「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」
ものみの塔協会は, 「新世界訳聖書翻訳委員会」の匿名者達の働きとして, 『新世界訳』を差し出す。そして委員会の構成員を識別するあらゆる努力に, 抵抗する。 その働きの信頼性は神に帰すからそうしている, と言う。そうした匿名性は, その翻訳にある間違 いや歪曲を翻訳者から保護することにもなると, 公平な第三者はすぐに気がつくだろう。それは, 学者がその信頼性を調査する意図をくじく。事実, 最近ものみの塔本部を脱退した離脱者が, 委員会のだれもが, ヘブル語, ギリシャ語, 或いはアラム語の専門家ではなかったことを明らかにし, 委員会のメンバーを識別した。(聖書は, 元々の原語から翻訳されなければならない。) エホバの証人が‘神の様な存在’と訳すには, 長年にわたり, ヨハネス・グレベールによる新約聖書(1937年版権)の後ろ盾に頼ってきた。グレベールは, 「‥‥ことばは神のような存在」と翻訳したからだ。ものみの塔協会の出版物は, その翻訳などを支えるためにグレベールを次のように引用してきた。
『聖書理解の助け』(1971年出版)1134頁, 1669頁。しかし, グレベールはその翻訳の中でどのことばが用いられるかを, 霊が示したと主張した心霊術者 であった, とする重大な事実を元証人が公表した後, 『ものみの塔』誌1983年7月1日号は次のように 述べた(31頁)。
『全ての事柄を確かめなさい。りっぱな事柄をしっかり守りなさい』(1965年出版。英文489頁), 『ものみの塔』 1962年10月15日号618頁。
「Watchtower」1975年10月15日号英文640頁。
「Watchtower」1976年4月15日号英文231頁。
"The word" -Who Is He ? According to John (ヨハネによれば‘ことば’はだれ, 1962年出版, 5頁)(訳者注:邦訳版なし)。
「この翻訳は, マタイ27章52節と53節およびヨハネ1章1節に関する新世界訳および 他の権威ある聖書翻訳の訳文を支持するために時折用いられていました。しかし, ヨハネス・ グレベール訳の『新約聖書』の1980年版の序文に示唆されているとおり, この翻訳者は難しい くだりをどのように訳すべきかをはっきりさせるため, 『神の霊界』に頼りました。そこには こう書かれています。『彼の妻は神の霊界の媒介として, しばしば神の使者からグレベール牧師に 正しい答えを伝える器となった』。『ものみの塔』誌は, 心霊術とそのように緊密な関係を持つ 翻訳を利用するのはふさわしくないと見ています。(申命記 18:10-12)。新世界訳の中の前述 の聖句の翻訳の基盤をなしている, 古典に関する学識は確かなものであり, その理由でグレベール の翻訳をよりどころにしなければならない理由はありません。ですから, グレベールの『新約聖書』 を用いなくなったことにより失われたものは何一つありません。」組織は, グレベールの心霊術との関係を発見し, 支持するために用いないようにすぐに悔い改めただけ にすぎないと訴えた。しかし, これにもまだ別な誤魔化しがある。エホバの証人組織は, 既に1956年に グレベールの心霊術主義の背景を知っていたから, 『ものみの塔』誌1956年2月15日号英文はヨハネス・ グレベールとその翻訳に反対するよう警告する為に1頁近くのスペースを割いた。その文は「霊界との 交わり, その律法と目的」に言及し, 述べている。「元司祭グレベールが信じている霊は, きわめて はっきりと彼の翻訳の業のうちに働きかけた(『ものみの塔』誌1956年2月15日号111頁, 英文 )。
『ヨハネス・グレベールの新約聖書』とものみの塔協会の歪曲された版の以外の英語版の聖書翻訳は, 「‥‥ことばは神であった」のヨハネ 1:1の翻訳で殆ど一致している。また, ヨハネの福音書にある ように, それはイエスを「私の主, 私の神」(ヨハネ 20:28)と呼んでいる使徒トマスの表現と矛盾 しない。新世界訳は, 今だにヨハネ 20:28, イザヤ 9:6でイエスを「神」と呼んでいる。事実, 『王国行間逐語訳聖書』1985年版は, ヨハネ 20:28ではギリシャ語で文字通りイエスは「神」であると 言い, 明らかにしている。
