黙示録 1:7-8*
「見よ, 彼は雲とともに来る。そして, すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも [見る]。また, 地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり, アーメン。エホバ神はこう言われる。『わたしはアルファであり, オメガである。今おり, かつており, これから来る者, 全能者である。』」(*新世界訳は啓示の書と表記する)。エホバの証人の聖書でもエホバ神が「アルファであり, オメガである」, 「最初であり最後で ある」と言っているが, もしイエス・キリストが「アルファでありオメガである」, 「最初で あり最後である」と示されるなら, エホバの証人はイエス・キリストが「全能の神」 であると認めるべきか, 或いは「みことば」に目を閉じるべきか。
エホバの証人が持っている新世界訳を用いて, 次のように証人と一緒にこれらの聖句を論議する のがいいだろう。
上に引用した啓示 1:7-8は, 誰かが「来る」と述べる。誰だろう。7節では, それは「刺し通 された」者であるという。死の為にくぎ付けにされたとき, 刺し通された者は誰だろう。 イエスである。しかし, 8節では「来る」者は, エホバ神だと言っている。来る者は二人いるの だろうか。そうではない。8節では「これから来る者(One)」と呼んでいる。
啓示 1:8は, 明確にエホバ神が, 「アルファでありオメガである」と述べている。ここでエホバ神が啓示 22:12-13で 言っていることばに注意せよ。「見よ, わたしは速やかに来る。‥‥わたしはアルファであり オメガであり, 最初であり最後であり」と言っている。従って, エホバ神は速やかに来る。 しかし, もう一度それを言っている時の応答に注目せよ。「しかり, わたしは速やかに来る。 アーメン!主イエスよ, 来てください」。(22:20, 新世界訳)。
ギリシャ語のオメガは最後の文字であり, アルファは最初の文字であることをここで述べても よい。だから「アルファでありオメガである」は, 「最初であり最後である」と同じ事柄を 意味する。再び新世界訳を参照してこのように続けなさい。
啓示 2:8では誰が語っているのか。「『最初であり, 最後である者』, 死んで, 生き[返った]者‥‥」。明らかにそれは イエスである。イエスが「最初であり, 最後である」と自己宣言をしたとき, その本質として自分 のことを区別しているイエスは何者だったのだろう。全能の神が旧約の中で自分のことをどのよう に述べたかである。啓示を書いた使徒ヨハネや後の時代の聖書読者がすべて, 次の聖句を思い出す ことを知っていた。「わたしは同じ者である。わたしは最初である。しかも, わたしは最後である。 しかも, わたしの手が地の基を据え, わたしの右手が天を延べ広げたのである」。(イザヤ 48:12-13)。 「わたしが同じ者である‥‥わたしの前に形造られた神はなく, わたしの後にもやはり いなかった。わたしが−わたしがエホバであり, わたしのほかに救う者はいない」。 (イザヤ 43:10-11)。
「最初であり最後である」の表現は, 啓示 22:13でエホバ神を指し示す方法として, この様に 用いられていることに注意しなさい。「わたしはアルファでありオメガであり, 最初であり, 最後であり, 始めであり終わりである」。そしてヨハネも記している。「すると彼は右手を わたしの上に置いて, こう言った。『恐れてはいけない。わたしは最初であり最後であり, また, 生きている者である。わたしは死んだが, 見よ, 限りなく永久に生きており, ‥‥」。 (啓示 1:17-18)。
エホバの証人が自分の聖書でエホバ神が来る者であり, すぐに来る者であり, アルファであり オメガであり, 最初であり最後であり, 唯一の救い主であると読んだことを思い出させなさい。 エホバの証人は, こうも読む。私たちの救い主イエス・キリストは, 来る者であり, すぐに来る 者であり, アルファでありオメガであり, 最初であり最後である。
もし, エホバの証人が正しい結論(文字通りイエス・キリストが全能の神である)に達するのが難しいなら, コロサイ 2:9を 読むよう, 頼みなさい。「[キリスト]の中にこそ, 神の特質の満ち満ちたさまが形を取って 余すところなく宿っているからです」(新世界訳)。 「NIV, 新国際訳」に従えば, 「キリストには神性の満ち満ちたさまが体の形を取って宿って いるためです」。
