「ヨハネは水でバプテスマを授けたが, もう間もなく, あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける からです。」マタイ 3:11の項にある同一の考察を見なさい。
「すると, みなが聖霊に満たされ, 御霊が話させてくださるとおりに, 他国のことばで話しだした。」ものみの塔の書籍『楽園』1982年版は, こう述べている。 「『彼らはみな聖霊に満たされ』と書かれています。(使徒 2:4)彼らは人格的なもので 『満たされた』のでしょうか。そうではありません。神の活動力で満たされたのです。 このようにして事実を見ると, 三位一体は聖書の教えでないことがはっきりしてきます ‥‥120人ほどの弟子たちが同時に聖霊に満たされたのであれば, その聖霊がどうして人格的な ものと言えますか」。(40-41頁)。41頁の脚注にある研究する上での質問が尋ねている。 「イエスの追随者たちに聖霊が注がれたことは, 聖霊が人格的なものでないことをどのように 証明していますか」。
このエホバの証人の論議はそうしたことを証明していない。もし, ‘聖霊’が「注がれたこと」が 人格を否定する根拠となるなら, 使徒パウロもまた人間ではないだろう。何故ならパウロは自分を こう書いているからである。「自分が‥‥注ぎ出される」。(フィリピ 2:17, 新世界訳)。 「わたしはすでに‥‥注ぎ出されているのです。(テモテ第二 4:6, 新世界訳)。明らかに実在の 人物である使徒パウロが「注ぎ出される」者として聖書で語られるのに, 聖霊に関する同じ表現が 聖霊の人格に反対する証拠として用いられることは, 到底ありえないだろう。
同様に旧約の預言者は, イエス・キリストを語る。「わたしは水のように注ぎ出され, ‥‥」(詩編 22:14, 新世界訳)。 だからものみの塔の論議に当てはめると, イエスを非人格的な力にしてしまうだろう。 明らかにその論証は, 偽りである。
しかし, 聖霊に‘満たされた’使徒の存在の事柄については どうか。この聖句はエホバの証人の信じていることを支持するよりも, 寧ろ実質的に逆のことを 証明している。文字通り, 「聖霊」は「主である神」自身である。「いっさいのものを, いっさいの ものによって満たす方」(エペソ 1:23)である。新世界訳でさえ, エフェソス 1:23で, 「すべてに あってすべてのものを満たす方」と言及している。全ての使徒を満たしているこの「方」は神の性格を 持たないのか, エホバの証人に問いなさい。
次に, 聖霊は告げられる(使徒 13:2), 証しをなさる(ヨハネ 15:26), 聞いたことを語り( ヨハネ 16:13), 痛みを覚えさせる(イザヤ 6:10, 新世界訳)ことができることを証人に示しなさい。
最後にコリント第二 3:17を読むよう, 証人に頼みなさい。殆どの翻訳は, 「『主』は御霊です」と 述べている。ものみの塔の聖書は「エホバは『霊』である」と言う。明らかに聖書は, 「聖霊」が 神の位格を持つ(「神」自身にほかならない)と教える。
マタイ 3:11, ヨハネ 16:3, 使徒 5:3-4, コリント第一 6:19も見なさい。
「そこで, ペテロがこう言った。『アナニア。どうしてなたはサタンに心を奪われ, 聖霊を欺いて, 地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。‥‥あなたは人を欺いたのではなく, 神を 欺いたのだ。』」エホバの証人にこの箇所を読むように誘いなさい。そしてアナニアが誰を欺いたのか, 尋ねなさい。 ペテロは2回言及している。彼は, 「聖霊」を欺いたのである。彼は, 「神」を欺いたのである。 「聖霊」は, ご人格を持っておられる。(人はどうやって「活動する力」を欺けるのか)。この 神格は「神」であることを表わしている。
