花岡事件 和解の経緯と意義
鹿島花岡訴訟弁護団長 新美 隆
花岡事件訴訟和解の反響
二〇〇〇年十一月二九日午後二時に、東京高裁第一七民事部が開いた八一二号法廷で成立した花岡事件訴訟和解に対する反響は、訴訟代理人であり、和解協議にたずさわってきた筆者にとっても予想を越える大きなものであった。一部の報道機関が、十一月二八日の深夜から和解の予測報道を行ったために、国内の報道機関だけでなく、各国のメディアからの対応に追われた。一九九九年九月一〇日に、裁判所が正式に職権和解を勧告してから一年余を経過していたが、いかに多くの人々がこの和解成立のニュースを待ち望んでいたかをあらためて知る思いであった。筆者の元には、国内ばかりか国外からも多くの弁護士、研究者、市民の人たちからのメール、ファックス、手紙が寄せられ、今回の和解内容についての意見だけでなく、今後の戦後補償問題の解決に与える期待が一様に盛り込まれている。
筆者は、原告(控訴人、以下原告、被控訴人を被告という)十一名の代理人および今回の和解に利害関係人として参加した中国紅十字会総会の代理人としての立場から、和解成立後の、二〇〇〇年一二月二八日、二九日に北京に往き、当事者および関係者への報告を行ってきた。二九日の会議で、原告団は、和解条項にしたがって「花岡平和友好基金」の運営委員会委員を選任した。まもなくこれら委員によって結成される運営委員会が、和解を実施していくことになる(なお、委員の一名は、鹿島建設によっても選出されることになっている)。
今後、今回の和解の内容・意義について様々な角度から研究がなされていくことになるものと思われる(訴訟上の先例や資料としてだけでなく、企業研究の対象にもなるものと考えている。)。本来は、直接その和解協議の衛に当たった筆者よりも、より客観的な立場から研究者によって、事実資料を踏まえて検討がなされるべきものと思われるが、和解協議の過程が一切公開されず、厳重な情報管理の下で和解協議が進行した事情からすれば、公表を許される範囲内での経過を踏まえて、「立法経過」に準じて、何らかの解説を残す必要性もあるので本稿をまとめることにした次第である。
なお、正式な和解条項のほかに、四月二一日の和解勧告書提示の際に裁判所が口頭で述べた「所見」、十一月二九日の法廷で裁判所(長)が朗読した「所感」
筆者が和解成立直後に発表した「談話メモ」等和解条項を解釈する上での重要な資料があるが、これらは適宜引用する。
和解成立の経緯――
中国紅十字会の和解参加
東京高裁は、一九九九年七月一六日の第一回進行協議期日の冒頭で、本件花岡事件訴訟について和解解決をはかる意思を表明し、同年九月一〇日の第三回進行協議期日に正式に職権和解勧告をした。このため、進行協議は打ち切られ、一〇月四日の第一回和解期日が指定された。しかし、この段階では、裁判所は、通常の財産訴訟とは異なるとの認識を示したのみで、具体的な内容や裁判所の決意のほどを明らかにしたわけではない。同年八月、筆者ら代理人は、北京で原告らと会議を開き、裁判所の和解解決の意向を伝えたところ、原告らは、「千載一遇」の機会として和解協議段階に入ることを全面的に賛同し、代理人に対してあらためて全権委任状を作成署名した。この会議の論議を受けて、代理人は、原告側の和解手続きについての基本的な考えを裁判所に示した(一〇月四日の第一回和解期日では、これを具体化した原告和解案を提示した)。さらに、九月一〇日の正式な職権和解勧告の直後に、中国紅十字会に対する「花岡事件補償問題解決のための要請」文書を駐日中国大使館を通じて提出した(九月二一日)。すでに八月時点で、代理人としては花岡事件被害者全体の解決のために、信託法理(信託法:一九二二年制定)をもって対処することが法的にもっともふさわしいとの考え方が固まっていた。信託設定の要である受託者を、日本に強制連行されて亡くなった中国人の遺骨送還の窓口になるなど重要な役割を果たし、国際人道主義の発展に貢献してきた中国紅十字会に引きうけてもらうことが適切と判断したのである。中国側でもこの前例のない要請を各方面で慎重に検討したようである。一〇月末には、中国紅十字会より招請状が送られてきて、十一月初旬に、北京の中国紅十字会総会本部に赴いて詳細な協議をした。中国紅十字会が、信託行為の受託者として和解手続きに参加(利害関係人)するかどうかが、原告和解案を具体化できる目処を決するもので、中国側の決断を待つ日々が続いた。一二月一六日、中国紅十字会は、花岡事件訴訟の和解手続きに参加することを正式に決定した旨代理人に通知し、筆者がその代理人を受任した。