創世記 18:1-2, 出エジプト記 3:14, イザヤ 9:6, ヨハネ 1:1の項をも見なさい。
黙示録 3:14
「また, ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方, 忠実で, 真実な証人, 神に造られたものの根源である方がこう言われる』‥‥」。この聖句は, エホバの証人のお気に入りの聖句の一つである。イエス・キリストが単なる被造物, 神が造った最初の天使に過ぎないことを‘証明’しようとする。彼らは, こう言う。「見なさい。 イエスが『創造の初め」』である」と。しかし, 彼らは気を付けないといけない。 黙示録 21:16; 22:13の両方の聖句とも, 「父なる神」が語っているとあなたに教えるだろう。 しかし, それらの聖句で, 「父なる神」は自分のことを「初め」であると呼んでいる。だから, 「初め」は創造された初めのものとは別の何かを意味するに違いない。
事実, どちらの場合でも, ギリシャ語の語句アルケーが用いられている。それは 『バインの解説新約聖書語句事典』によると, 「始まり」, 「権力」, 「判事」, 「統治者」の様に 多様な意味を持つ語句である。ものみの塔の聖書翻訳者は, 同じ語アルケーの複数形をルカ 12:11では 「政府の役人」と訳した。他人の上に立つ長である者を指すarchbishop(大司教)やarchitect (建築家, 設計士)などの語句の語源である。「新国際訳」の黙示録 3:14は「『神』の創造の統治者」 となっている。故に黙示録 3:14がイエス・キリストを被造物だと主張する根拠にはならない。
イザヤ 9:6, ヨハネ 1:1, ヨハネ 20:28, その他, 索引にある「イエス・キリスト」の項に 引用された他の聖句も見なさい。
黙示録 7:4
「そしてわたしは, 証印を押された者たちの数を聞いたが, それは144千であり, イスラエルの子らの すべての部族の者たちが証印を押された。」(新世界訳)。ものみの塔協会は, クリスチャン教会(キリストの体)が文字通り, 144千人に限定されると教えて いる。144千人の集まりは, 一世紀のペンテコステの時に始まり, 1935年まで継続した。そのとき 定員に達し, 扉は閉じられた。1935年以降の新参者は144千人の一員ではなく, 「大群集」或いは, 「ほかの羊」と呼ばれる二次的な階級を形成する(「大群集」と1935年の日付に関するより詳しい 情報は黙示録 7:9の項を見なさい)。1935年以降, 144千人の残りの者は滅び去っており, 今日, 地上 では約9千人だけが残っている。その全員がエホバの証人である。数百万人のエホバの証人の内 144千人の残りの者だけに天の希望があり, 彼らのみが交わりのパンと杯に与れる。
「啓示の書」にある数多くの象徴的な生々しい描写についてもそうだが, 誰が144千人であるかに ついては, 真のクリスチャンの間でさえ, 議論が分かれる。ものみの塔協会の解釈が明らかに 間違いであると, 彼らに示していても, 144千人が証人にも, 当てはまると, 勝手に認める事が 出来る。黙示録 7:4には, 144千人は「イスラエルの子」から成ると言っている。しかし, ものみの塔協会は, ここではクリスチャン会衆が, 「霊的なイスラエル」と象徴的に描かれ, 144千人はすべての国民から集められると教えている。「ユダの部族の中から12千人が証印を 押され, ‥‥ベニヤミンの部族の中から12千人が証印を押された」(啓示 7:5-8, 新世界訳)。 その国を作り上げている12部族の名を上げることよりも明確に, イエスラエルを明言できる方法が, あるだろうか。
証人は, 各部族からの12千人への言及は純粋に象徴的であると主張して 応えるかもしれない。もし, それが本当なら, 12の象徴的な数字(12X12,000=144,000)は 総計でも, 象徴的な数になる筈である。それでも証人は, 144千人を文字の上での数字だと 信じている。再び, 彼らの解釈は矛盾に陥る。
黙示録 7:9
「これらのことの後, わたしが見ると, 見よ, すべての国民と部族と民と国語の中から来た, だれも数えつくすことのできない大群衆が, 白くて長い衣を着て, み座の前と子羊の前に立って いた。彼らの手には, やしの枝があった」。(新世界訳)。1935年に「神」は人々に対するキリストと共にある天的希望の召しは終わったと, ものみの塔 協会は教える。ものみの塔協会はその年, キリストの体の外側に二番目の階級の信者募集を 始めたと言う。その信者たちの希望は, 肉体を持って地上に永遠に生きることである。この 階級の人々は, 黙示録 7:9-17の「大群衆」であると, 彼らは主張する。