「‘御子’は‘神のような存在’であるが, ‘御父’が‘神’ である」と信じる者はすべて, イザヤ43, 44章を読むべきである。そこでは霊感を受けた‘ことば’は その様な概念を退ける。「わたしより先に造られた神はなく, わたしより後にもない。わたし, このわたしが, 主であって, わたしのほかに救い主はいない。‥‥わたしのほかに神があろうか。 ほかに岩はない。わたしは知らない」(イザヤ 43:10-11; 44:8)。
キリストの神性, そしてそれを彼らの聖書から隠蔽する為のものみの塔の翻訳者による試みに関する より詳しい情報は, 創世記 18:1-2, 出エジプト記 3:14, 詩篇 110:1, イザヤ 9:6, ダニエル 10:13, 21, ヨハネ 8:57-58, ヨハネ 20:28, ヘブル 1:6を見なさい。
「イエスは答えて言われた。「まことに, まことに, あなたに告げます。人は, 新しく生まれな ければ, 神の国を見ることはできません。‥‥あなたがたは新しく生まれなければならない,‥‥」。このことばがエホバの証人自体の聖書に 出現しても, エホバの証人は新たに生まれなければならないとは, 信じない。「それは, 私には 当てはまらない。それは油そそがれた144千人にだけ当てはまる。私は王国の統治する地上で生きる であろう『大群衆』に属している」。‥‥これがエホバの証人が新たに生まれるかどうか, 問われた 時に応じるであろう典型的な答えである。(144千人と「ほかの羊」の「大群衆」に関する信条について の情報は, ヨハネ 10:16, 黙示録 7:4, 9を見なさい)。組織はエホバの証人に特別に教えてきた。 「『ほかの羊』は, そのような再生をまったく必要としません。彼らの目標は王国の臣民として, 地上の回復された楽園で受ける永遠の命だからです」(『ものみの塔』1986年2月15 日号14頁)。
取るべき最初の段階は, ヨハネ 3:5-15では新たに生まれることについて実際に聖書が何と言って いるか, ものみの塔の聖書翻訳を手にして一緒に読むようにエホバの証人に頼むことである。 「人は, 新しく生まれなければ, 神の王国を見ることはできません」(3節)とイエスが言われた ときに例外を認めなかったことを強調しなさい。
そして, ヨハネ第一 5:1に向かいなさい。新世界訳は, そこでこう言っている。「イエスがキリストであることを信じる者はだれでも神から 生まれたのです。‥‥」。「信じる者はだれでも」の表現に例外があるかどうか, エホバの証人 に質問しなさい。
次に, 証人にはガラテヤ 4:5-6に目を向けさせなさい。そこでは聖書が「わたしたちが養子とされる ことになったのです。では, あなた方は子なのですから, 神はご自分のみ子の霊をわたしたちの 心の中に送ってくださり, それが『アバ, 父よ!』と叫ぶ」(新世界訳)為にキリストが来たと 説明している。そこに書いてある通り, 個人的に心の中に「神の子」イエス・キリストの霊を 受けることによって, 「神」の子として養子になっているかどうか, エホバの証人に質問しなさい。 ものみの塔の教義に一致して, 彼は「違う」と答えるだろう。
最後にローマ8章に向かいなさい。ローマ8章が同じ問題を論じていることをエホバの証人に示して, ま ずエホバの証人の目を14節から16節に向けさせなさい。「養子縁組みの霊」を受けたのであり, 「アバ, 父よ!」と叫ぶのです‥‥それは証人が自分には当てはまらないと言っている箇所である。 肉に従って歩むことと霊に従って歩むことの対照を述べているローマ8章の初めに戻り, 1節から7節 を一緒に読みなさい。今や, あなたは8節, 9節の重要な点を納得させる用意ができている。
「それで, 肉と和している者は神を喜ばせることができません。しかし, 神の霊があなた方のうちに真に宿って いるなら, あなた方は, 肉とではなく, 霊と和しているのです。けれども, キリストの霊を持たない 人がいれば, その人は彼に属する者ではありません。」(新世界訳)。証人が「神」の子とされて新たに生まれても, 内住されるキリストの霊を受けていなかったと認めた ことを, 証人に思い出させなさい。8節と9節に照らして, エホバの証人は「神」を喜ばせられなかっ たし, キリストに属していないとの結論以外に, 到達できるだろうか。
ここに至って恐らく, あなたはエホバの証人と共にローマ8章を再び読み返すことになるだろう。 その文は王国会館の聖書研究で希に触れられることがあるが, 殆どのエホバの証人は, その言わんと するところに目覚めていない。しかし, エホバの証人が最終的にその意味をつかむ時, それは崩す 効果となるだろう。私はそれを直接知った。私がものみの塔協会の中に入った13年後, ついにこれらの 聖句に出会ったとき, 彼らは, 私の足を払いのけんばかりだった。すぐに私は「救い主」の必要性を 認め, 心に「キリストの霊」を受けるよう, 祈っていた。そして‥‥神を, 賛美申し上げます。 ‥‥神は, 私の祈りに答えて下さいました。