ここまでが、和解協議の第一段階と言える。中国紅十字会が、国交がなかった一九五〇年代から六〇年代にかけて強制連行被害者の遺骨送還の窓口になったことに引き続いて、今回は、中国人強制連行の代表事例とされてきた、花岡事件被害者に対する補償問題の全体解決のために役割を果たそうと決断したことになる。戦争被害者の救援を目的のひとつとする中国紅十字会が、外国である日本の国内裁判所での民間訴訟に参加をする決断をしたことは、戦争がもたらした被害回復という、本来的に国際性を帯びる本訴訟の特色に照らせばまったく理にかなったことであった。
裁判所の和解勧告書の提示
中国紅十字会の和解手続き参加表明をうけて、原告和解案についての協議がその後数ヵ月続いた。被告側の反論はすべての内容に及び、原告側としても各種資料を訴訟の弁論手続きに準ずる形で積み重ねて行った。この和解協議では、訴訟での双方の主張が、より具体的な形でかつ露骨に繰り返されたと言っても過言でない。裁判所は、和解打ち切りか裁判所の職権和解案の提示か、いずれかの判断を迫られたとの認識に立って、第一〇回和解期日(二〇〇〇年四月二一日)において、双方に和解条項の骨子を示す和解勧告書を文書によって提示した。
和解勧告書は、前文で「当裁判所は、花岡事件に関する諸懸案事項は当事者双方が平成二年(西暦一九九〇年)七月五日の『共同発表』に立ち返り、協議に基づいて解決することが肝要であり、かつ意義があるものであると思料し、和解に当たり当事者双方が承認すべき基本的合意事項の骨子を示し、当事者双方に和解を勧告する。」と述べた上で、次のとおり四項目を記載している。
1 当事者双方は、一九九〇年七月五日の・共同発表」を再確認する。
2 被控訴人鹿島建設は、右「共同発表」第二項の問題を解決するため、利害関係人中国紅十字会に対し金五億円を信託し、控訴人らはこれを了承する。(中国紅十字会は利害関係人として本件 和解に参加する。)
3 前項の信託金は、日中友好の観点に立ち花岡鉱山出張所の現場で受難した者に対する慰霊及び追悼、受難者及びその遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動資金に充てるものとする。
被控訴人鹿島建設は、本件和解の意義ないし趣旨に照らして、利害関係人が前項の信託金の一部を右受難者及びその遺族らの生活支援の目的に使用することについて異議がないものとする。右目的に使用する金員は前項の信託金の三〇ないし五〇パーセントを目処とする(そのほか信託に関連する条項は今後更に検討する。)
4 本件和解が花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的方策を和解条項に明記する(具体的な条項は更に検討する。)。
この内容は、信託金額を五億円とする点を除けば、ほぼ原告側の和解案と同一の趣旨のものであった。特に、冒頭で、一九九〇年七月五日の共同発表を再確認する、との条項を明示したことで、裁判所が共同発表にうたわれた「問題の早期解決」の具体化として和解内容を構成していることが明らかであった。
裁判所は、この和解勧告書を提示した期日に、口頭で双方に対して所見を披瀝した。その趣旨は、次の如きものである。
「裁判所は、七月五日の共同発表にあらわれた決意を表明した被告の見解に敬意を表するが、その一方で、既に一〇年を経過しようとしているのに、同発表の第三項でうたわれている「問題の早期解決」が実現していないことは残念である。裁判所は、公正な第三者としての立場から一気に解決を目指す必要があると考えて和解を勧告してきたが、双方の開きが大きく、調整の労も限界に達したようなので、この上は、裁判所が和解案の骨子を提示して双方に最終の決断を迫る途しか残されていないと判断した。裁判所は、和解勧告の過程で、和解が成立しない場合には判決で請求権の存否について判断しなければならず心証の開示は許されないが、留保付きのものであると断りながら可能な限り裁判所の考え方や意図するところを披瀝し、裁判所の考え方が合理的なものであることを話してきた。今回の和解案の骨子は、このような裁判所の考え方に沿ったものである。本件が、和解によって解決を見ることの意義は、社会的、歴史的にみて判決による場合に比べれば数倍の価値がある。共同発表からちょうど一〇年、西暦二〇〇〇年という記念すべき年に当たって、当事者双方が、このような和解の意義、および裁判所の意を理解して賢明な決断をするように切に願う。」
