戦後補償裁判における花岡事件訴訟和解の意義 |
専修大学法学部助教授(憲法) 内 藤 光 博 |
1.はじめに
2000年11月29日、東京高等裁判所第17民事部において、花岡事件訴訟の和解が成立した。花岡事件訴訟は、アジア太平洋戦争中、鹿島組(現・鹿島建設株式会社)の強制連行・強制労働により被害を受けた中国人たちが、民事上の不法行為に基づく損害賠償を求めて提訴した訴訟である。この訴訟は、民間企業の戦争責任を追及する訴訟としてあまりにも有名であり、数多くの戦後補償裁判の中でも、犠牲者の多さと凄惨さにおいて特筆すべき大事件として、強制連行・強制労働に関する象徴的な裁判として注目されてきた。
今回の和解では、鹿島建設が5億円の出資をし、信託による基金を設立して、鹿島組による強制連行・強制労働により被害を受けた全被害者(986名)に補償ないし賠償を行うことを可能にし、鹿島建設による強制連行・強制労働事件の「全体解決」が図られることとなった。通常の民事裁判における和解は(判決の場合もそうであるが)、その効力が訴訟当事者に限定されることを思うと、信託方式を用いた和解という方式による補償ないし賠償は、訴訟に加わっていない全被害者に補償を行うことを可能にする画期的な司法的解決の方法であり、今後の戦後補償裁判のあり方や戦後補償立法の議論にも大きな影響を与えるものと考えられる。
以上のような視点から、本稿では、戦後補償裁判における花岡事件訴訟和解の法的・歴史的意義について考察を加える1)。
それに先立ち、次章では、本件和解の意義を充分に理解するために、和解に至るまでの経緯について、花岡事件被害者と鹿島建設との自主交渉の経緯、および提訴後の東京地裁判決の内容を詳細に辿ることにより、問題の本質を明らかにしておきたい。
2.和解に至る経緯と和解の骨子 − 自主交渉・東京地裁判決から控訴審和解へ
(1)花岡事件の概要
アジア太平洋戦争末期の1944年8月から1945年6月までに、中国国民党および八路軍に所属する兵士またはその協力者として日本軍に逮捕され、あるいは捕虜とされた中国人(「俘虜」という)986名が、秋田県大館市の花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所に強制連行され、中山寮という「収容所」に強制収容された。そこで、中国人強制連行労働者らは、鉱床がその下を走る花岡川の改修工事や水路変更工事に強制的に従事させられた。そこでの強制労働では、長時間の重労働や暴行・虐待などが行われ、死者が続出した。こうした奴隷的労働に耐えかねた中国人強制連行労働者らは、1945年6月30日、遂に一斉蜂起し、日本人監視員4名、中国人1名を殺害し、山中に逃亡したが、憲兵隊に鎮圧され、すべての者が逮捕された。この事件では、憲兵隊の鎮圧および逮捕後の拷問等により100名以上が殺害され、それ以前の虐待や栄養失調で死亡した者をあわせると、合計で418名の中国人強制連行労働者が、解放されて帰国するまでに死亡している。
しかし奇妙なことに、日本の敗戦にもかかわらず、1945年9月11日、秋田地方裁判所は、この事件の首謀者とされた大隊長・耿諄(ゴン・ヂュン)氏ら11名に対し、無期懲役を含む懲役刑を言い渡したのである。その後、日本の戦争犯罪者を処罰するために国際軍事法廷が設置されたが、この花岡事件に関し、1948年3月1日、アメリカ第8軍戦争犯罪横浜法廷(BC級戦犯裁判)は、人道に対する罪にあたるとして、当時の鹿島組現場責任者のうち、監視員3名に対し絞首刑、1名に対し終身刑を、警察関係者2名に対し禁固20年を宣告した。しかし、後に、絞首刑は無期に減刑されるなどして、被告全員が釈放されている。
このように、花岡事件では、鹿島組現場責任者が戦争犯罪者として処罰されたのであるが、その後、鹿島建設株式会社(以下、「鹿島建設」とする)および日本政府は、鹿島組により強制労働に従事させられた全被害者に対してはもとより、花岡事件で殺害されたり、身体に傷を負わされたりした被害者自身あるいはその遺族に対しても、補償や賠償はおろか謝罪をもすることはなかった。
(2)1990年「共同発表」
(3)1997年東京地裁判決
(4)東京高裁での審理と和解勧告
(5)和解条項の骨子
以上のような経緯を経て、2000年11月29日に正式に和解が成立した。概要は以下の
とおりである(略:資料1・「和解条項」参照)。
