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ドアに背中を向けて立っていた男が、奇妙なほどゆっくりと首を回して振り向いた。
「あっ。瀬高さんじゃないですか」
智樹は驚いていた。瀬高は山城総研の専務で、親会社の山城証券の常務取締役を兼任していた。智樹が手がける極秘の調査では常に最高責任者だった。山城総研の仕事では、最も近い間柄だといって良い。
「ああ、君か。影森君か」しゃべり方も異常にゆっくりしている。
瀬高は呆然とした表情のまま、ソファに崩れ落ちた。腰が抜けた感じだった。
「大丈夫ですか。お怪我は」
「いや。私はどこも怪我していない」
「銃声は2発でしたが」
「良く見たまえ」瀬高は両手を宙に泳がせ、指差した。
ソファに座ったまま並んで倒れている2人は清倉誠吾と角村丙助。ともに左胸の心臓の位置から大量に血が流れ、周囲にも飛び散っている。だが総白髪の老人、塾長の久能松次郎の周囲には、どこにも血が流れた跡はない。顔色も悪くはない。右腕の手首を握ってみると、弱い脈搏があった。
「まだ生きていますよ。瀬高さんは目撃されたんでしょ」
「もちろんだ。目の前で2人が続いて射たれた。その直後に、塾長が苦しみ出して、ふわりと崩れた。うん。きっと脳卒中だよ。大変興奮していたからね」
サイレンの音が4方8方から迫ってきた。今度こそ、小山田警視らの出番だ。
「警察が来ました」智樹がいうと。瀬高は急に気を取り直して、あわて出した。
「君。困るよ、警察は。名前が出ると社の評判に関わるよ。なんとかしてくれんか」
「そうですね。なんとかしましょう。まかせてください。ただし、私には本当のことを教えてくださいよ」
「教える。教える。君にはすべて教えるよ」
サイレンの音が止んだ。中庭ではガヤガヤと人声が高まった。
智樹は瀬高に断わって、いったん部屋の外に出た。ちょうど、小山田警視が先頭に立って、ビルの正面入口をはいって来るところだった。
「ご無事でしたか、影森さんは……」
小山田は足下の倒れた2人の黒ダブルの男に気づいて、智樹の顔を見る。
「殺してはいませんよ」と智樹。「この2人は麻酔弾で眠っているんです。2階にも1人」
「ですが……先ほど大きな銃声が聞こえたとか」
「はい。それは、この部屋です」智樹は塾長室を指差し、「その前に、ご相談が」と小山田を脇へ手招きした。
瀬高の立場を説明し、瀬高と華枝の2人を表面上の捜査対象にしないように頼んだ。
「了解。でも、なぜその瀬高さんが」
「多分、この塾の資産管理が絡んでいたのでしょう。詳しくは、これから聞きます」
小山田らは塾長室にはいった。智樹は瀬高に合図して隣の応接間に移った。
「瀬高さん。警察とは話がつきました。ここでちょっと待っててください」
2階の209号室にもどってノックをする。
「こちらヴァルナ」
「こちらミトゥナ。どうぞ」
鍵を回してドアを開ける。窓から中庭を見ていた華枝がゆっくり振り返る。涙が両の目に溜まっている。
「……無事だったのね」
「うん。もう大丈夫だ。今度こそ本当に安心してインド旅行に行けるよ」
「ウフフフッ……」華枝は泣き笑い。
「一緒に行こう。風見が車にいる」
「そうなのね。意地悪。つい先刻まで、私、風見さんも一緒だってことは知らなかったのよ。私、トモキが1人だと思って文字通信を送っていたのに。なにか恥ずかしいことなかったかしら」
「良いじゃないか。少し当ててやった程度のことだ」
「まあッ」華枝はパッと赤くなって、目の隅で智樹をにらむ。
達哉が運転して回したのであろう。車は道路の反対側に止まっていた。智樹は華枝を抱きかかえるようにして道路を渡り、後部座席に座らせた。