あなたが話しかけているエホバの証人が, 祈りもしないで論争に応じても, 落胆してはならない。 私自身の場合では, 魂を求め, 熱心に聖書を読み数週間で, 既に組織を離れるように導かれていた ときに, ローマ8章を読んだ。エホバの証人に変化を生じさせ, それが染み込む為に必要とされる 情報を得る為には, 通常かなり長い時間がかかる(多分, 何ヶ月も, 何年も)。「私が植えて, アポロが水を注ぎました。しかし, 成長させたのは神です。」(コリント第一 3:6)
「しかし, 真の礼拝者たちが, 霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。 父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」エホバの証人は, 家から家の伝道で, この聖句をしばしば用いる。家の人に挨拶した後, 尋ねる。 「神として誰を崇拝しますか。その御名は何ですか」。「主」または「神」と答えるなら, エホバ の証人は「それは称号です。神の御名は何ですか」と応えるだろう。大勢の人は「イエス」と 答えるだろう。そこで証人はヨハネ 4:23を読んで意見を添えるだろう。「あなたは真の崇拝者 ではありません。何故なら, あなたは御子を崇拝しています。聖書は, この箇所で真の崇拝者は御父を 崇拝するだろうと言っています。あなたは御父の名をご存じですか」。そしてエホバの証人は, エホバの名に関する彼らの権威ある論議を示し続ける。
数多くの証人の伝道活動は, これと同じ光景に沿って進む。「御父」(エホバ)だけが崇拝されな ければならないと教え, キリストの神性を否定する。この教義を確かなものにする為に, イザヤ 9:6, マタイ 28:9, ヨハネ 1:1, ヨハネ 8:58-59, ヨハネ 20:28, コロサイ 2:9, ヘブル 1:6などの文(これらの聖句はキリストの神性とキリストを崇拝する 正当性を明らかにしている)を故意に避けて, 聖書を用いて誘導されたツァーに新入生を案内する。
実際, ものみの塔協会の翻訳者は, 『新世界訳』の準備に於いて, ギリシャ語の単語プロスクネォー (崇拝する, 尊敬する, 従順にする, 服従する)を用意周到に翻訳した。 その語句が「御父」に用いられる時は「崇拝」と翻訳し, 「御子」を指すときはその語句を 「敬意をささげる」と訳す。(詳しくは, ヘブル 1:6の項を見よ)。
「御父」は崇拝されるべきことに賛成して, その他の場合でも「御父」の願いに尊重するかどうかを尋ねなさい。自然と エホバの証人は, 「はい, そうします」と答えるだろう。エホバの証人に新世界訳の ヨハネ 5:23を示しなさい。そこでは「御父」は「すべての者が, 父を尊ぶと同じように子を も尊ぶためです‥‥」と求めている。もし, エホバの証人が「御子」を崇拝する誉れを与え ないなら, 「御父」の崇拝は空しい。その箇所はこう続くからだ。「子を尊ばない者は, それを遣わされた父をも尊んでいません」。
創世記 18:1-2, 出エジプト記 3:14, 詩篇 110:1, イザヤ 9:6, ダニエル 10:13, 21, ヘブル 1:6も見なさい。
「きわめて真実にあなた方に言いますが, 人の子の肉を食べず, その血を飲まないかぎり, あなた方は自分のうちに命を持てません。」(新世界訳)。エホバの証人と議論に入るために重要となる聖句である。エホバの証人は, 聖餐を行うことを 拒否することだけではなく, 私達の「主」が, 流した血と磔にされた体を信仰する者全てが至る 新しい命を拒否することさえも教えてきた。キリストの血によって承認された新しい契約を 自ら遮断する。
彼らとどの様にこれを論じるか, その提案の為には, マタイ 26:27, 黙示録 7:9 の項を見なさい。
「イエスは彼らに言われた。『まことに, まことに, あなたがたに告げます。アブラハムが生 まれる前から, わたしはいるのです。』」。(I am)。キリストの神性に関するはっきりとした関係を避けるために, ものみの塔の翻訳者は新世界訳で イエスのことばをこう読むように変更した。「アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。 (I have been)。