この「所見」に述べられた内容は、すでにそれまでも裁判所からより直裁に断片的に述べられていたものであったが、この時には、裁判所の案の論拠として改めて整理されたものと考えられた。
代理人は、この和解勧告書および所見の内容について、同月末北京で中国側および原告らに詳細に報告した。原告らにとっては、金額について不満があったものの、日中間に残された「戦争遺留問題」についての初めての解決であることの歴史的な意義や裁判所の認識の高さを理解して、この裁判所の和解勧告書に全面的に賛同した。中国紅十字会も関係方面との協議を経て、異議がない旨文書で表明した。花岡事件和解の成否は、ここに至って、鹿島建設側が、この裁判所の示した和解骨子の構成を同意して和解条項の具体化(法技術的な内容を含めて)に応ずるかどうかにかかることになった。
和解条項の具体化
四月二一日の第一〇回和解期日で示された裁判所の和解勧告書は、一九九〇年七月五日の共同発表を基礎にするものであることが明らかになったが、同共同発表では、鹿島建設は、強制連行・強制労働の歴史的事実を認めて、企業としても責任があると認識して深甚な謝罪の意を表明していた。それが、当事者間の合意文書に止まらず、裁判所が訴訟上の和解の基礎としての価値があるものと認めて勧告書を提示したことの意味は大きい。
この意味の法解釈については、後述するが、決して同じ文書の「再確認」に止まらない点を理解すべきであろう。この意味の大きさは、逆に言えば、一審勝訴判決を得ている被告鹿島建設側にとっては、致命的とも言えるものと受け止められたことは想像に難くない。和解勧告書の提示から和解成立まで、約七ヵ月、協議の回数で言えば指定された期日は一〇回、実質的な協議を入れれば二〇回近い。この期間が、和解の第三段階(最終段階)と言えるものであり、著者としても最も神経を使った時期である。様々な紆余曲折があり、「談話メモ」でも述べたように、双方とも「生みの苦しみ」を味わった時期である。
前記の四月二一日の和解勧告書は、所見で率直に述べられているように、度重なる和解協議にもかかわらず、双方の考えに大きな開きがあり、これを一気に打開するため裁判所が一切の事情を考慮して示したものであった。裁判所が、この骨子(和解原則)を最後まで貫いたことは、成立した和解条項を見れば一目瞭然であろう。通常の訴訟実務からすると、事ここに至れば、この和解勧告書を前提にして技術的に条項を詰めて行く作業が残されるのみということになる。ところが、本件ではそのような経過をとらず、裁判所が再び最後に至って、和解条項案をも双方に掲示することになった。裁判所は、十一月一〇日の第一七回和解期日の終了後、十一月二一日の第一八回和解期日に和解成立をはかるとして、細部を含めた和解条項案を双方に示した。この裁判所案をめぐって更にやりとりがあり、十一月一七日の夜の協議で文言の取捨選択を含めてようやくにして事実上の成案を得た。
筆者は、この成案を確認して、翌一八日朝北京に出発し、一九日朝からの在中国の原告全員が参加した会議で報告して最終的な賛同を得て二〇日に日本に戻り、二一日の和解成立にそなえたのである。ところが、本件和解は、鹿島建設にとっては取締役会の議決を経なければならない重要事項との理解から、二一日までに取締役会の召集が間に合わず、二一日の二回目(同日の和解は午前中だけで終了せず、夜六時から再度の期日が指定された。)の期日において、二九日に第二〇回の和解期日が指定された。
和解条項についての解説
以上のような経過をへて、十一月二九日に成立した和解の条項について、簡単に解説しておきたい(条項の要旨を示し、その後に解説する。)。
第一項 当事者双方は、「共同発表」を再確認する。ただし、被告鹿島建設は、右「共同発表」は被告の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、原告らはこれを了解した。
一九九〇年七月五日の「共同発表」で被告鹿島建設は、「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明」し、「『過去のことを忘れず、将来の戒めとする』(周恩来)との精神に基づいて……問題の早期解決をめざす」と約束した。このような内容の「共同発表」
