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シャルル・マリク | 遠い場所の記憶
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シャルル・マリクが偏向したカリスマ的存在として浮上してきたのも、この時期である。彼は前駐米レバノン大使や母の近親エヴァの夫であったばかりでなく、シャムウーン内閣の外務大臣であり、ダレスに米軍の派遣を要請するという決定の過程に直接にかかわっていた。さほど大柄ではなかったものの、彼は並々ならぬ威厳と重みを漂わせており、そのことが教師として、外交官として、政治家としての彼のキャリアに大いに貢献した。彼はよく響く声を持ち、明白な自信家で、主張が強く、異常に人を圧倒する力のある人物だった。そのことが、わたしには最初は魅力的に映ったが、後には次第に厄介に感じられるようになってきた。一九七〇年代になると、彼は──うちの母の(そして彼自身の妻の)ズールの親戚や友人の支援のもとに──反アラブ知識階級の急先鋒へと変身し、アラブや中東イスラム世界一般に対する最大の偏見と矛盾に満ち相容れぬものすべてを象徴し、公然と発言するようになった。彼が公務の道に入ったのは一九四〇年代の後半、国連におけるパレスチナ問題についてのアラブ側スポークスマンとしてであったが、そのキャ
リアを締めくくったのはレバノン内戦のさなか、パレスチナに敵対する立場からレバノンのキリスト教徒とイスラエルの同盟を結成させた立役者としてであった。マリクの知識人として、また政治家としての軌跡を振り返ってみると、自分が彼の年若い崇拝者として、友人として、親戚として、同じ社交集団の常連としてかかわってきたという事実にもかかわらず、わたしはそこに知識人としての自分の人生における大きな反面教師を見出すのである。ここ三十年ほどの間、わたしは彼が示した手本に何度も何度も向き合い、みずからそれを体験し、分析し、そのたびに大きな遺憾の念と困惑と底知れぬ失望を味わってきた。 わたしが初めてマリクの存在を意識するようになったのは大戦中のカイロで、そこには夫と死に別れた彼の母が住んでいた。当時彼はベイルート・アメリカン大学の哲学教授で、わたしの母のいとこエヴァの夫だった。彼はうちの両親にかなりの愛着を持ったようで、マリクから聞いたところではうちの父から初めてのタイプライターを贈られたそうだ。休暇になるとナザレの母の実家に帰省してくるエヴァは、情愛の豊かな均整のとれた体つきの女性で、強い個性を持っており、大きな年齢の差にもかかわらずわたしとはすぐに親しい友情で結ばれるようになった。当時この夫婦にはどことなく無邪気で荒削りなところがあった。彼には北レバノンの村の強いなまりがあり、そこにヨーロッパ人の使う英語の仰々しい響きが、彼の豊富な(わたしには身のすくむような)教育体験の名残として混入していた。一九三〇年代にフライブルグ大学でハイデガーに師事し、その後ハーバード大学でホワイトヘッドに学んだマリクは、すでに「聖なるシャルル」というあだ名を頂戴していたが、そこにほのめかされていたのは彼の優秀だけでなく、その宗教的な傾向でもあった。ギリシャ正教徒の家庭に生まれたマリク は、心情的にはローマ・カトリック(通っている教会はマロン派)であった。エヴァは、信念の固いプロテスタント牧師の孫娘だったが、シャルルと結婚してからカトリックに改宗し、妹のリリー(うちの母が親戚じゅうで一番親しくしていた)もそれに倣った。 レバノンの国連大使としてレークサクセスに赴任した後、マリクは合衆国に対するレバノン全権大使という役割も引き受け、後には米国駐在大使となった。エヴァの父親のハビーブが何人かの子供たちと一緒にズールに避暑にくるようになって、マリク家もそこに家を確保しワシントンを離れて数週間の休暇をそこで過ごすようになった。わたしは彼らの存在に強く惹きつけられた。ズールの救いのない過疎的環境のなかで、彼らの家、シャルルの会話、おばさんの明白なわたしへの好意などは、思想や信仰に関する重要問題、道徳、人間の宿命、ありとあらゆる領域にわたる作家たちなどといったものに対するわたしの渇望に油を注いだ。「一九三〇何年だったかに、ナイル川の土手に座って、ハーディーとメレディスの作品を全部読破した。ついでに、アリストテレスの『形而上学』やアクィナスの『神学大全』も読んだけどね」。その当時、わたしの周りの人間でこのようなことを話す者はいなかった。