「わたしにはまた, この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなり ません。彼らはわたしの声に聞き従い, 一つの群れ, ひとりの牧者となるのです。」一般的に理解されている通りに, もしここでイエスが将来の異邦人の信徒を「ほかの羊」として 呼んでいるなら, 彼の群れは, 全ての国々から信者の世界的な体を包括する時, イエスがユダヤ 人の弟子たちを暗示していることになる。 しかし, ものみの塔協会はこの文章に異なる意味を付け加える。「ほかの羊」をルカ 12:32にある 「小さな群れ」に対比させる。‥‥そこでイエスは言った。「小さな群れよ。恐れることは ありません。あなたがたの父である神は, 喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。 証人の主張によると, 「小さな群れ」はキリストの体を成し, 天国に行くであろう144千人の 霊的に油そそがれた者たちである。一方, 「ほかの群れ」はその他の信者である(地上で永遠の 命を受けるであろう人々)。「小さな群れ」の一員となる機会は, 1935年に終了した。 更に, 作り話は続く。今日, エホバの証人の99%以上の者は自分たちを「ほかの羊」級であると 考えている。
それは, 良く理に適っている様に聞こえる。自分たちを「ほかの羊」と見なす者は, それ故に, 自ら天国から放逐させているだけではなく, キリストによって仲介された新しい契約とキリスト の体の成員への聖書の約束をすべて, まったく許さない事実があるのだが‥‥。
クリスチャンは, 天的クラスと地的クラスとに分けられるとする教理に反論するには, 黙示録 7:4 (144千人の「小さな群れ」について)と黙示録 7:9(「ほかの羊」の「大群集」について)の 項を見なさい。
ものみの塔協会は, 大多数のエホバの証人は勿論のこと, キリスト教信者誕生以前の全ての信者を も地上に希望を持つ「ほかの羊」級に投げ込む。証人は, アブラハム, イサク, ヤコブや預言者 たちが天の国に行かないと信じる。これに対し最も良く答える方法は, ヘブル11章を読むことである。 そこでクリスチャン誕生以前の信仰厚い男女に言及する(族長達, 預言者達を含む)。そこでは「地上では旅人であり寄留者であることを‥‥。彼らは, さら にすぐれた故郷, すなわち天の故郷にあこがれていたのです。‥‥神は彼らのために都を用意 しておられました」(ヘブル 11:13, 16)と言っている。天の故郷はどんな都か。明らかに, ‘生ける神の都’, ‘天にあるエルサレム’‥‥(ヘブル 12:22)である。
詩篇 37:9, 11, 29, 詩篇 115:16, ルカ 23:43, 黙示録 7:9の項も見なさい。
「わたしを愛しているなら, わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも 偉大な方だからである。」この聖句は, キリストの神性に反対するエホバの証人にとっては, 都合のよい聖句である。エホバ の証人はアタナシウス信経から引用して始める。「三位一体においては, それが先でどれが後, どれが大でどれが小ということはない。寧ろ, この三位格はみな, 共に永遠で, 同等である」。 そして彼らはアタナシウス信経の言うように, 「御父」が「御子」と「同等」か, 寧ろ, 「御父」が 「御子」よりも偉大だとしているイエスのことばを読むだろう。
エホバの証人の罠には, はまらないようにしよう。ピリピ 2:6-7に述べられたように, その時に イエスが語っていたことを思い出させなさい。「キリストは, 神の御姿であられる方なのに, 神のあり方を捨てることができないとは考えないで, ご自分を無にして, 仕える者の姿をとり, 人間と同じようになられたのです」。自然に, キリストは「私よりも偉大な方」として「御父」を 語ることができた。「御子」は, 人類の救い主として行動する為に「御使いよりも低くされた」 (ヘブル 2:9)。
イザヤ9:6, ヨハネ 1:1, ヨハネ20:28, 黙示録 1:7-8も見なさい。
「しかし, その方, すなわち, 真理の御霊が来ると, あなたがたをすべての真理に導き入れます。 御霊は, 自分から語るのではなく, 聞くままを話し, また, やがて起ころうとしていることを あなたがたに示すからである。」ヨハネ 16:7-15の全体像は, エホバの証人と「聖霊」の議論に向かう為には, 素晴らしい文章である。 証人は, 「聖霊」を人格を持たない単なる「活動的な力」であると主張して「聖霊」の人格と神性の 両方を否定する。しかし, ここでイエスは「聖霊」を「その方」(人称代名詞)と素直に名指し, 「聖霊」が, 語ったり, 聞いたり, 教えたりすると描いた。(明確な人格の性質の働き)。