3.戦後補償裁判における花岡事件和解の歴史的・法的意義
(1)企業の戦争責任を基礎とした和解条項
本件和解条項は、後に詳述するように、信託方式をとることによって、全体的解決をもたらすことになった。まさに「日本司法の歴史認識と度量を充分に示し」た画期的和解案と評することができよう(資料6・新美隆弁護士「和解成立についての談話メモ」参照)。
和解条項1条は、当事者双方は「共同発表」を再確認するとし、和解の法的基礎を、1990年7月5日の原告側と鹿島建設側の「共同発表」に求めている。
「共同発表」の中で、鹿島建設は、花岡事件について「閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実」と認め、「企業としても責任があることを認識し、」受難者その遺族に「深甚な謝罪の意を表明する」としている。さらに、このことにつき、双方が話し合いによって解決に努めねばならない問題であることを認め、以後、生存者・遺族の代理人等との間で協議を続け、問題の早期解決を目指す、とした。
2000年4月21日の東京高裁による和解勧告書前文では、「当裁判所は、花岡事件に関する諸懸案事項は当事者双方が平成二年(西暦一九九〇年)七月五日の『共同発表』に立ち返り、協議に基づいて解決することが肝要であり、かつ意義あるものであると思料し、和解に当たり当事者双方が承認すべき基本的合意事項の骨子を示し、当事者双方に和解を勧告する」とした(資料3・「和解勧告書」参照)。つまり、東京高裁は、この「自主的折衝の貴重な成果である『共同発表』に着目し、これを手がかりとして全体的解決を目指した和解を勧告をすることが相当であると考え」たのである(資料5・東京高裁「所感」参照)。このことは、東京高裁が「共同発表」に法的基礎を見出したことの証左と言える。
ここで問題となるのは、和解条項1条但書きの「被告鹿島建設は、右『共同発表』は被告の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、原告らはこれを了解した」との文言の解釈である。この点につき、原告側代表弁護人である新美隆・弁護士は、つぎのように述べている15)。
「本件和解の結果は、当事者の協議の積み重ねというよりも、裁判所が主導的にかつ慎重に積み重ねてきた指揮の結果というべきであ」り、「『共同発表』に法的基礎があればこそ今回の和解勧告がなされたもの」である。「原告らの被告に対する損害賠償権が前提になってこそ、『共同発表』は法的意義があり、裁判所の勧告する和解の基礎となるものと解される。」「被告鹿島建設は、一審以来,一九九〇年の共同発表中の『責任』の二文字について、道義的責任であって、法的責任まで承認したものではないことを強く主張し」てきた。被告は、「法的責任を認める趣旨でないことについて原告側の確認を求めたが、原告側だけでなく裁判所もこれを否定した。その上で、同意や承認という意味ではないものとして『理解』ないし『了解』の用語が詮議されてきたのである。」「この論点は、あくまで鹿島建設が法的責任を認めたものかどうかの問題にすぎず、本件和解の基礎をなす法的責任(義務)の存否ではないことである。」法的争点の観点からは、「厳密に言えば『共同発表』中の『責任』の二文字が法的責任(義務)の承認とみなされるかどうかは、鹿島建設の内心の問題ではなく、原告や社会通念からの客観的判定がなされるべきである。但書きは、中国人の強制連行・強制労働に関わった鹿島組の法的責任を免除するものではない」。
筆者も、こうした解釈を基本的に支持したい。裁判所は、和解提案をするに当たり、当事者双方の言い分を吟味しているはずであり、その法的争点が被告・鹿島建設の強制連行・強制労働による不法行為と安全配慮義務の不履行にあることは承知しているはずである。さらに、裁判所は、1990年7月5日の「共同発表」に和解の法的根拠を置いているとしている。「共同発表」では、鹿島建設自体が、強制連行・強制労働の事実を認め、企業としての「責任」を認識し、被害者に謝罪をしている。国家機関たる裁判所が、判決と同じ効力を有する公的文書たる「和解条項」を示すにあたり、法的責任の不存在を前提に、当事者双方に和解を促す筈はないであろう。この意味で、裁判所は、戦争犯罪に関わる謝罪と法的責任を前提とした上での、和解案の提示であったことは当然といえよう。「控訴人らはこれを了解した」とは、鹿島建設側が主観的に法的責任はないと言っていることを知ったということであり、それを認めたということではない。何故ならば、法的責任の存否は、新美弁護士の言うとおり、客観的に決められるべき事柄であるからである。
