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デビット・リード氏の著作『Jehovah's Witnesses Answered Verse』の当サイトでの一部公開が著作権者から許可されました。

目次
マタイの福音書
ルカの福音書・マルコの福音書
ヨハネの福音書
使徒行伝
使徒の書簡
黙示録


エホバの証人に聖句から聖句に答える
 新約篇

マタイの福音書

マタイ 3:11 

「(バプテスマのヨハネは, こう言った)その方は, あなたがたに聖霊と火とバプテスマを お授けになります。」

 ものみの塔の1982年の出版物, 『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』40頁に依ると, 「バプテスマを施す人であったヨハネは, 自分が水でバプテスマを施してきたように, イエスは聖霊でバプテスマを施すであろうと言いました。したがって, 水が人格的なものでないと同じように, 聖霊も人格的なものではありません。(マタイ 3:11)」と述べている。

 「聖霊」の人格に反対するエホバの証人の論証は

, どれ程まともなのか。全くまともではない。同様に,「バプテスマ論争」が, イエス・キリストの人格を否定して用いられる。明らかにイエス・ キリストはひとりの人間として地上生涯を歩まれた。例えばローマ 6:3でこう言われた。「それとも あなたがたは知らないのか。イエス・キリストにあずかる バプテスマを受けたわたしたちは, 彼の死にあずかるバプテスマ を受けたのである」(口語訳)。類似した主張だとそうなる。ガラテヤ 3:27で言っている。 「バプテスマを受けてキリストにつくあなたがたはみな, キリストをその身に着たのです」。 ここでの考えの筋道はこうである。「人々はキリストにバプテスマを受けるかもしれないし, キリストを身に着けるかもしれないから, 彼は, 一人の人間であるはずがない」。こうした比較は, キリストの人格を論破するだろうか。いいや, 違う。違うばかりか, 「バプテスマ論争」は, 「聖霊」の人格性を論駁しない。「聖霊」の「注ぎ出し」と「満たし」の論議は使徒 2:4以下で見る。 「聖霊」の神性と人格の証明については, ヨハネ 16:13, 使徒 5:3-4, ローマ 8:26-27, コリント第一 6:19も見なさい。

マタイ 6:9

「そこで, あなた方はこのように祈らなければなりません。『天におられるわたしたちの父よ, あなたのお名前が神聖なものとされますように。』」(新世界訳)。

 エホバの証人は, 神のみ名が神聖なものとされるべきだ指摘し, 私達の祈りが「神」の耳に届く 為には, エホバのみ名を用いなければならないことを「論証」する。しかし, それはイエスの教え なのか。エホバの証人がするように, イエスは「エホバ神」の表現を用いて自分の祈りを始められた のか。
 全く違う。祈りの中で
, 神聖なものとされ, 崇められる神の名との関係を表現するとき (神聖なあるいは畏れ多いとみなされて), イエスは弟子たちに「エホバ神」ではなく, 「私たちの父」に祈るように教えられた。イエスは言われた。「だから, こう祈りなさい。 『天にいます私たちの父よ。‥‥』」。  イエス自身の個人的な祈りは, 聖書の中に多く記されている。その中でイエスは同じ例を示される。
 「父よ, ‥‥感謝いたします」(ヨハネ 11:41,新世界訳)。
 「アバ
, 父よ, あなたにはすべてのこと が可能です」(マルコ 14:36,新世界訳)。
 「父よ
, 時は来ました‥‥」(ヨハネ 17:1,新世界訳)。
 証人は, こう言って反論するかもしれない。「イエスは『御父』と特別の密接な関係をお持ちでした。 イエスが『エホバ』と呼ばれなかった理由はそこにあります」。私達は, そこに幾らかの真実があると 認めることが出来るが, イエスの目的は, 最終的に, 全ての弟子達に神との特別な関係を もたらすことでもあった。イエスはこう, 教えられた。「私を通してでなければ, だれひとり父のもと に来ることはありません」(ヨハネ 14:6,新世界訳)。イエスを通して「父」に来るクリスチャンの ために聖書は言っている。「‥‥子としてくださる御霊を受けたのです。わたしたちは御霊によって, 『アバ, 父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは, 御霊ご自身が, 私たちの霊とともに, あかししてくださいます」(ローマ 8:15-16)。  マタイ 6:9のイエスのことばが, 祈りの中で明確にエホバの名を用いる必要性を教えていないことは, 疑う余地が無い。

