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Edward Said Memoir | 遠い場所の記憶 |
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──メリーゴーラウンドのように、次々に浮かびあがっては消えてゆく学校(そして、それに付随する友人や知人たち)、数知れぬ人生。わたしはエジプト人ではなく、うさんくさいまでに不確かな、よせ集めでできたアイデンティティは慢性的に位置がずれており、これといった特性も方向性も持ち合わせない人物を表象していた。母にはわたしの置かれているむつかしい状況がわかっており、それに同情してくれるように思われた。 (P66) | ||
Always
Out of Place どこにも属さないわたし | ||
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とはいえ、そのようにパレスチナ人の歴史を語るといっても、一方ではそのパレスチナ人のなかにいてさえ浮き上がる徹底的に変種の「わたし」というサイードが存在します。どのような集団や文脈の中に置いても何かがはみ出てぴったり収まらない複合的な素性、つねに周囲との違和感が空気をきしませる「変種」という自己認識が、「背負わされた宿命」から最終的には「みずから選び取った生き方」へと変化していく過程が、このメモワールの第二のテーマとして挙げられるでしょう。 「うさん臭いまでに不確かな、寄せ集めでできた」サイードの複合的なアイデンティティは、単にナショナリティの問題だけでなく、植民地経済のもとに栄えたアラブ・ブルジョワジーという一家の孤立した社会的な位置や、植民地学校で施される教育による疎外感という要素が二重、三重に絡み合って、「救いがたく周囲から浮き上がっている」という意識を彼に植え付けました。 パレスチナ人の両親のもとにエルサレムで生まれたサイードは、アラブ人キリスト教徒(プロテスタント)というアラブの中での少数派に属することに加え、父親が合衆国に帰化していたことから国籍は訪れたこともないアメリカでした。英語とアラビア語という二つの母語を持ち、さらにはフランス語も含めた三つの異なる言語環境(ひいては文化)のはざまに育ち、幼年時代は一族の住むパレスチナ、父が事業を営むカイロ、避暑地レバノンという中東の三つの土地を棲家として交互に行き来していました。これらの土地はそれぞれに異なる理由からではありますが六〇年代にはいずれも彼には閉ざされてしまい、ある意味で彼は帰るべき郷里を失ってしまいます。このような地理的分散やアメリカ国籍を考えると、郷里(home)という言葉が(後年になって自発的にパレスチナ運動に入っていく前の)彼にとって何を意味していたかは複雑です。自分の帰属する場所(home)は母のいる場所であるとサイードは考えていたようですが、彼が結果的にとどまり続けることになる「観念的」祖国アメリカは母親の住むところではありませんでした。このような人物にとってネイションとはいかなる意味でも自明 ではありません。 このような少数派の中でも少数派という素性の上に、カイロやレバノンにおける人工的で過保護な生活による孤立感が加えられます。カイロでは、斜陽の旧植民地帝国イギリスと、それになり代わって影響力を強めていく新興植民地帝国アメリカという構図を背景に、アメリカ国籍のアラブ人資本家である父ワーディーの事業はめざましい発展を遂げます。故郷パレスチナから切り離され、ヨーロッパ租界ザマーレク地区で営まれた核家族のみの孤立した生活をサイードは「巨大な繭」に子供たちを住まわせておこうとする営みにたとえています。現地のエジプト人にとっては「外国人」であり、支配者であった欧米系の人々からは「アラブ」とみなされるという、どちらにも属さない中間的な存在。レバノンの避暑地ズール村における生活も、これと同じように現地の共同体からは浮き上がったものでした。後年になるとシリア・レバノン出身者のサークルが拡大し、一家の社交活動も盛んになるのですが、エジプトにおける革命の進展とともに現地に根をもたないこの「外国人」サークルは四散・消滅する運命でした。 サイードの両親が子供たちに膨大な費用をかけて最高の教育を施そうとしたのは、このような根無し草の繁栄に将来を託することはできないという認識、財産よりも技術や教育を通じて子孫の将来を確保しようというレバント人気質からだったようです。そこでサイードは完全な英米系のエリート教育を受けることになるのだが、植民地学校で施された宗主国中心の考え方に基づいた教育はアラブ人子弟であるサイードには疎外感を与えるものでしかありませんでした。