創世記 1:1-2, マタイ 3:11, 使徒 2:4, 使徒 5:3-4, コリント第一 6:19も見なさい。
「彼らが, 唯一まことの神であるあなたと, あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての 知識を取り入れること, これが永遠の命を意味しています。」(新世界訳)。ドアをノックし続けるエホバの証人が, 最も頻繁に引用する聖句の一つが, ヨハネ 17:3である。 エホバの証人は, この聖句を二つの異なった方法で用いる。
その第一。数多くの翻訳者が, ギリシャ語を, ‘神’を‘知る’と訳すが, ものみの塔の版では, 「知識を取り入れる」と言う。いわゆる「神」の知識を取り入れる為の「無料家庭聖書研究」を 聞く人に申し出る目的で, この聖句を用いることが証人にとって可能になる。しかし, その申し出 を受け入れる者は, 速やかに, 聖書から「ものみの塔聖書冊子協会」が出版した多数の書籍の一つ に切り替えさせられる。
その後, 証人と研究している人たちは, 「いつも学んではいるが, いつになっても真理を知ること のできない者たち」(テモテ第二 3:7)である。イエス・キリストは自ら, 「わたしは道であり, 真理 であり, いのちなのです。わたしを通してでなければ, だれひとり父のみもとに来ること はありません」と表明された。(ヨハネ 14:6)。証人の頭脳に充満し続ける‘様々な事実’は, 決して‘生ける真理’であるイエスを‘知る’不足分を埋めることはない。
有名な映画スターの映画を全て観て, その伝記物語も読み, 部屋の壁をスターの絵で飾り立てて いる若い映画ファンの状況のようである。しかし, その全ての知識が膨大に蓄積されても, そのスターの 養子となった子供が享受する関係の類になることは決してない。養子となった子供こそ, スターと 親しい関係にある。本当のキリスト教は, 神の子として神の相続人となること, そして本当に神を 知るようになることを意味する。(ガラテヤ 4:4-9, ローマ 8:14-39を見なさい)。ものみの塔の供給 した「知識」が, その関係と等しくなることは決してない。
エホバの証人がヨハネ 17:3を用いる二番目の方法は, キリストが神であることを否定することにある。イエスが「御父」を「唯一のまこと の神」と呼んだことと, 「唯一のまことの神であられるあなた」と「あなたがお遣わしになった イエス・キリスト」を区別したことを指摘する。勿論, 神性のある「御父」と「御子」と 「聖霊」の関係は正当なクリスチャンでもせいぜい「鏡にぼんやり映るものを見る」ことの できる程度である。「主」と共に在る住まいに帰ろうと求める時, そのときにだけ, 「顔と顔を合わせて」見ることになる(コリント第一 13:12)。しかし私達は, 今やものみの塔 協会がヨハネ 17:3をねじ曲げていることを十分, はっきりと知ることができる。
もし, 「唯一のまことの神」としての「御父」への言及が「御子」の神性を剥ぎとる意味を持つ なら, 同じ解釈の原則は, ユダ4節にも当てはめるべきだろう。そこでイエス・キリストは 「唯一の所有者また主」(新世界訳)と呼ばれる。これでは, 「御父」の「主権と所有者」 を, 閉め出すことになるだろう。ユダ4節がイエスを私達の「唯一」の「主」と読んでいても, 証人は, 「御父」を「主エホバ」として語る。そしてコリント第二 3:17に於いて, 「聖霊」は 「主」と呼ばれる。明らかに「唯一」の語の使用は「御父」と「御子」と「聖霊」への言及に 限られる。私達の「唯一」の「主」と呼ばれるイエスは, 「御父」と「聖霊」の持つ主の性質 から除外されないし, 「唯一」まことの神と呼ばれる「御父」は, 「御子」と「聖霊」から神性を 閉め出さない。
創世記 18:1-2, 出エジプト記 3:14, 詩篇 110:1, イザヤ 9:6, ヨハネ 1:1, ヨハネ 10:23, 黙示録 1:7-8の項も見なさい。
「そのためほかの弟子たちは, 『わたしたちは主を見た!』と彼に言うのであった。しかし彼は言った。 『その手にくぎの跡を見, わたしの指をくぎの跡に差し入れ, 手をその脇腹に差し入れない限り, わたしは決して信じない』」。(新世界訳)。 (注意:上の「くぎ」は, すべて複数形で表現されている。)クリスチャンは, 十字架上で亡くなられたイエスを, 否定する証人とこの節を上手く論じる。
