(1)花岡事件の概要
アジア太平洋戦争末期の1944年8月から1945年6月までに、中国国民党および八路軍に所属する兵士またはその協力者として日本軍に逮捕され、あるいは捕虜とされた中国人(「俘虜」という)986名が、秋田県大館市の花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所に強制連行され、中山寮という「収容所」に強制収容された。そこで、中国人強制連行労働者らは、鉱床がその下を走る花岡川の改修工事や水路変更工事に強制的に従事させられた。そこでの強制労働では、長時間の重労働や暴行・虐待などが行われ、死者が続出した。こうした奴隷的労働に耐えかねた中国人強制連行労働者らは、1945年6月30日、遂に一斉蜂起し、日本人監視員4名、中国人1名を殺害し、山中に逃亡したが、憲兵隊に鎮圧され、すべての者が逮捕された。この事件では、憲兵隊の鎮圧および逮捕後の拷問等により100名以上が殺害され、それ以前の虐待や栄養失調で死亡した者をあわせると、合計で418名の中国人強制連行労働者が、解放されて帰国するまでに死亡している。
しかし奇妙なことに、日本の敗戦にもかかわらず、1945年9月11日、秋田地方裁判所は、この事件の首謀者とされた大隊長・耿諄(ゴン・ヂュン)氏ら11名に対し、無期懲役を含む懲役刑を言い渡したのである。その後、日本の戦争犯罪者を処罰するために国際軍事法廷が設置されたが、この花岡事件に関し、1948年3月1日、アメリカ第8軍戦争犯罪横浜法廷(BC級戦犯裁判)は、人道に対する罪にあたるとして、当時の鹿島組現場責任者のうち、監視員3名に対し絞首刑、1名に対し終身刑を、警察関係者2名に対し禁固20年を宣告した。しかし、後に、絞首刑は無期に減刑されるなどして、被告全員が釈放されている。
このように、花岡事件では、鹿島組現場責任者が戦争犯罪者として処罰されたのであるが、その後、鹿島建設株式会社(以下、「鹿島建設」とする)および日本政府は、鹿島組により強制労働に従事させられた全被害者に対してはもとより、花岡事件で殺害されたり、身体に傷を負わされたりした被害者自身あるいはその遺族に対しても、補償や賠償はおろか謝罪をもすることはなかった。
内藤光博「戦後補償裁判における花岡事件訴訟和解の意義」専修大学社会科学研究所月報No.459(2001年9月20日)掲載より引用