マタイ 14:6-10

「たまたまヘロデの誕生祝いがあって, ‥‥彼は人をやって, 牢の中でヨハネの首をはねさせた。」

 この聖句は, 誕生日の祝いに反対する組織の禁令と関連づけて, しばしばエホバの証人が引用する。 創世記 40:20-22の項を見なさい。

マタイ 24:3

「イエスがオリーブ山ですわっておられると

, 弟子たちが, ひそかにみもとに来て言った。 『お話しください。いつ, そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わり には, どんな前兆があるのでしょう。』そこで, イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされ ないように気をつけなさい。」

 不幸なことに, すでに誰かがエホバの証人を惑わしてきた。エホバの証人に惑わされないように 注意しなければならない。ものみの塔協会は, イエスが1914年に目に見えない様に再来されて以来, 臨在されていると信者に教える根拠としてこの聖句を用い, その独自の翻訳の中で「到来」を「臨在」 に置き代える。どの様に?何故, 自然にものみの塔組織に導いているのか。
 同じ文脈で
, イエスは 欺きそのものに反対して警告した。「にせ預言者が多く起こって,多くの人々を惑わす。 ‥‥「そのとき, 『そら, キリストがここにいる。』とか, 『そこにいる。』とか言う者があっても, 信じてはいけません。にせキリスト, にせ預言者が現われて, できれば選民をも惑わそうとして, 大きなしるしや不思議なことをして見せます。だから, たとい, 『そら, 荒野にいらっしゃる。』 と言っても, 飛び出して行ってはいけません。『そら, 部屋にいらっしゃる。』と聞いても, 信じては いけません」(11, 23-26節)。
 実際, ものみの塔協会の指導者たちは, キリストが‘組織という部屋’におられると主張する。 あなたは, イエスからの指示を受け取るため, 組織に行かなければならない。幸いなことに, この欺きを, 見破る為にエホバの証人を, 助ける膨大な証拠がある。
 まず初めに
, 預言の事例がある。 ものみの塔協会は, 何度も何度も「偽預言者」のレッテルを張られるに値する間違った預言の長い歴史を 有している。(1914, 1925, 1975年を預言した組織の際立っている事例については, 箴言 18:20-22 項を見なさい)。
 彼らの作り事が
, 変化し続けている歴史的事実もある。キリストが1914年に見えない様で, 再来したことが一方であり, 他方, キリストが1874, 見えない様で再来したと人々に教えてから既に 50年も経過したと主張する。‥‥そして, それからあなたの考えを変えた。エホバの証人の組織は, それを行ったばかりである。1879, 『ものみの塔』誌が出版され始めたとき, 最初それは『シオンの ものみの塔およびキリスト臨在の告知者』と名付けられた。50年後, ラザフォードは『預言』の本の中で, 1874年の「臨在」は, 継続して告知されていた。「聖書は, 1874年に『主』イエス・キリストの再臨が 始まったことを証明する(65頁)」。現在, 組織はイエスが1914年に再来したと言っている。 だから, 彼ら自身が認めているところでは, 1874年から1914年まで不在であったキリストの臨在を 主張しているのだから, 組織は偽りの告知者である。

 キリストが見えない様で臨在し, エホバの証人の指導者を通して地上を統治していると主張して, エホバの証人の指導者は信者に教える。「西暦1世紀には, エルサレムは, そこからクリスチャン 組織に命令が伝えられる場所であった(使徒 15:1, 2)。 しかし, 今日, その命令は, ニューヨークのブルックリンから与えられる(『ものみの塔』1983 31日号23頁)。 証拠を考慮しても, 個々のエホバの証人は, こうした人間に恐れ多い服従を続けるべきだろうか。 聖書に答えさせよう。「預言者が主の名によって語っても, そのことが起こらず, 実現しないなら, それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れては ならない」(申命記18:22)。出エジプト記 3:15, 申命記 18:20-22, イザヤ 43:10, マタイ 24:14,  マタイ24:45の項も見なさい。