(2)信託法理に基づく「全体的解決」の歴史的・法的意義
和解条項第2項は、「被告は、『共同発表』第二項記載の問題を解決するために、花岡出張所の現場で受難した者に対する慰霊等の念の表明として、中国紅十字会に五億円を信託する」と定め、信託法理に基づく和解を言明している。これは、原告側が1989年12月22日付で鹿島建設に送った、謝罪・記念館の建設・補償の3項目を要求する「公開書簡」に対して、「鹿島建設株式会社は、このことについて、双方が話し合いによって解決しなければならない問題であることを認める」とする「共同発表」第2項の内容を具体化した条項である。
このような本件和解の解決方法には、戦後補償裁判ないしは戦後責任問題の視点からみた時、つぎのような歴史的・法的意義が認められよう。
この信託法理に基づく解決は、個々的な被害者の被害回復を目指したものではなく、訴訟に参加していないすべての被害者の被害回復をもたらすものである16)。この点こそ、本件和解の第1の、そして最大の特質であり、すべての戦争被害者の被害回復を図るために緻密に考え抜かれた、戦後補償裁判に関する様々な法理論の構築の中でも、きわめて画期的な法的理論構成であるといってよい。
信託法によれば、不特定な又は不存在の受益者についても信託行為は可能であり、受益者の権利は信託行為によって無条件に成立するとされている。つまり、通常の訴訟における和解では、損害賠償の請求者についてのみ、原告・被告双方の合意に基づいて損害賠償が支払われることになるが、本件では、信託法に依拠することにより、請求者以外のすべての被害者に被害回復権が保障されることになった17)。
このことはわが国の戦争責任に対する反省と、戦後補償問題全般に関わる「重大なる人権侵害」に対する回復を図るものといえる。東京高裁自身が言っているように「従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想」(資料5・「所感」)に基づくものといえよう。
さらに、こうした全体的解決を促した背景には、「諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配り」(資料5・「所感」)としているように、諸外国の取り組みが東京高裁の全体的解決に向けての和解案提案の参考にされたものと思われる18)。
また、こうした「全体的解決は」は、日本国憲法の平和主義の原理からも高く評価できる。筆者は、憲法前文の平和への希求を求める規範的内容について、わが国がもたらした過去の「戦争の惨禍」、すなわち植民地支配や侵略戦争により、朝鮮半島や中国・台湾の人々をはじめ、他のアジア諸国の人々に対し、奴隷的強制や専制的支配を強い、多くの人々の生命を奪い、身体を傷つけ、財産を奪い、多大な精神的苦痛をもたらしたことへの反省を示しているとともに、日本政府に対して戦争被害者への謝罪と補償を行なうべきこと(戦後責任履行の規範的義務の遂行)を要請しているものと見ている19)。本件和解の「全体的解決」は、こうした憲法前文の平和主義原理から導き出される戦後責任履行への規範的要請にも、合致するものといえる。
和解による信託法理に基づく「全体的解決」の意義として指摘したい第2の点は、戦後補償裁判の原告・被告双方が話し合いにより全体解決に向けて合意に達したという点である。
戦後補償問題の解決に向けての裁判あるいは市民運動などの取り組みの目的は、何よりも被害者の被害回復と日本およびかつて敵対した国相互の信頼の回復にあるが、それとともに重要なことは、日本がかつての植民地政策の誤りを認め、侵略行為による被害国民に対する過去の償いと謝罪を明確な形で示すこと、そのことにより二度と戦争による惨禍を招かないための各国政府および国民間の平和的友好関係の醸成にあると考えられる。この意味で、加害者と被害者の主張が平行線を辿ったまま、裁判所による判決の形態による解決が図られることは、必ずしも双方の信頼関係の醸成には結びつかない。