これはものみの塔協会が教える最も重要な教理の一つである。数百万人のエホバの証人が, 次の様に確信する根拠になる。
1, 彼らはキリストの体の一員には, ならない。(コリント第一 12:27)。
2, 新たに生まれることはできない。(ヨハネ 3:3)。
3, キリストの天の王国に入れない。(テモテ第二 4:18)
4, 「聖霊」のバブテスマを受けられない。(コリント第一 12:13)。
5, 交わりのパンと杯に与る資格はない。(コリント第一 10:16-17)。
6, イエス・キリストの仲介される新しい契約にない。(ヘブル 12:24)。
7, イエス・キリストへの信仰を通しても, 完全に義とされない。(ローマ 3:26)。
すべての信徒に対して, 新約聖書に概略的に述べられている「神」との関係を信者から奪取する為に, ものみの塔協会はこの「1935年説」を用いる。
1935年の後に募集された二次的な「大群衆」に対して, クリスチャン会衆の入口が, その年に閉じられるであろうとは, 聖書のどこで教えているのか。 どこにもない。ものみの塔の指導者は1935年の変更を紹介する為に, ‘光がきらめいた’ (ものみの塔会長ラザフォードは, 特別な‘神の真理の啓示’を受け取った)と主張する。 彼らには1935年の日付の聖書的裏づけを明示することなど全くできない。聖書に帰らずに, 代わりに彼らはこう言う。
「こうした預言の光のきらめきは, ものみの塔の会長J・F・ラザフォードが1935年5月31日に, 米国の首都ワシントンでのエホバの証人の大会で行なった, 『大いなる群衆』と題する歴史的講演に 人々を備えさせるものとなりました。それは, 神の真理のすばらしい啓示でした!」。 (『ものみの塔』誌1985年3月1日号14頁)。
「1935年頃迄は, その指導の下に天的な希望が 差し伸べられ, 際立ったものにされ, 強調されました。それから『光がきらめき』, 啓示7章9節の「大群衆」の実体が明らかに示されて, 地的希望に強調が置かれるように なりました。」(『ものみの塔』誌1982年2月1日号13頁 )。
どうあろうと, この教えには聖書の根拠はない。聖書は, ユダヤ人の為の古い契約と キリスト教徒の為の新しい契約を詳しく論じている。しかし, 1935年以後の地上の希望を持つ 「大群衆」を集めるための三番目の‘取り決め’を記述していない。
加えて黙示録で証人の引用する聖句は, 実際には大群衆を「み座の前, 子羊の前」(7:9, 新世界訳), 「神のみ座の前」 ( 7:15, 新世界訳)「その神殿で」(7:15, 新世界訳), これらすべて, ものみの塔協会の教えるように地上ではなく, 寧ろ, 天の国に位置する。
事実, 「大群衆が, ‥‥大声でこう叫び続ける。『救いは, み座に座っておられるわたしたちの神と, 子羊とに[よります]」( 7:9-10, 新世界訳)の言及は, ものみの塔の新世界訳の「啓示」に ある「大群衆」の他の箇所の記述の言葉遣いときわめてよく似ている。それは19章にある。 そこでは, 「[神]を恐れるそのすべての奴隷たちよ, 小なる者も大なる者も, わたしたちの 神を賛美せよ」は, 「大群衆の声」によって応えられている( 19:5-6)。そして聖書は, 「大群衆の大きな声のようなものを天に」(1節)聞いたと, 言っている。
一旦, ものみの塔の解釈が間違いだと証明されると, 「大群衆」が本当は何に等しいかエホバの 証人と論争に入る必要はない(それが賢明である)。寧ろ, この重大な点を組織が間違って 教えてきた事実は, 本当のキリストの福音を示す為, 耳を開かせる目的で用いられるべきである。
ヨハネ17章20節から24節にある「父」へのイエスの祈りを読んで提出してもよいだろう。 「わたしは, これらの者だけでなく, 彼らの言葉によってわたしに信仰を持つ者たちについても お願いいたします。‥‥父よ, わたしに与えてくださったものについては, わたしのいる所に 彼らも共にいて, わたしに与えてくださった栄光を見るようにと願います」。(新世界訳)。 イエスの祈りは, 現在の弟子も将来の弟子も, 結局は, イエスの栄光を見る為にイエスと共に いるとする祈りである。その祈りは, 初期の弟子によって残された書物を通して, キリストを 信仰する将来の弟子すべてにも当てはまることを, 証人に示しなさい。(20節)。もし証人が イエスを信仰するなら, ついには天の国でイエスと共にいることを イエスが望んでいると伝えなさい。‥‥証人が1935年の前に入信したか, 後になって入信 したかには関係はない。