マタイ24:14

「そして王国のこの良いたよりは

, あらゆる国民に対する証しのために, 人の住む全地で宣べ伝えられ るでしょう。それから終わりが来るのです」。(新世界訳)。

 この聖句はエホバの証人がいつも気に入っている聖句の一つである。しかし, 言わんとしていることを 超えて多様な考えを読みとる。イエス・キリストが1914年に見えない様で再来し, その時, 地上で目に 見えるイエスの代理人であるものみの塔協会を設立すると共に, 神の王国を天国で「設立した」と信じている。だから, 永遠の命を受ける為に, 人々は「救いのため エホバの組織の下へ来る」(『ものみの塔』1982515日号27頁)必要がある。 エホバの証人が王国 の「福音」や「良いたより」を宣べ伝えるとき, 実際にはエホバの証人は, 1914年のキリストの見えない 臨在の教理を宣べ伝えている。
彼らの宣べ伝えている「良いたより」が幾世紀にも渉って, クリスチャンの手によって宣べ伝えられた 福音や「良いたより」と同じではないことを, 素直に認める。しかも, 異なった良いたよりを持つ ことは, 素晴らしいと考えている。「エホバの証人が, 1914年以来行ってきた王国に対する証しは, 1914年以前, そしてそれ以後にキリスト教世界の宣教師たちが宣布してきたものとは大いに異なって いるのです。『異なっている』と言うのですか。どのようにでしょうか。

‥‥

1918年以来エホバの 証人が世界中で宣べ伝えてきた事柄は, 他に類のないもの であり, ‥‥メシアによる王国が1914年に天で設立されたというこの良いたよりを(宣べ伝え) ‥‥。」(『ものみの塔』198111日号28-29頁)。  しかし, 聖書は, 異なった福音を宣べ伝えることを, はっきりと警告している。

「しかし

, たとえ わたしたちや天からのみ使いであろうと, わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良い たよりとしてあなた方に宣明するとすれば, その者はのろわれるべきです。わたしたちが上に述べた とおりのこと, それをわたしは今もう一度言います。あなた方が受け入れた以上のことを良いたより としてあなた方に宣明している者は, だれであろうとのろわれるべきです(ガラテヤ 1:8-9, 新世界訳)。   エホバの証人に聞いてみなさい。「使徒パウロはガラテヤの弟子たちに, キリストが1914年に再来し, ニューヨークのブルックリンに本部を持つ目に見える政府を設立すると教えましたか」。否定するなら, ものみの塔指導者の「良いたより」は, ガラテヤ人たちが受け入れた‘以上のこと’である。 (別の福音を, 教えている故に, 神の呪いの下にある。)
 申命記
18:20-22, マタイ 24:3, マタイ24:34の項も見なさい。

マタイ 24:34

「まことにあなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは, この時代は過ぎ 去りません。この天地は滅び去ります。わたしのことばは決して滅びることがありません。」