この意味で、被害者・加害者双方が、和解という手段により、粘り強く交渉と議論を続け、双方の合意の下に「全体的解決」が図られたことは、日中両国の平和的で良好な関係を醸成する上で、政治的・社会的・歴史的なインパクトははかり知れないものがあるといえる。東京高裁が2000年4月21日に出した「見解」(資料4参照)で、「本件が和解によって解決を見ることの意義は、社会的、歴史的にみて判決によった場合のそれと比して数倍の価値があると思われる」としていることは、このことを言い表したものと理解できる。
本件和解の第3の意義として、中国人強制連行問題に関わり、国際人道活動に関わってきた中国紅十字会が利害関係人として和解に加わり、信託の受託者となった点があげられよう。中国における公的機関が受託者となり、全体的解決が図られる先例を作ったことで、この和解により、日中両国における戦後補償問題はもとより、すべての戦後補償問題の解決に向かって大きなヒントが与えられたように思われる。また、中国紅十字会が受託者とされたことは、紅十会がこれまで、「日本に強制連行されて亡くなった中国人の遺骨送還の窓口になるなど重要な役割を果たし、国際人道主義の発展に貢献してきた」機関であり、受託者として適任と判断されたためであるとされる20)。
さらに和解条項第4項では、「中国紅十字会は、信託金を『花岡平和友好基金』として管理する。適正な管理運営のために、原告らが選任する九名以内の委員によって構成される運営委員が設置される。・・・本件基金は、日中友好の観点に立ち、受難者に対する慰霊及び追悼、受難者及びその遺族の自立、介護及び子弟育英等の資金に充てる」とし、基金運営の適正化と目的が述べられている。ここでは、基金の設立の目的が、被害者の被害回復に止まることなく、日中友好の視点に立つべきことが強調されている。また、本件和解は、全体的解決ではあるが、その運営に原告の意思を反映させることは、これまで裁判を闘ってきた当事者たちの意向を尊重することであり、適切な運営方式であると思われる。被害者の調査や補償金の支給など、信託業務はこれから始められることになるが、この和解方式を通じて、日中友好という崇高な目的のため、日中両国の協力が期待されよう。
最後に第4の意義として、信託法理に基づく全体的解決の方式が今後に及ぼす影響があげられる。信託法理に基づく戦争被害者に対する個人補償(あるいは賠償)のあり方は、他の企業による戦争被害者のみならず、帝国日本政府の直接的な責任による戦争被害者に対する補償立法の制定にあたっても、きわめて有効な補償方式として、大いに参考とされよう。
4.おわりに
花岡事件訴訟和解によって採用された信託法理に基づく戦後補償問題の解決の方法は、これまで論じてきたように、戦後補償裁判の中にあってきわめて画期的な歴史的意義をもつものと評価される。信託法に依拠することによって、個別的被害の救済に止まらず、全被害者の被害回復を図る「全体的解決」の方式は、前章で述べたように、司法的解決のみならず、戦後補償問題全般に関する包括的立法が議論されている中にあって、立法的解決の一つの有力な補償形式を提示しているものと思われる。戦後補償裁判の中で、和解を通じて、このような信託方式がとられていくことは、多岐にわたる困難な法的ハードルが立ちはだかっている戦後補償裁判において現実的な解決方法になろうし、戦後補償立法を制定する運動論の中でも検討すべき課題となろう。
最後に残された問題として、今後、帝国日本政府の戦争責任問題およびそれに加担した企業の法的責任が議論の対象とされねばならないだろう。本件では、中国人の強制連行・強制労働について、東京高裁は、1990年7月5日の「共同発表」を法的基礎にすえ、企業の戦争責任を前提とする和解案を示したのであるが、この「共同発表」で言及されている、1942年の強制連行・強制労働の実施を決めた「閣議決定」に関わり、今後帝国日本政府の法的責任の問題が論議されることになろう。戦後補償問題全般を見ても、日本政府も企業も、一貫して法的責任を否定している。こうした政府や加害企業の頑なな態度こそが、戦争被害者への被害回復の遅延を招いているといえる。このようなわが国の態度では、国連人権委員会で議論されている、戦争被害者の被害回復措置や再発防止策の策定をすることはできないであろう。
こうした困難な状況の中にあって、21世紀を迎えた今日、花岡事件訴訟和解の成立によって、戦後補償問題の解決に向け、われわれは大きな勇気と希望が与えられることになった。