あなたは, 証人がこの論点を掴みはじめるまでに証人と2回, この箇所を読まなければならないかもしれない。エホバの証人は, ‘それ’をエホバの 活動する力として「聖霊」を考える習慣があるから, 彼らの頭で, 人格としての「聖霊」の考えを 明確に述べることさえ, 難しい。
一箇所だけではエホバの証人が, 「聖霊」の人格と神性を確信するのに十分ではないだろう。ヨハネ 16:13, ローマ 8:26-27, コリント第一 6:19の項も見なさい。 「聖霊」は「注ぎ出された」かもしれないし, 人々は「聖霊」によって「満たされ」, 「バプテスマを受ける」かもしれないと言って, まだ「聖霊」の人格に反対するかもしれない。 もし, その反対が起きたらマタイ 3:11, 使徒 2:4の項を見なさい。
「ステパノは, イエスに 祈ってはいなかった, 彼は向かい合ってイエスに語っているだけだ, 何故ならイエスを幻のうちに 見ていたからだ」と証人は主張しようとするかもしれない。 その場合には, 文脈を読むように, エホバの証人に頼みなさい。56節の幻は, ステパノが, ユダヤ人 のサンヒドリン法廷の前に立って, エルサレムにいたときに起きた。ステパノが, 天国で「御父」の 右の座に座しているキリストの幻を見たとユダヤ人に告げた時, ユダヤ人は怒りに燃えた。 ユダヤ人たちは審問を打ち切り, 法廷の外にステパノを引き摺りだし, 市中を引き回し, 町外れに運び(57節), 石打ちにした。通常, これだけでも相当の時間がかかった。石打ちの時, 町外れで再びステパノが幻を繰り返し見たと指摘されていない。寧ろ, 聖書が語るように, 彼はイエスに祈っていた。
「聖霊と私たちは, 次のぜひ必要な事のほかは, あなたがたにその上, どんな重荷も負わせないこと を決めました。すなわち, 偶像に供えた物と, 血と, 絞め殺した物と, 不品行とを避けることです。 これらのことを注意深く避けていれば, それで結構です。以上。」
エホバの証人は,
組織の輸血の禁止を支持する為,
旧約聖書の食事の規定とセットにして
この聖句を用いる。
いつも守るべきユダヤ人の血の食用の禁止を,
クリスチャン会衆に
拡大解釈して,
上の箇所を「神」
からの律法とみなす。しかし,
初代教会は使徒の手紙を永遠の掟として扱っているのか。明らかに
淫行は永久に禁止されるが,
手紙に書かれたその他の事柄はどうなのか。偶像に供えられた肉は
どうなのか。パウロはコリント人への第一の手紙でさらに紙面を費やしてこのテーマを論じた。
「偶像の神などはなく」,
「食べなくとも損にはならないし,
食べても益にはなりません」と
指摘している。つい最近,
偶像崇拝を止めた新しい信者にとって,
肉がつまずきの石となる
場合に, そうした肉を食べることに反論した。(コリント第一
8:1-13を見なさい)。しかし,
通常, クリスチャンは「(異教徒の)市場に売っている肉は,
良心の問題として調べ上げる
ことはしないで,
どれでも食べる」自由があり,
近所の異教徒の家庭で「自分の前に置かれる物
はどれでも食べる」自由がある。
(コリント第一
10:25, 27)。
そして偶像に供えられた肉へ言及する使徒
15章の手紙の部分は, 教会に対する永久の命令として見なされてきた筈はない。血についての記述が, 今日でも有効だと 主張する根拠にはならない。しかし, たとえそうだとしても,
聖書は食事について語っているだけ で輸血ではない。食事の掟を取り上げ, 死に瀕している人への救命医療処置を否定する論点に無理 に使うことは, イエスが, 安息日に人を癒したときに怒ったパリサイ派の人々を思い起こさせる。 (ルカ 6:6-11)。1984年に出版された『コンコルド・モニタ−』誌1984年12月8日号の文面は, エホバの証人の長老が病院で末期ガン患者を審問し, 輸血を受けた為に死の床にある彼を 排斥にしたと伝えている。私達は同じことをしているパリサイ人を簡単に想像できた。しかし, イエス様は, その様なことをなさるだろうか。
創世記
9:4, レビ記 7:26-27も見なさい。