 どの時代なのか。対象は, クリスチャンの聖書の読者の間で論議する事柄であり, エホバの証人の 中ではない。それは, エホバの証人の組織は明確に教えて来たのである。「イエスの語られた世代は 1914年の世代であるということを証拠は示しています。ですから, 『[黙示の時をも含む] これらのすべての事が起こるまで, この世代は決して過ぎ去りません』」。(『ものみの塔』 1986215日号5頁)。
 長年
, 『目ざめよ!』誌の各号は, 4頁目に目的の声明を特色としていた。 「またきわめて重要な点として, 本誌は, 1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に平和で安全な 新しい世をもたらすという, 創造者の約束に対する確信を強めます」。『目ざめよ!』誌 196918日号は, 15歳の若者」を示唆して, 「イエスは明らかに, 『終わりの日』の開始時 に起こるできごとを, 理解をもって見得る年齢に達している人たちについて言われていたのです」 と述べて, もっと明瞭にこの世代を定義した。(13頁)。「わたしたちの時代の適用を考える場合, 論理的にいってその「世代」が第一次世界大戦中に生まれた子供たちにあてはまるとは言えません」 (『ものみの塔』197911日号32 )と, きわめてはっきりと述べた。
 ものみの塔の「過ぎ去らない世代」は
, 1980年代中頃までに, 殆ど ‘過ぎ去った’ことを知るには, 1914年に15歳であった者は, 1924年に25歳になり, 1934年には 35歳(1984年には85歳) だと計算をする必要があるだけである。預言は, 殆ど失敗しようとしている。エホバの証人の指導者は, 預言を変えるよりも, むしろ世代を拡大解釈しているだけである。1914年の出来事の理解を見得る15 という年齢に代えて, 「イエスが『世代』という語をそのような意味で使ったとし, それを1914 に適用すると, その世代の赤ちゃんは今や70歳かそれ以上になっています」(『ものみの塔』 1984101日号22頁)と語って, その世代は「そのころに生まれた者」(初期に除外していた 赤ちゃんそのもの)から構成されるだろうと言い始めた。

 ‘本物のクリスチャン’は, 主が再来されることを熱心に祈る。私達も, その再来を待ち, 見守る。 しかし, 偽預言をした者どもは, 「主」が私達に警戒をするように警告した者どもの範疇に入る。 「にせキリスト, にせ預言者たちが現われて, できれば選民をも惑わそうとして, 大きなしるしや 不思議なことをしてみせます」(マタイ 24:24)。
 100
年に渉る組織の偽預言の歴史についての 情報は, 申命記 18:20の項を見なさい。

マタイ 24:45-47

「主人が, 時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため, 彼らの上に任命した,  忠実で思慮 深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して, そうしているところを見るならば, その 奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが, [主人]は彼を任命して自分のすべての持ち ものをつかさどらせるでしょう。」(新世界訳)。

 これはエホバの証人にとって鍵となる文章である。エホバの証人は, 譬えに独特な解釈を付加する。 全てのクリスチャンは, キリストへの忠実で勤勉な‘奴隷’となるよう勧告していると考える。 それに代わり, エホバの証人は, 組織がその忠実で思慮深い奴隷(信仰の家の者に「霊的な食物」 を備える為に, 神聖に定められた)を代表していると信じている。平均的な証人の目から見ると, この解釈では, 「ものみの塔幹部」に強力な権力と権威を与える。
 例えば
, 『ものみの塔』誌198231日号では上述した聖句を, どの様に評価し, ものみの塔 協会に従うかどうかによって永遠の命を得させているか, 注意しなさい。

 「しかしエホバ神は, あらゆる国にいるクリスチャンが聖書を理解し, それを自分たちの生活に正しく適用するための助けとして, 霊によって油そそがれた人々 からなるご自分の見える組織, つまりご自分の「忠実で思慮深い奴隷」を備えてくださいました。 神が用いておられるこの伝達の経路と連絡を保たなければ, どれ程多く聖書を読むとしても, わたしたちは命に至る道を進むことはできません。」(同, 27頁)
 「エホバの見える伝達機関である「忠実で思慮深い奴隷」の組織と共に忠節な態度で仕える人々は, 皆恵まれた人々です。彼らの選択は賢明です。その道筋は, エホバが設けられる新秩序での 永遠の命という貴重な目的地に至るからです。」(同, 31頁)

 組織を聖書の上に持ちあげている記述が(特に27頁), ものみの塔と私の関係における 「最後の麦わら」(らくだの背を砕く麦わら)となったことを, 個人的に話すべきだろう。 私が王国会館の集会で, 組織の公式の主張を疑い, 私のニュースレター「友達からの良い便り」 (上述の引用を扱った創刊号)を秘密裏に出版して口に出し始めた後だった。不幸にも大部分の エホバの証人は, そうした記述を賞賛し, 組織の指導すべてに盲目に従うまでに慣れきっている。