英国系の学校における被支配民に対する剥き出しの侮蔑に辟易させられただけでなく、米国系の学校においても現実の日常生活と「観念的祖国」の生活とのギャップが疎外感を助長します。彼が始めて「仲間意識」を持つことができたのは、ヴィクトリア・カレッジというパブリックスクールを模した植民地エリート養成のための英国教育機関においてでしたが、ここでは生徒たちが、自分たちを「生まれつき劣った人間素材」としか見ない英国人教師に対し「アラブ」として結束して反抗していたのです。このときの体験が彼のなかに教育を通じた英国の植民地支配に対する反抗心を植え付け 、そのようなシステムの中に彼が看破したものが後年の著作『オリエンタリズム』において見事に展開される文化と帝国主義支配の緊密な関係についての議論へと発展していったのは間違いないでしょう。 しかし、完全に英語文化のなかで教育されたエドワードにとって、このことは自らの知的バックグラウンドに反抗するということを意味しました。人一倍知識欲の旺盛な少年にとっては大きな矛盾であったでしょうが、権威の命ずるままに学ぶことを拒絶する態度は「頭は良いけれど仲間を扇動して教師を悩ます」手におえない問題児を生むことになります。一度はヴィクトリア・カレッジで放校処分を受けるところまでいき父母を心配させたサイードですが、高等教育を受けるため渡米した後は、アメリカ式教育システムのなかで本来の能力を肯定的に開花させることができるようになり、最終的には研究者としての生活に自分の道を見出していきます。 このように救いがたく周囲と異なる自分を抱えた少年は、どこにいても異質な存在であることが当たり前の生き方になり、どこかに帰属しているということに逆に居心地の悪いものを感じるようになっていきます。渡米後は、エジプトやレバノンにおいて「外国人」ブルジョワの居場所がなくなったことも手伝って、中東で過ごした過去はサイードの生活から消えていき、彼は比較文学の研究に没頭する。その彼を大きく変えたのが、一九六七年の第三次中東戦争でした。アラブ側が大敗北をこうむったこの戦争によりイスラエルの占領地域は拡大し、さらに多数のパレスチナ人が難民となります。「この年以降、わたしは別の人になった」というサイードは一転して積極的に政治活動を開始し、パレスチナ側のスポークスマンとしての役割を引き受けます。ここで彼がパレスチナ運動に入っていったのは自己の難民体験からではなく、むしろそれ以前に培われた徹底的に「周辺的」な存在としての感性が、「失われた祖国」としてパレスチナの大義を引き受けるという形で見事に合致した表出の方向を見出したと見るべきでしょう。このような転換の背景として、本書にもほのめかされているように、一九六七年以 降は合衆国においてパレスチナ人の物語に対する組織的抑圧が強化されていったという認識が大きく作用していたということも、第一のポイントとの関連で指摘しておきたいと思います。 しかし、パレスチナ人であることを引き受けることがパレスチナ人のナショナリズムを無条件に推進することではないということは、先に述べたような徹底した周辺的存在というサイードの自己認識に照らしても明白でしょう。助長するのではなくむしろその毒素を中和するために、一方の「物語」が他方の「物語」を圧殺する不正を許さないために、ナショナリズムに対するアンビヴァレントな姿勢を保ったまま、「別の側から見た物語」を語っているのです。 後年に起こったこのような転換を暗示しているのが、メモワールの中で何度も形を変えて登場する「内部のわたし」の出現というパターンです。普段の彼は「エドワード」という、他者から押しつけられた自我、批判に曝されやすく、規則を守ろうと一生懸命にもがいている「わたし」を演じています。しかし、この「エドワード」が降参してしまったようなとき、彼を押しのけて内部にまどろんでいたもう一人の「わたし」が表に出てきます。このもう一人のわたしが、与えられた役割をこなそうとして疲弊し、磨り減っていく「エドワード」の後を引き受け、最終的にはみずからの選択によって「異質な存在」であることを肯定して生きる道を切り開いていこうとするのです。 ☆ Out of Place -top ☆ パレスチナ人によるNarrative(物語) ☆ 周辺性という普遍性
< 『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright
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/Last modified: 25/01/2001