を再確認し、本件和解の基礎として、共同発表が残した問題の最終解決が今回の和解とする構成は、前記の四月の和解勧告書のとおりである。
裁判所は、この点について「所感」 では、「当事者間の自主的折衝の貴重な成果である『共同発表』に着目し、これを手がかりとして全体解決を勧告するのが相当であると考え」たと述べている。今回の和解の結果をある日突然知らされた論者の目が第一項但し書きに向けられることは無理からぬものがある。しかし、本件訴訟で争いになった論点は、言うまでもなく一九四四年から一九四五年にかけて国策として制度化された中国人の強制連行(政府は「移入措置」と称する)に関与し、これを敢行した日本企業のひとつである鹿島組(鹿島建設の変更前の商号)の法的責任(義務)、言いかえれば被害者中国人の損害賠償請求権の存否である。
前述の経過から明らかなように、本件和解の結果は、当事者の協議の積み重ねというよりも、裁判所が主導的にかつ慎重に積み重ねてきた指揮の結果というべきである。著名な花岡事件が全面解決することが日中友好という大義に資することは言うまでもないが、これは成立する和解の意義であって、裁判所の和解指揮を支えた信念や決意そのものではない。「共同発表」に法的基礎があればこそ今回の和解勧告がなされたものと筆者は理解している。原告らの被告に対する損害賠償請求権が前提になってこそ「共同発表」は法的意義があり、裁判所の勧告する和解の基礎となるものと解される。このような観点から言えば、原告ら代理人が、裁判所の職権和解勧告までに控訴審で行った主張・立証が、和解を進める裁判所の心証に寄与したものと言いうる。前記「所見」で、裁判所が、和解によって解決する意義を判決による場合と比較して数倍の価値があるとまで述べた意味は、以上のような解釈と整合するものと考えられる。
なお、但し書きの部分は、「談話メモ」でも述べたように、四月の和解勧告書の最終段階で挿入されたものである。被告鹿島建設は、一審以来、一九九〇年の共同発表文中の「責任」の二文字について、道義的責任であって、法的責任まで承認したものでないことを強く主張してきた。「共同発表」の再確認条項を受け入れるに当たって、被告は、同発表文が法的責任を認める趣旨でないことについて原告側の確認を求めたが、原告側だけでなく裁判所もこれを否定した。その上で、同意や承認という意味ではないものとして「理解」ないし「了解」の用語が詮議されてこのように落ち着いたものである。ここで注意すべきことは、この論点は、あくまでも「共同発表」について鹿島建設が法的責任を認めたものかどうかの問題に過ぎず、本件和解の基礎をなす法的責任(義務)の存否ではないことである。法的争点の観点からは、「共同発表」の解釈如何は、被告鹿島建設の時効の援用が許容されるかどうかに関連している。この争点では、厳密に言えば「共同発表」中の「責任」の二文字が法的責任(義務)の承認とみなされるかどうかは、鹿島建設の内心の問題ではなく、原告や社会通念上からの客観的判定がなされるべきである。但し書きは、中国人の強制連行・強制労働に関わった鹿島組の法的責任(義務)を免除するものではないことは言うまでもない。
なお、日中の国交を実現した一九七二年九月の「日中共同声明」でも、日本側は、過去において日本が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省するとの文言を記載したに止まり、「謝罪」の二文字が公的文書で確認されたのは、今回が初めてのことである。
第二項 被告は「共同発表」第二項記載の問題を解決するため、花岡出張所の現場で受難した者に対する慰霊等の念の表明として、中国紅十字会に五億円を信託する。
原告十一名だけでなく、全体解決のために信託法理によって和解を構成した表現である。信託法によれば、不特定な又は不存在の受益者についても信託行為は可能であり、受益者の権利は信託行為によって無条件に成立するとされている。花岡事件の如く、歴史的には九八六人の連行被害者が存在したことが認められるものの、その存在確認や連絡がとれないままのような事例であっても、歴史事実に則して解決が可能となる法的構成は信託法理が適切である(第三者のためにする契約類型や財団設立方式では、このような効果は得られない。)。信託金額については、原告らにとっても不満であったことは既に述べたとおりである。この裁判所の勧告金額については、いろいろな解釈が可能であろう。前記「所感」では、「本件事件に特有の諸事情、問題点に止まることなく、戦争がもたらした被害の回復に向けた諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配」ったと述べられているが、このような配慮が信託金額にも及ぼされたものと解される。また、九八六名全員が判明するかどうか不確かなことも考慮されたと考えられる。しかし、原告十一名の請求総額が弁護士費用を含めても六〇五〇万円の事件であることを考えると裁判所としては、相当な決断を要したことは間違いない。
