、高野実に導かれるように〈争議屋〉としての途を歩み出す。24歳のときだった。(5分)
1949年、平沢の〈争議屋〉としての人生がスタートした。平沢は、関東金属労働組合の東京北部地域の担当になった。時代はドッジ予算の緊縮財政のなか、東京北部地域の工業地帯は相次ぐ企業の倒産で、5000人いた組合員は一気に1000人に減少する。明日から路頭に迷う組合員を前に、新人の平沢は慣れない仕事に必死だった。倒産への対応について親切に教えてくれる人もいない。会社にあった売れそうな物を売り払い、組合員の退職金にするのが精一杯だった・・・。(5分)
平沢が担当した東京都北区と板橋区には、敗戦まで、陸軍造兵廠(軍需工場)があった。その跡地に、東洋最大の軍需工場が出現する。ここは1950年6月に始まった朝鮮戦争で使用された上陸用舟艇や戦車の修理をする工場である。米軍からの発注で、三井系の日本製鋼所やブリヂストンタイヤの従業員、米軍直庸の労働者(全駐労)など約1万人が集められた。そしてさらに、仕事は下請の労働者へと流れていく。ここに戦後の日本経済の二重構造が形成される。(3分)
東洋最大の軍需工場となった日本製鋼所赤羽作業所には、米軍占領下だったが右派社会党系の労働組合がつくられた。しかし、労働者たちは「軍命解雇」に闘う気のなかった組合に愛想を尽かし、新たな労働組合をつくろうとする。平沢はその結成に深く関わり、さらに労働者の圧倒的な支持を得て、ストライキへと突入した。(3分)
朝鮮特需で立ち直った日本経済だったが、朝鮮戦争が終わるとふたたび中小企業を中心に倒産が相次いだ。こうした事態に1952年に「会社更生法」が公布される。それまでの倒産手続きで適用された破産法や商法381条とは違い、同法は管財人の下で生産を維持しながら会社の再建をめざす。後に平沢らは倒産争議のなかで、退職金の支払いをめぐり、労働基準法を盾に管財人と闘うこととなった。何としても労働者の権利を優先するため、平沢らがとった戦略は、裁判所と管財人への抗議行動だった。(5分)
1967年、全国有数の鉄骨・橋梁メーカーである「川岸工業」の仙台工場が、赤字を理由に工場閉鎖と従業員(181名)の全員解雇を通告した。当初は、ごく一般的な解雇争議になると思われたが、仙台工場の従業員全員が、「川岸工業」の子会社(株主は100%川岸工業)の雇用であることが判明したために、争議は一変する。さらに差し押さえをしようにも、工場の設備や資材・製品は親会社の「川岸工業」のものだった。平沢は弁護団と戦略を練った。そして裁判所に子会社の法人格を否認させ(「法人格否認の法理」)、親会社に賃金や退職金の請求を認めた「使用者概念の拡大」を実現させる。経済界には激震が走り、全国紙はこの判決を大きく報道した。(5分)
1965年、日産自動車とプリンス自動車工業が突如合併を発表した。当時のプリンスの労働組合は、平沢が所属する全国金属労働組合の最大の支部(7500人)だった。しかし、日産自動車の労使は、全国金属労働組合からの脱退を強要した。後に最高裁はこれを無効とするが、実態は7500人いた組合員がわずかに残るだけとなった。さらに、住友重機械工業においても、全国金属の支部は少数派に転落する。なぜ両支部は少数派になったのか? 平沢は振り返る。かつて各工場にあった活気ある職場の活動が消え、機関運営だけの組織になってしまったと・・・。(6分)
「本当に労働運動をしたいなら、政治的なことばかりやるよりは、若いんだから一から出直したほうがいいんじゃないか」——当時、高野実から受けたアドバイスは、その後の平沢の人生を決めた。全国各地の争議の現場が、平沢の職場となり生き甲斐となった。恩師である高野実の主張に平沢は深く感銘し、今も高野のことばは心に残っている。(4分)
わたしの労働運動ものがたり
平沢栄一 争議屋に生きて
2010年9月制作
インタビュー:芹生琢也、高須裕彦
撮影・編集:青野恵美子