わたしが十二歳のとき、マリクが彼のベランダに座り、霧に包まれたシュウェイル渓谷を見下ろしているのを見かけたときのことを思い出す。彼の手には大きな学術書があった。「クリュソストモスの聖 ヨハネスだよ」と、本をよく見えるようにかざして彼は言った「素晴らしく明晰な思想家だ、ドゥンス・スコトゥスなどとは大違いだ」。書物や思想についての彼のコメントに妙にからかうような響きがこもっているのに気がついたのは、ちょうどそのころの話である。彼には人名や書名をそれとなく口に出す癖(当時のわたしには大歓迎だった)があり、わたしはあとからそれらを探し出し、じっくり読んでみた。だがまた彼には、短い警句やランク付けや単純化するような疑問を乱用するところもあった。「キルケゴールは偉大だよ。だけど、彼は本当に神を信じていたのかな?」。「ドストエフスキーは偉大な小説家だ。だって彼は偉大なクリスチャンだったからね」、「フロイドを理解するには、四十二番街のポルノショップへ行ってみなくちゃだめさ」、「プリンストンはハーバードの二年生たちが週末に遊びに行くカントリークラブさ」。おそらく彼はわたしがまだ未熟すぎ、ハイデガーやホワイトヘッドと彼らの大学で渡り合ったときに交したと彼が示唆するような刺激的な議論にはついて行けないと感じたのだろうが、同時にまたどことなく恩着せがましいところの混ざった、導き指導してやろう という教師根性もうすうす感じられたのであった。 ナーセル時代の初期、マリクはこの人望ある指導者の改革に対するわたしの熱意を彼に話すように促した。わたしに言いたいことをすべて言わせた挙句に、彼は希望を挫くようなコメントを加えた。「いまの話は、面白かったよ。エジプトの国民一人あたりの収入はいま年間八十ドルだ。レバノンは九百ドルだ。もし改革がすべて上手くいき、すべての資源が計画的に配分されたとしたら、エジプトの平均年収は二倍になるだろう」。シャルルおじさん(わたしたちは、彼をこう呼んでいた)からは、教理(ドグマ)というもの、すなわち無条件の真実や反駁できない権威の魅力を学んだ。彼からはまた、文明間の対立、東西両陣営の戦争、共産主義と自由、キリスト教とそれ以外のすべての劣った宗教などについても学んだ。ズールでわたしたちに話しただけでなく、彼は実際にこうしたことを世界の舞台で定式化しようとする動きにも中心的な役割を果たした。エレノア・ルーズヴェルトと並んで彼は世界人権宣言の作成にかかわっており、グロムイコ、ダラス、トリグヴィー・リー、ロックフェラー、アイゼンハワーなどのような名前が彼の話にしょっちゅう顔を出した。だが同時に、カントやフィヒテや ラッセルやプロティノス、そしてイエス・キリストなどの名前も同じように頻繁に登場した。彼は驚くべき言語の才能を持っており、英語、アラビア語、ドイツ語、ギリシャ語、フランス語などはすべて優秀な、実際に使える道具であったが、特にはじめの三言語に関しては明らかにずば抜けた能力を示した。もじゃもじゃと嵩張った黒髪、鋭い眼光、鷲鼻、恰幅がよく、威勢よく闊歩するこの人物は、ためらいや気後れなどとは縁のない様子で、常にその場を支配した。四〇年代から五〇年代にかけて、マリクの確信に満ちた精神と堅固な力、永遠のものに対する消えることのない信念がわたしに希望を与え、「トルストイが同じ世界に生きているということを知ってから、前よりはよく眠れるようになった」というゴールキーの言葉を思い起こさせた。 国際関係の表舞台におけるマリクの地位は上昇に上昇を重ねたが、彼とエヴァはいつもズールに戻ってきた。この村はハイデガーの言うところのハイマート(故郷)のようなものだったが、マリクにとってはまた、この地は世俗的なレバノンの単純さを体現するところでもあった。彼はいつも、うちの父に対する永続的な賞賛と愛着と思われたものを保ち続けていた。「あれほど純粋にビジネス一徹の人を、わたしは見たことがない。驚くほど豊かなビジネスに対する勘を持っている」と、彼はかなりの驚きと謙遜をこめて父のことをわたしに話したことがある。彼の意味するところは、うちの父は本当に優れた実業家だが、それ以外のなにものでもないというほのめかしだったと、わたしは後に考えた。もしかしたら、誤解しているのかもしれない。しかし、わたしはシャルルと父が、まばゆいばかりの星明りの晩に、ズールのわが家のバルコニーで交わしてた印象的な会話を面白く聞いたことがある。