いずれにしても、現存の生存者を対象として補償措置がなされたアメリカやドイツの事例とは異なり、文字どおり歴史的事実に基づく被害者全体の解決を信託方式によってはかろうとする本件和解構成が、裁判所自身が所感で評するように、「従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想」に基づくものであって、本和解の最大の特色であろう。
第三項 信託金交付の方法についての定め。
第四項 中国紅十字会は、信託金を「花岡平和友好基金」として管理する。適正な管理運用のために、原告らが選任する九名以内の委員によって構成される運営委員会が設置される(被告が委員の選出を希望するときは、うち一名は被告が指名することができる)。本件基金は、日中友好の観点に立ち、受難者に対する慰霊及び追悼、受難者及びその遺族の自立、介護及び子弟育英等の資金に充てる。
信託行為の条件についての条項があり、今後の基金事業を規律するための基本となる。基金の運用および目的達成の認定のほか、残余財産の処分を含めて運営委員会が全ての権限を受権されている。そして重要なことは、このような権限を有する運営委員会の委員は、すべて原告が選任(これは同時に解任を含む)することになっていることである。和解を達成した原告の意思や意向は、この委員の選任を通じて基金事業に反映される仕組みになっている、ということができる。被告が指名する委員を含めて、日中の合作による基金事業の展開は、それ自体としても象徴的な意義を有する。運営委員会の組織や信託事務の詳細は、運営委員会によって定められる。
通常の和解であれば、成立と同時か、あるいは一定の支払いによって目的を達して終了することになるが、本件の和解は、これから基金事業によって実現をはかっていかなければならない、という特色を持っている。生存者・遺族の調査も進めなければならない。このためには、中国紅十字会だけでなく、中国側各方面の理解と協力が是非とも必要である。このような過程を通して、今回の和解の趣旨や意義についての認識が深化していくことを期待したい。
第五項 本件和解はいわゆる花岡事件について全ての懸案の解決をはかるもので受難者および遺族がすべての懸案が解決したことを確認し国内国外を問わず一切の請求権の放棄を含む。原告以外のものから被告に対する補償等の請求については原告および利害関係人が責任をもって解決し、被告に負担をさせない。
これは、前記の四月二一日の裁判所の和解勧告書第四項(「本件和解が花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的な方策」)を文言として具体化したものである。一見すると全くの法技術的な文言のように見えるが、この条項によって、本件和解が文字どおり全体解決をはかるものであり、訴訟物(六〇五〇万円の損害賠償請求権)をはるかに越える信託金の趣旨が、被害者(受難者およびその遺族)の一部でなく、全部をカバーするものであることが明示されたことになる。前記運営委員会がすでに知られている被害者だけでなく、未連絡の受難者および遺族の調査をすることとなっているのは、この和解の歴史的全体解決という性質によるものである。信託法理の性質から、本件和解の信託設定により、被害者については第四項に基づいて受益者としての権利がその意思表示にかかわりなく無条件で発生する。
しかし、本件は、民事事件の訴訟上の和解に過ぎないのであり、当然のことながら訴訟当事者以外の被害者の法的権利を拘束するものではない。原告十一名以外の被害者が、本件和解の趣旨や意義を理解し受益者としての権利行使と同時に本件和解を承認してはじめてその者に法的効力が及ぶに過ぎない。代表訴訟(クラスアクション)という法制度を持たない日本では、全体解決をめざす条項は、いずれにしてもこのような訓示規定にならざるを得ず、本件和解が全体解決になるかどうかは、全て被害者中国人の理解と運営委員会の努力に委ねられているのである。