ものみの塔の書籍にある「主」の死の描写は, 頭の上で真っ直ぐにイエスの腕が結びつけられたこと を示している。棒に両方の手を押さえつけている1本の釘も描かれてある。何年間も, ものみの塔の 出版物は, 全てその様に「杭」に手を押さえつけている「1本の釘」を用いてイエスの死を描いてきた。 しかし, 聖書は何と言っているのか。1本の釘がイエスの頭上で彼の の両手を固定したのか。あるいは「二本」のくぎが十字架の横木の両端に手を固定したのか。 ヨハネ 20:25では, 聖書は使徒トマスが上述のように語ったことを伝えている。ものみの塔の聖書の 中でさえ, トマスは, 「イエスの手の中の釘」(nails , 複数形)を語った(ものみの塔の描いて いるような1本の釘ではない)。
ものみの塔の指導者がものみの塔の聖書から「十字架」の語句を取り除いてはいても, イエスの手の中 の二つ目の釘を取り除くのは失敗した。彼らの教える作り話の‘杭’よりも, 寧ろ, 十字架刑によって 死なれた証拠を, 保有している。
「それに答えてトマスは彼に言った。『わたしの主, そしてわたしの神!』」。(新世界訳)。そうです。この聖句は実際にエホバの証人の聖書に出現するのです。今はまだそこに存在しているが, 将来の版ではこの聖句は変更されるかもしれない。私達は, キリストの神性について会話する場合, エホバの証人に指摘できる。他の使徒たちよりも長いこと疑っていたトマスではあったが, ついに 「主」や「神」としてキリストを受け入れるにいたった。聖書を読む上でヨハネ 1:1を誤訳した ものみの塔の指導者が読んでいる「神のような存在」としてではない。イエスのことばが示している 「神」としてである。この聖句がキリストの神性を宣告している簡単な事実を認めたがらないから,
この聖句を相手にすることは, 彼らにとって非常に難しいことが分かる。彼らは, 以下の二つのうち のどちらかで切り抜けようとする。
最初に, 大して知りもしないエホバの証人は, こうして見向きもしないかもしれない。「トマスは
驚きをもって叫んでいるにすぎない。もし私たちが死から戻った人を見たなら, 驚いて声高々に,
こう言うでしょう『オー・マイ・ゴッド』と。トマスには, それ以外の意味はない」。
もし, 証人がこの方法を選んだら, あなたは, こう尋ねないといけない。「あなたは, トマスがみだりに「神」の
名を使っていたというのですか。それは冒涜です。きっとトマスはそんなことはしなかったでしょう」。
トマスが言ったことばに, イエスがたしなめている次の句にあることばを指摘しなさい。もしトマスが
みだりに「神」と言ったなら, イエスは, その為にきっとトマスを咎めただろう。その代わり,
イエスはトマスがついに「信じた」ことを認識した。何を信じたのか。イエス・キリストが「主」
であり, 「神」であることである。
二番目の例。更に思慮深い証人は, ものみの塔協会の『聖書から論じる』1985年版, 55頁に示唆された
方法に従うだろう。「これらのことを書いたのは, あなたがたがイエスは神の子キリストであることを信じる
ためでした」(55頁)と言って, ヨハネ20章が結論であると指摘するだろう。
エホバの証人にとっては, 「御父」が「神」であり, イエスが「父の子」である事実は, 自動的に
「御子」は, 神性から外れる。しかし, これは聖書の教えるところではない(下に挙げてある
聖句を見なさい)。
証人はヨハネ 20:17を引用するかもしれない。そこではイエスが「私の神」として「御父」を名指
ししている。イエスは「神」ではないとする, いわゆる証拠としてである。更にヘブル 1:10も。
そこで「神」が「御子」を「主」と呼んでいる。明らかに「御父」も「主」である事実に疑いを
向けずに。
彼らが「神」と呼んでいる「御父」とは対照的に, 証人は「神のような存在」としてイエスに言及 するのであるから, あなたは, エホバの証人に『王国行間逐語訳聖書』(1985年出版)にある ヨハネ 20:28に注目させることが望まれる。ギリシャ語文の下の逐語訳は, トマスが文字通りイエスを 「私の主, 私の神」と呼んだことを示している。
創世記 18:1-2, イザヤ 9:6, ダニエル 10:13, 21; 12:1, ヨハネ 1:1, 黙示録 1:7-8の索引にある 関連した聖句も見なさい。