ラダイトからボルサまで

~労働組合運動の地域的&産業的組織の
国際的経験と原理を探る~
インターネット無料公開への序文
目次 はじめに

 

第1章:タテとヨコの組織関係の国際的相違
第2章:労働組合運動の発祥地…イギリスの場合
第3章:地方的ヨコ組織からの出発…アメリカの場合
第4章:革命の落とし子・ブールスは生き残った
第5章:商工会議所vs労働会議所…イタリアの場合
第6章:現代をリードするヨコ組織…CGILとカメラを典型に
第7章:意外史の分岐点…ロシア革命と社会主義国の労働組織

2007.12.4カウンター変更(1553)2016.09.02カウンタ変更(2499)

第2章:労働組合運動の発祥地~イギリスの場合
(分割掲載1)

分割掲載版は2008年6月の訂正が未反映です。第2章一括掲載をご覧ください。

(分割1)1.史上初の団結禁止法との対決
(分割2)2.遠い親戚より近所の他人、3.ヨコ組織と一般組合の発達史
(分割3)4.トレイズ・ユニオンの複数形、5.ワン・ビッグ・ユニオンの理想
(分割4)6.労働組合評議会、7.ワーカーズ・ユニオン、8.TUCからの排除

1.史上初の団結禁止法との対決

  フォスターは、「資本主義はイギリスに生まれたが、さらにまた近代労働者階級と労働組合もその地に誕生した」(注5)と記している。ここではさらに、最初のヨコ組織も、イギリスで生まれたと言うべきであろう。

注5:『世界労働組合運動史』(W.Z.フォスター、塩田庄兵衞他訳、大月書店、1957.Outline History of World Trade Union movement, William Z. Foster, New York, Internmational publishers, 1956. 上巻、p.25)

 しかもこの最初のヨコ組織は、やはり人類史上はじめての労働組合弾圧立法との対決のあなかで、その基礎をあたえられたものであった。
 ウッブ夫妻は、大著『労働組合運動の歴史』(注6)のなかで、労働組合運動の前進に対抗する弾圧立法との関係を、つぎのように要約している。

注6:『労働組合運動の歴史』(シドニー&ビアトリス・ウェッブ共著、荒畑寒村監訳、日本労働協会、1973.原著:Histry of Trade Unionizm, Sideney and Bestrice Webb.旧版・1894.新版・1920)。ウッブ夫妻は、後の労働党の理論的指導者。この大著への批判も、いくつか出されているが、いまだに、これを超える労働組合運動史は現われていない。

「18世紀の中頃から、下院の議事録は、たいていの熟練職業に雇職人の組合が存在していたことを知らせる、請願と反対請願でいっぱいである。そして決定的に、われわれは、特定の産業における団結禁止法の着実な増加から、そしてあらゆる団結を禁止した1799年の包括的な法令でそれが絶頂に達したことから、組合運動の広汎な成長を推定できるのである」

 続く1800年には、一般団結禁止法として知られる弾圧立法も完成した。労働者の団結と行動は、すでに普通法で規制されてきたのであるが、特定の産業についての立法の段階を経て、あらゆる団結が禁止される時代になった。ウェッブ夫妻は、この1800年法について、「重大な新機軸を象徴するもの」という表現を使っている。時代的背景については、1776年のアメリカ独立革命と革命宣言、1789年のフランス革命に発し、19世紀の中頃まで続く世界的なブルジョワ革命の波を配置して見なければなるない。イギリス自体のブルジョワ革命は、1644年の名誉革命で一応の形式を踏んだのであるが、1800年に前後する産業革命の一大発展の中で、日の没することのない世界帝国にふさわしく、再整備を迫られていたものである。

 1800年法は、その点から見る時、一般的な政治活動への弾圧、つまりはフランス革命の影響を受ける動きに対しての、先制攻撃をも含んでいたといえる。それは、雇主たちの団結をも禁ずることになっていたのだが、雇主たちが労働者に対抗するために団結した場合には、全く規制は行われなかった。また、すでに未来の労働貴族のさきがけをなしていた熟練手工職人の穏健な同職クラブに対しても、何らの咎めもない場合が多かった。

 一般団結禁止法は、まさに、一般的な団結(注6)へと向かう労働者の動きを、強権の下に踏みにじるものであった。しかし、この立法と同時に、かえって、この立法の趣旨と運用に歯向かう運動が巨大化していく。散発するストライキ、政治的暴動、挑発、スパイ、あらゆる種類の政府の密偵、裏切り、投獄、虐殺、貧困と悲惨の中から、非公然組織としてのラッダイトが代表的な姿を示す。

注7:「一般的」(general)は、「すべて」の意味であって、この場合にも、すべての労働者の組織化を意味する。後に一般労働組合運動などの表現がなされるのも、この意味であって、具体的には、職業別組合(craft union)とは根本的に異なる出発点なり主張なりを、最初から表明していた組織である。

 ラッド王の秘密の指導の下に戦うと称する組織は、1811~1812年の間、イングランド各地に飛び火のように燃え広がった。この時期には、特に、織物機械の破壊が中心であり、掛枠編み物工の闘争に起因するもののようであるが、すでにウェッブ夫妻が強調するように、「むしろいずれかの一つの職業の職工ではなく、あらゆる種類の賃金労働者の広汎な、秘密の宣誓でしばられた共謀であった」。そして、闘争資金も、煉瓦積工、石工、紡績工、織物工、さらには地方連隊の兵士からさえ拠出されたのである。

 第二次の機械打ち壊し運動は、1815~1816年、再びイギリス全土を覆い尽くしたが、この際には特定の機械ではなく、工場制度全体が破壊の対象となった。

 ラッダイト型の闘争組織は、しかし、一つの頂点であった。当時の新産業たる繊維・製鉄・鉱業の全分野にわたって、頑強なストライキ闘争が行われ、しばしば軍隊の出動を伴う暴圧を受けていた。そして、これらの闘争もやはり、幅広い賃金労働者の支援の下にあった。わずかに残る当時の組合文書は、1810~1812年の3年間に、ロンドンの金箔職組合が14の他の職業組合に200ポンドの大金を貸与していた例、1823年に、ある綿紡績工の組合が28都市の25の同職組合からカンパを受けていた例を、生き生きと伝えている。しかも、そのような広汎なカンパ活動に支えられて、団結禁止法に挑む裁判闘争さえ行われていたのである。

 1824年には、ついに団結禁止法が撤廃された。ウェッブ夫妻は、「地方的職業の合同委員会をつくろうとするこの傾向」と言う表現を用いているが、団結禁止法の撤廃に当たっては、以上のような激しい闘争を通ずる階級的連帯感の高揚があり、ヨコ組織形成への動きが、「非常に強化されたのである」。労働者は、請願の特別委員会に、いろいろな職業を代表する証人を合同で送り出したり、弁護料やストライキ資金を集めたり、後の労働評議会につながる活動をすでに、ごく当たり前に、実行していたのである。

 以上で1.は終わり、「2.遠い親戚より近所の他人」に続く。

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