「天」か「地」かの議論は詩篇 37:9, 115:16, ヨハネ 10:16, 交わりの議論は, マタイ 26:27を, この問題についてのエホバの証人と実際にあった遭遇戦は 黙示録 19:1も見なさい。
黙示録 19:1
「これらのことの後, わたしは大群衆の大きな声のようなものを天に聞いた。」(新世界訳)。もし, 組織が黒は白だと言うなら, ものみの塔の洗脳に呪われた者は, 黒を白と見ることができる 程に強力である。それが大げさでないことは, 1983年の夏に, 私の家のドアをノックしたエホバの 証人の婦人との出来事に明らかに示される(彼女は, 私が元成員だと分からなかった。 また, そうでなければ, 彼女は私に話しかけなかっただろう)。その会話の経緯はこうである。
リード:あなた方は天国に行く代わりに, 地上で永遠の命を享受するであろう「大群衆」の一員である と信じていると聞いています。それは本当ですか。聖書の中にある「大群衆」について私に 教えてください。
証 人:それは聖書が語っていることです。ここにある黙示録 7:9を見てください。 (彼女は 7:9を読む)。私は大群衆の一員として, 地上の楽園で永遠に生きる事を, 望んでいます。
リード:しかし, 黙示録 7:15の‘大群衆’は, 天にある神の御座の前にいます。違いますか。
証 人:ええ, そうです。神の御座は天にありますが, ‘大群衆’は地上にいます。 全ての被造物は「神」のみ座の前に立っています。[訳者補足]
リード:そうした意味があるなら, 一般的感覚では, み座の前に位置すると聖句に書かれているとは 思えません。黙示録には, ‘大群衆’について書かれている箇所が他にもう一つあります。 ‘大群衆’がどこに立っているか知るために, あなたの聖書の啓示 19:1を読んでみてください。
証 人:いいですよ。「これらのことの後, わたしは大群衆の大きな声のようなものを天に聞いた」 と, 言っています。
リード:‘大群衆’はどこにいますか。
証 人:‘大群衆’は, 地上です。
リード:聖句にそうありますか。もう一度読んで。
証 人:天にいると言っています。しかし, ‘大群衆’は地上です。
リード:聖書はきわめて明確に, 「大群衆が地上にいる」と言っているのに, ‘大群衆’が 地上にいると, どうしてあなたは言えるのですか。
証 人:あなたは分かっていません。私達に聖書を説明している人達が, ニューヨークのブルックリン 本部にいます。彼らなら, 「大群衆」が地上にいることを証明できます。私にはそれをうまく説明 できないだけです。ちょっと待って下さい。
その時, 彼女は通りに駆け出して, 他の証人の女性を大声で呼んだ。その証人は数軒隣にいたが, 助けに来た。その女性は私を元証人と認めたので, 会話はとぎれた。論議の焦点は既に書いてきた。 もし, 組織がそうだと言うなら, 聖書の中の天のことばを見ても, 地上と考える。
ふたりの婦人が玄関から立ち去ったとき, 私は心の中でジョージ・オーエルの小説『1984』記憶が,
速やかに甦った。ぎょっとするような全体主義の描写を思い出した。そこでは「独裁者があなたを
監視している」ことを誰もが知っている。「政党が, 真理だと決めたものが真理だ」。「もし政党が
そう言うなら, 2+2は5だ。4ではない」。事実, ものみの塔協会は, エホバの証人に「二重思考」と
同類のものを押しつける。
(エホバの証人と書籍『1984年』の仮想社会に類似するその他の例は,
「エホバの証人のオウェル的世界」で強調されている)
天と地の質問についてのより詳しい情報は, ヨハネ 10:16, 黙示録 7:9の項を見なさい。その他の 洗脳の例は, マタイ 24:45, コリント第一 1:10, 「著者の証し」の項を見なさい。
[訳者補足:ものみの塔は, 1988年に出版された『啓示の書−その最高潮の時は近い!』という 啓示の書(黙示録)の注解書123頁で「‥‥例えば, ここで, 『の前に』と訳されているギリシャ語 (エノーピオン)は, 文字通りには, 『の見えるところ』という」意味]である と説明している。しかし, エノーピオンの一般的翻訳は, Beforeであり「〜の前」という意味 である。しかし, ものみの塔は, 「大群衆」は, 天におられる神の御座の前にいるが, 物理的な前 ではないという説明の為に, わざわざ「〜の見えるところ」という説明を加えた。偽りの上塗りである。]