「あの星たちと地球との距離を、彼ら(科学者のことであろう)はどうやって決めるのだろう?」と、父は大きな声で疑念を口に出した。「シャルル、君は知ってるかい?」。「ああ、簡単なやり方さ」と、 この哲学者は答えた「地球上のどこか一点を決めて、その角度を差し引き、距離を計算するのさ」というのが、即座に返って来た、やや煙に巻くような回答であった。子供だましだ。父はそれでは満足せず、驚くべき計算の才能──少なくとも計算の背後にある公式についての──から激しい異議申立てにかりたてられた。「いや、いや、もっと正確な話をしているんだ。どの角度で、どこから測定するんだ?もっと細かい説明があるはずだろう?」 その場にいた誰もがしんと静まり返った。父が権威に対して尋常ならぬ挑戦をつきつけたとでもいうかのようだった。 マリクの顔に困惑が宿り、この小さな商売人はいったい何が言いたいのだろうとでもいうように、あまり感じのよくない苛立ちが走るのが見て取れた。だが彼は、父の純粋な興味からわいた疑問に答えを用意することができなかった。こけおどしを述べても始まらない。ここはひとつ、話題を変えてベルジャエフについて話そう。十五年後、父の葬儀の日の朝、彼はわたしたちのベイルートの家をたずねて敬意を表したが、実際の葬儀には参列しなかった。「教皇使節と大切なランチの約束があるんで」と、彼はわたしに説明するように言った 。 だが、彼が政治に深入りするに連れ、かつては他の者を改宗させるほどの影響力を持った彼の精神的な力が政治的に逸脱し、キリスト教国家としてのレバノンという考え(多数の宗派が存在するレバノンでは、あくまでも「考え」でしかあり得なかった)も、完全にアメリカの傘下に入ったアラブの一国家としてのレバノンという考えもどちらも受け容れられないという人々に対し、偏見と恨みを抱くようになっていった。大学で教えていた初期の頃は、彼は素晴らしい教師であり講師であったに違いない。彼の義理の妹リリーから聞いた話では、ハーバードからベイルートに戻った後、彼はまったくの独力で話題を高尚なものへと引き上げ、真理や理想や美や善についての議論へと発展させていったそうだ。四〇年代に彼の教えを受けた学生のなかに、わたしの従兄弟ジョージがいた。彼は当初、実業家としての道を歩むことになっていたが、十年後にすべてを投げうってカトリックに改宗し、スイスのフリブールに移り、同じような志をもつ数人のマリクの門弟たちとともに、その地において、ムスリム世界に戻りキリスト教への改宗を勧める用意のある信心深い男女の集団居住地を建設することを目指した 。この人々は彼らの崇高な使命をいまだ果たせぬまま今日もまだスイスにとどまっているが、かれらの存在は知識人としてのマリク(その目標は、聖書的な意味で、現世のものではなかった)の影響力の強さを証明するものである。わたしとて、その影響を受けていないわけではなく、彼がわたしに紹介してくれたものの見方や観念だけでなく、彼が携わってきた精神的・哲学的な探求の高潔さに影響されたところも大きい。後者はわたしの正規の教育にも生活環境にも完全に欠落していたものである。ズールでのマリクの打ち解けた、半ば家族のような存在によって、わたしは自分がそれまで知的に傑出した教師に出会ったことがないのだということを思い知らされた。そのような活性的な存在としての時代が終わり、それに取って代わるように、これまでの開放性や勇気や思考の独自性となどとはまさに正反対の、相容れないものが表面化してきたのは、いつのことだったのだろう? ズールが、純粋な田園生活というものの狡猾な、究極的には偽りの具現化であったことがわたしたち全員を堕落させ、この村の不毛な密度の低さ、管理された素朴な生活、キリスト教徒の一体性の強要などが、後年この村自体やマリクが政治的な急進主義に走ったことに何らかの役割を果たしたに違いないとわたしたちに信じ込ませたのではないかと、わたしは疑うことがある。しかし同時に、夏の数ヶ月間この土地が約束してくれた、世界からのまどろむような撤退は、それ自身のアラブとのかかわりの否定でなはかったかとも考える。植民地時代はとうに終わり、自分たちの周りで何が起こっているかを忘れてヨーロッパの避暑地をモデルにしたイミテーションのような生活を送ることができると、わたしたちは集団的に考えていた。うちの両親は、わたしたちのカイロにおける繭の複製をこのレバノンの山中に作ろうとしたのである。