註
1)わが国のアジア太平洋戦争における強制連行・強制労働についての実態や法構造および花岡事件の概要については、石村修「日本国の中国に対する戦後補償」専修大学社会科学研究所月報430号(1999年4月20日)27−35頁、同「花岡事件の周辺」専修大学社会科学研究所月報459号(2001年9月20日)6-15頁、田中宏「中国人の強制連行と国・企業−労働力の『行政供出』のメカニズム」古庄正・田中宏・佐藤健生ほか著『日本企業の戦争犯罪』(創史社、2000年)126−153頁、梶村太一郎「花岡事件和解の意義と世界の潮流」週間金曜日346号(2001年1月12日号)66−68頁、戸塚悦朗「花岡事件、裁判上の和解成立−日本の司法は信頼を回復し、戦争責任問題を全面解決に導くことができるか」法学セミナー554号(2001年2月号)75−79頁など参照。
15)新美隆・前掲註12)「花岡事件和解の経緯と意義」。
16)信託とは、1922年制定の信託法に基づく、財産管理制度の一形態ということができる。信託法第1条は「本法ニ於テ信託ト称スルハ財産権ノ移転其ノ他ノ処分ヲ為シ他人ヲシテ一定ノ目的ニ従ヒ財産ノ管理又ハ処分ヲ為サシムルヲ謂フ」と規定している。学説によると、信託とは、「ある者(委託者)が法律行為(信託行為)によって、ある者(受託者)に財産権(信託財産)を帰属させつつ、同時に、その財産を、一定の目的(信託目的)に従って、社会のためにまたは自己もしくは他人−受益者−のために、管理・処分すべき拘束を加えるところに成立する法律関係」と定義されている(四宮和夫『信託法[新版]』、有斐閣、1989年、7頁)。信託の設定にあたっては、「委託者は財産管理の目的や方法を指示することができる。受託者の財産管理は、これに従わなければならない。形式上、受託者名義のものではあっても、実質的には委託者の財産だからである。」「この意味において、信託はとくに信任関係を基礎としているはずであって、受託者の任務や責任はとくに重大なものといわなければならない。」(田中實『信託法入門』、有斐閣、1992年、5頁。)こうした信託の意義からすると、後に見るように、本件和解において、戦争被害者の援護活動を行っている中国紅十字社という公益団体を受託者としたことは、きわめて適切な判断であったといえる。
17)この信託法理を全体解決に結びつける緻密な法的理論構成の着想について、原告側の代表弁護人である新美隆弁護士は、「筆者の顧問先で企業年金の解約問題が発生し、その処理にあたっている時、信託法理(1922年制定の信託法)の適用がもっともふさわしいことに思い至った」(新美・前掲註2)「花岡事件和解訴訟研究のために」20頁参照)とされ、「花岡事件の如く、歴史的には九八六人の連行被害者が存在したことが認められるものの、その存在確認や連絡がとれないままのような事例であっても、歴史的事実に則して解決が可能となる法的構成は信託法理が適切である」としている(新美・前掲註12)「花岡事件和解の経緯と意義」40頁)。
18)具体的には、2000年7月6日ドイツで制定された「『記憶・責任・未来』基金の創設に関する法律」が想定されよう。この法律は、強制労働被害者への補償のために、ドイツ連邦政府、州政府、企業が総額100億マルク(約5,400億円)の補償基金財団、「『記憶・責任・未来』基金」を創設し、ナチスによる強制労働により被害を受けた人々に対する補償を行おうとするものである。この基金は、はじめて外国人の強制労働者を対象としたものであり、画期的なものとして注目を集めている。(「記憶・責任・未来」基金の解説・聞き取り調査報告・法律原文の邦訳について、ドイツ連邦共和国における「記憶・責任・未来」基金調査団編「ドイツ連邦共和国における『記憶・責任・未来』基金調査報告書」(連絡先、森田太三・弁護士)、その概要について、佐藤建生「ドイツ企業の『記憶、責任そして未来』−強制連行労働者への補償基金」前掲註1)『日本企業の戦争犯罪』10−46頁など参照。」
19)拙稿「『従軍慰安婦』問題と平和主義の原理−関釜裁判一審(山口地裁下関支部)判決をめぐって−」専修大学法学研究所紀要25『公法の諸問題X』(2000年3月)147頁。
20)新美・前掲註12)「花岡事件和解の経緯と意義」37頁。
専修大学社会科学研究所月報No.459(2001年9月20日)掲載