Edward Said Memoir

遠い場所の記憶

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すでに破綻の兆しを見せていた世俗的なカイロの環境のなかで、わたしたちと同じように彼らも消滅していく運命だった。わたしたちはみなシュッワーム、すなわちレバント産の両棲的な生きものであり、その根源的な方向喪失感を一時的に癒すため一種の健忘症におちいっていたのである。そのような白昼夢のなかで、手のこんだ、いたれりつくせりのディナー・パーティーが開かれ、上流レストランやオペラやバレーやコンサートが訪問された。
Palestinean Narrative
パレスチナ人による物語

メモワールの意図として第一に挙げられるのは、これが一人のパレスチナ人による生い立ちの記録であり、その背景として描き出された中東の一地域における一つの時代の記録であるということです。「パレスチナ人側の物語が決定的に不足している」とサイードはつねづね主張してきましたが、その不足を埋める作業にみずからも率先して取り組んだのがこの作品であると解釈することができます。

パレスチナ人による物語が欠けていることの背景には、もちろんシオニスト国家イスラエルの成立とパレスチナ難民の発生に始まる、半世紀以上も経った今日でもなお膿を出し続けている根の深い政治問題が横たわっています。この状況、特に一九六七年の第三次中東戦争以降のイスラエルによる占領支配の永続化に大きな役割を果たしてきたと思われるのが、パレスチナ人の声を圧殺し、自らの歴史を語ることを許さないという(シオニストのみならずアメリカ合衆国のメディア全般が荷担している)システムであり、その不正に対する憤りがサイードを政治的な活動へと駆り立てる原動力になってきたようです。<→歴史の承認

物語の欠如が招いたものは、パレスチナ人に対する人間らしい存在としての国際的な認知の欠如であり、その結果、テロリストというレッテルを貼られたパレスチナ人は収奪しても殺してもかまわないかのようなことがまかり通る状況が現出しています。これに対抗するには、パレスチナ人にも同じように歴史があり、破壊によって失われたことを悼むべき社会があったことを示す具体性のある「物語」が提示され、そこに生きた男や女のひとりひとりが何を悩み、何を夢見たかということがパレスチナ人自身によって語られる必要がある。それはまた、つねに他者によって描かれる存在であることから脱却し、自らの言葉で自分たちを主張する力を獲得するという、パレスチナ人のみならずポストコロニアル世界の人々に共通する課題につながるものです。

このような役割を担うものとして、このメモワールでは中東における一つの時代とそこに生きた人々の生の息吹が、時には映画を思わせるような生き生きとした記述で描き出されています。1951年に渡米するまでサイードが子供時代を過ごしたのは、衰退しつつある大英帝国の植民地支配下のカイロとエルサレムを中心とした中東世界でした。カイロでは植民地経済における買弁資本として束の間の繁栄を謳歌したシリア・レバノン系(シャーミー)の人々が「外国人」として擬似ヨーロッパ的な上流サークルを形成していました。文具の輸入販売事業で大きな成功を収めたサイードの父ワーディーもその典型的な存在です。一家がカイロのヨーロッパ租界に構えた住居や、その延長ともいえるレバノンの避暑地における似非田園風の生活は、現地の人々の生活とはかけ離れた人工的なものでした。この「外国人」としてのシャーミー社会の自己欺瞞とさえいえる儚い栄華を、永遠に失われてしまったものへの郷愁をこめて描き出しているところは、じゅうぶんに「物語」の要請に応えているといえるでしょう。

そこにはまた、印象的な人物も数多く登場します。パレスチナ難民の救済活動に奔走するおばのナビーハ、彼女の片腕として献身的に医療を提供したが政治思想を理由に若くして獄中で殺されたファリード・ワッダード医師、次第にレバノンのキリスト教徒右派として政治的偏向を強めていく傑出した哲学者・外交官シャルル・マリク、尊大で鼻持ちならない先輩として登場するシャルフーブ(後のオマー・シャリフ)等々。もっとマイナーなところでも、次第にボケていく年長の友人「大佐」、大戦後に本国へ帰りそびれた一種の戦争犠牲者であるヴィクトリア・カレッジの英国人教師たち、パレスチナの作家・文芸批評家カリール・ベイダスなど忘れ難い人物が「メリーゴーラウンドのように次々と浮かんでは消えていく」。生彩に満ちた人物描写や個々のエピソード のつぼを押さえた的確な語りには、もっとポレミックな著述におけるサイードの明晰な議論が与える快感とはまた別の、小説を読んでいるような魅力があります。

☆ Out of Place -top
☆ どこにも属さない「わたし」 
☆ 周辺性という普遍性
< 『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright 2001 Misuzu>

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