 初めに個人的に見える様でマタイ 24:45の「忠実で思慮深い奴隷」と見なされた者は, CT ラッセル(ものみの塔の創始者, 初代会長)であった。彼の死後, 組織に大分裂が起き, 完全な支配権を握ろうとする新会長JF・ラザフォードの支持者と, 分派として分かれていく ラッセル牧師に忠節な者たちに分かれた(そのうちの何人かは今でも残っている)。現代の ラッセル派のグループは, ‘牧師’の本を印刷し, ‘牧師’を教会への「神」の特別な使者と見なしている。 ラザフォード‘判事’の追随者は, ラッセルが, ‘忠実で思慮深い奴隷’であるとは, 決して主張 しなかったことを強調し, (翻訳者補足1) 全体としてものみの塔協会は, 「神」の選ばれた手段であると強調した。
 この信念を持つエホバの
証人を正すのは非常に難しい。「組織」は「神」の伝達経路であるから, 「組織」が教えることは 何でも受け入れる。そして「組織」は地上で真理を教える唯一の宗教団体であるから, エホバの証人 は「組織」を信じる。結論として「組織」が教えることは, ことごとく受け入れるのであるから, 正当性を主張する。 循環論法だが, エホバの証人が考える方法である。初めに人を組織に 引きずり込む, いわゆる聖書研究や教え込みのプログラムの後, 幾つかの点で研究生の理論の鎖は 捻られ, 端と端が結びつけられている。だから, ストレートに考える代わりに輪の中で考える。 何故あなたがエホバの証人と鬼ごっこをし, 何も得られないか, 理由はそこにある。それは洗脳と 呼ばれるかもしれない。
 証人の心が作用するように, 習った使い古しの軌道から外れるほど考えを揺り動かす情報を個人的 に与えること, それが, 循環論法を壊す鍵である。これは長くて緩慢な過程であるかも知れない。 祈りを多くしたり, 根気強さが求められる。しかし, それは, 上手く行くかもしれない。助けの為に, 6章の「福音を分かち合う知恵」を見なさい。

(翻訳者補足1:「ものみの塔」の共同編集者であった妻の「ラッセル自身が忠実で思慮深い奴隷 である」という見解は, 30年間, 聖書研究生に受け入れられていた。参考文献 『エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々』143頁。)

マタイ 26:27

「また, 杯を取り, 感謝をささげて後, こう言って彼らにお与えになった。『みな, この杯から 飲みなさい。』」。

 ものみの塔協会は, イエス・キリストのこの明瞭な指示に従わないよう, 信者に教えてきた。 エホバの証人が彼らの年に一度の祝いの交わりを持つとき, 殆ど誰もパンと杯に与れず, パンと 杯は, 次から次に手渡される。(『ものみの塔』誌198611日号には, 1985年の祝いの日に出席した 7,792,109人のうち, 9,051人だけが与ったとする統計を報告した。そしてエホバの証人の世界中の 会衆49,716の大部分では, 会衆内で与る者が全くいない)。

 イエスが「みな, この杯から飲みなさい」と命じた行為をしない代わり, 証人たちは, 彼らの指導者 たちの指示に応えている。指導者たちは, 1935年以降の新参者はイエスの仲介した新しい契約 (ヘブル 12:24)にあずかれないと信者に教えてきた。 「『ほかの羊』級の人々は, 新しい契約に入っていないので, 表象物にはあずかりません」。 (『ものみの塔』1986215日号15頁)。

 しかし

, 交わりのパンと杯で表わされる命を救う 契約を語って, イエスは言った「そこでイエスは彼らに言われた, きわめて真実にあなた方に言 いますが, 人の子の賑を食べず, その血を飲まないかぎり, あなた方は自分のうちに命を持て ません」(ヨハネ 6:53, 新世界訳)。 もし, 証人たちが自ら新しい契約を, 取り除くなら, 彼らは自ら永遠の命を取り除く。
 1935年を, 交わりに関するイエスの指示の満了の日としてイエスが定めた聖句を示すよう, エホバの 証人に頼みなさい。そうした聖句はない。寧ろ, 「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」 (ルカ 22:19, 新世界訳)と、 イエスは言われた。「1935年の教理」の詳しい情報は、 黙示録7:9の項を, 「ほかの羊」に関しては, ヨハネ 10:16の項を見なさい。
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