なお、和解条項では、「いわゆる花岡事件」という表現が、和解勧告書とは異なって用いられている。筆者も長く「花岡事件訴訟」と呼び慣れてきたが、裁判所は一九四五年六月三〇日に発生した「花岡事件」の被害者だけでなく、鹿島組花岡出張所に連行されてきたすべての被害者を含める意味を込めてこのように表現したものである。
(六項から第八項は、特に解説を要しないので省略。)
花岡和解の意義について
今回の和解成立の意義については、いろいろの角度からの論評が可能であろう。筆者としては、前述した成立過程や和解条項の内容を踏まえて研究が進められることを期待したい。以下は、現時点での取り敢えずの感想にとどめることを了解していただきたい。
1 花岡和解が、全体解決をめざす内容として成立できた背景には種々の要因がある。それらが、有形無形に訴訟上の和解に反映したと解される。大きな要素としては、訴状でも強調したように花岡事件を今日まで伝えた多くの活動家、研究者、メディアの功績であり、大館での花岡事件を銘記しようとする市民の活動が上げられる。特に、大館での追悼、記録の活動が、中国在住の被害者にとって団結の拠り所となった意味は大きい。もしも、花岡現地での、加害の歴史を直視しようとする市民の活動がなく、風化した遺跡が残るのみであったとすれば、全体解決を具体化しようとする大胆な構想は生まれなかったと言っても過言でない。
2 裁判所も述べるように、戦争がもたらした被害の回復問題の解決には種々の困難がある。戦争を引き起こした政府が、率先して解決の努力を尽くすのであれば兎も角、その政府が解決済みの姿勢に固執している現状では、なおさら困難である。企業側においても様々な意見がある。一九九〇年七月五日の「共同発表」文の作成時点と今日を比べれば、他への影響という配慮は格段に異なっている。しかし、
護送船団方式に頼れなくなった現在の企業は、その自主的な決断によって、生存をはからなければならなくなりつつあることも厳然たる事実である。いかなる制度も組織も、要するにそれを支える人によらざるを得ない。今回の和解を可能にした力は、訴訟当事者と裁判所の決断によるとしか言いようがない。解決を先送りしてきた五〇年来の習慣を打ち破ることができたのは一気呵成に解決するとの関係者の信念と決意である。
3 戦争が残した被害回復の目的は、個人の尊厳と相互の信頼回復である。戦争の延長の如き発想や方法では、決してかなえられない。このような観点から言えば、(いかに成立に至るまで熾烈な闘争が繰り返されようとも)和解形式による解決には得がたい価値がある。「共同発表」で、賠償問題を含めた問題について、「双方が話し合いによって解決に努めなければならない問題である」とうたったのもこの意味からであった。訴訟制度の制約からも和解形式をとることによって全体解決をはかることが可能になった。今後の合作を通じて、加害企業と被害者との接触が深まり、信頼関係の醸成が期待される。
被告鹿島の「共同発表」以降の対応から、被害者は訴訟による解決へ一旦は追い込まれたが、この困難を通じて更に大きな成果を得たことになった。一つは、確定判決と同じ効力を有する法的文書において被告の謝罪表明を含む「共同発表」を再確認したことである。また、もうひとつは、国家機関の一つである裁判所が、「共同発表」の意義を認めて、和解成立に積極的な寄与をしたことで、国家意思が間接的にせよ表明されているとも解されることである。この和解が、中国人の「強制連行・強制労働」
の根拠を与えた「閣議決定」の責任を浮かび上がらせざるを得ない所以はここにある。
4 日中友好は、政府の課題だけでなく、企業を含めた日本全体にとっての生存条件とも言える大きな課題である。そしてこの課題の実現には、自立した一人一人の相互信頼が不可欠であり、これなくしては真の友好はあり得ない。戦後補償の実現は、日中の真の友好関係の確立のために避けて通れない課題であることをすでに多くの人々が気づいている。このような状況下にあって二〇世紀の最後に成立した花岡和解は、日中間の戦争が残した問題はなお解決しなければならない問題であることと同時に、日中友好の観点から具体的に解決ができることを示したと言える。
季刊 「戦争責任研究」第31号(2001年春季号)より転載
(同誌は縦書き。本冊子では漢数字十一以外はそのまま転載しました。法的意識を法的意義へ転載時に訂正)