パレスチナ・アラブ人キリスト教徒アメリカ人という、歴史によってばらばらに分解された破片の寄せ集めでできたわたしたちの身分を考えれば、そのことで誰が彼らを責められようか。わたしたちの風変わりなひびだらけの存在が分解しないようにつなぎとめているのは 父の事業の成功だけだった。それに支えられて、わたしたちは、半ば現実離れした、安楽な、しかし傷つきやすい周辺的な存在としての生活を享受することができたのである。王政廃止後のエジプトの動乱がこの国をわたしたちには住みえないものにしてしまったとき、どこへ行ってもわたしたちにはその影響がつきまとい、ズールとてもその例外ではなかった。そこではマリクがわたしたちの最初の抵抗のシンボルとなっていた──レバノンのキリスト教系住民は、アラブ民族主義との協調を拒否し、冷戦構造の中で合衆国の側に与することを明確に打ち出した。ナーセルの感動を煽る説教に対し、心酔して同調するのではなく、一切妥協せずに戦い抜くことを決意したのである。 いま思い出しても不快極まりないが、一九六七年の戦争におけるアラブ側の惨敗によってわたしは大きなショックを受け、その決定的な年の十二月、シャルルおじさんとエヴァおばさんを尋ねて、彼らの威圧するように大きな継ぎ目のない構造の家のあるベイルート北東郊外の丘の中腹にあるラビーイエRabiyeという村へ車を走らせた。彼らはこの家で、長年にわたって貸家や大使館やズールで借りたさまざまな住居のような仮住まいを転々とするあいだに蓄積された書物や家具や書類の山を保管する場所をようやく確保したのであった。新雪が道を覆い、空は暗く、風は刺すように鋭く、あたり一面が不機嫌で無愛想な雰囲気に包まれていた。わたしは自分の用向きについてあまりはっきりした考えがなく、ただぼんやりと、シャルルに「表に出て」アラブたちがこの信じ難い敗北から立ち直る手助けをして欲しいと要請するつもりだった。おそらく馬鹿げた考えだったのだろうが、そのときには試してみる価値がありそうに思えたのであった。だが、わたしが予想もしていなかったのは、彼のいつにない消極的な返答だった──もう自分の時代ではないし、自分に演じるべき役割があるとは思えない、自分が 政治舞台に戻るには何か新しい事態が起こる必要がある。わたしはこれにショックを受け、ものの見方や現実への関わり方についていまも信頼を置いている人物が、自分には一般的な必要性と思われた抵抗と再建という前提を共有していないということに愕然とした。レバノン内戦のあいだ、マリクはキリスト教右派の知識人指導者の一人となった。彼が一九八八年に亡くなってからもうだいぶ経つが、それでもまだわたしは、わたしたちを引き離すことになったイデオロギー的な断絶に大きな後悔を覚える。巨大で複雑な大渦巻きをなすアラブの政治状況がわたしたちを最終的に仲たがいさせ、ふたりのどちらも、その結果としてのみるべき肯定的な歴史や経験をほとんど残せなかったということは慙愧に耐えない。 わたしたちがズールで過ごした年月のなかに、一九七五年に始まり、公式にはおよそ十七年後に終わったレバノン内戦の不毛な荒廃に導いた諸要素を読み取らずにおくのは難しい。何十年にもわたってレバノンを引き裂いた相容れない宗派や政治思潮の複雑さから隔離されて、わたしたちは、底知れぬ淵を控えた絶壁の縁をよろよろと進む偽りの牧歌的な生活を送っていた。だが、それにもまして奇妙なのは、父がズールに対し、ナーセル統治下のエジプトで次第に面倒が多くなってきた事業活動からの避難所であるという思い入れを抱いていたことである。死期が近づいていた一九七一年初期、父はズールに葬って欲しいという希望をわたしたちに伝えた。だが彼の遺志がかなえられることはなかった。父の願いを叶えてやるための、ささやかな一片の区画のため、わたしたちに土地を譲ってやろうという住民は一人もいなかった。彼がこの村に捧げてきた年月も、村の共同生活への多大な物質的貢献も、土地の人々や風土に対する彼の愛着も空しく、いまだに彼は遺体を引き取るにはよそ者すぎると見なされていたのである。わたしたちが享受しているつもりだった理想化された牧歌的生活は、この村の集団 的記憶の中ではいかなる現実の地位も与えられていなかったのである。
『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright
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/Last modified: 25/01/2001