「確かに生きてるな」と達哉。「おれもひと働きしたんだよ。煙が出る以前に火事を発見して119番に通報したんだ。これは市民の義務だからね」
「そうか。あれはお前か。いやに早いと思っていたんだ。ハハハッハッ……。助かったよ。ありがとう」
「お前の消音銃のとは違う大きな銃声がしたようだったが、大丈夫だったのか」
「うん。おれは大丈夫だ。角村と清倉が塾長の久能に撃たれて死んだんだ」
塾にもどるために道路を渡ろうとしたとき、急速に近づいてくる乗用車が目にはいった。智樹は反射的に一瞬立ち止まって、様子を見た。先に渡っても大丈夫な距離だったが、その車のスピードには場違いな感じが……と思った瞬間、車は塾から50メートルほど手前でキィーッ……と急ブレーキの音を立ててUターンし、逃げるように走り去る。
〈灰色の乗用車! さっきの襲撃車だ! パトカーを見て逃げたな!〉
直感した智樹は車のナンバーを〈9979〉と口に出して記憶にとどめる。
〈そうだ。塾には奴の姿がなかった。道場寺満州男は間違いなく、先刻、東京でおれを襲撃した車に乗っていたんだ。そして今、こちらにもどってきたんだ〉
塾にもどった智樹は、小山田に灰色の車の件を耳打ちしてから応接間にはいった。
瀬高は普段の落ち着きを取りもどしていた。
「ご苦労さん。ここはね、なかなか居心地の良い応接間なんだ」
総皮製のソファにゆったりと腰を沈め、葉巻をくゆらせている。この応接間を何度か訪れたことがあるのだろう。なつかし気に欄間の扁額や床の間の掛軸などを見回している。「そうですね。全体にゆとりがあって。この種の団体の本部では別格の建物でしょ」
「建物だけじゃない。そこの額の〈敬天愛人〉は西郷隆盛の書だ。ほかの部屋にもたくさんある。戦後に買い集めたものらしい。書画骨董だけでも大した財産だよ」
瀬高は玄人はだしの鑑定眼の持ち主だった。
「なるほど。ここの資産は山城総研のデータ以上のものなんですね」
「そうだ」瀬高は両腕で肘かけを突っ張り、しっかりと座り直した。本題にはいる気構えである。「君も一応は承知だろうが、この塾は資金面でも大変な惑星的存在なんだよ。山城総研のデータベースでも極秘扱いで、ほとんどの証券の価格を取得価格のままに押さえてある。だから、通常の価格に直すと数倍から数十倍。市場価格の予想もつかない銘柄もある。もっとも普段は、直接証券を売り買いする必要はない。担保にして仕手戦を仕かければ、選挙資金の何億円ぐらい作るのはわけのないことだ。それでと……」瀬高は右手で眼鏡をはずし、左手の掌で両眼をなで、心持ち上目遣いで智樹を見据える。「君の名前は先刻のここの会議でも出たばかりだ。命を狙われていたようだね。今日は例の《いずも》とやらの方の資格で現われたわけだろ」
「はい」
「では、本題にはいる前に確かめておきたい。君らの狙いはクーデター阻止だけだったのかな」
「それが微妙でして」智樹は肩の力を抜き、腹蔵なく実状を打ち明ける。「《いずも》とこの塾の関係も複雑ですから、すっきりと全部筋が通ったうえの捜査じゃありません。今日の行動の直接のきっかけは、ご存知の原口華枝がここに監禁されていたことなんです」
「なんだって。うちの原口君が」
「はい」智樹は、そこに至る経過を簡略に説明した。
「ううむ。そうか」瀬高の飲み込みは早かった。「すると、隣の2人は死に、久能老人はおそらく死の床に着く。しかし、陣谷弁護士、下浜安司、江口克巳……そのあたりはまだ生き残りの現役だ。彼らは戦争中からのアヘン地獄を引きずっていくわけだね。この塾の秘密を暴かれたくはない。しかし、資金源を手放したくはない。君らの秘密チームをはたらかせながらも、監視の目は絶やさない。これはまた怪しげな、サド・マゾの世界だな。ハハハハハッ……」
「はい。まことに。そのうえ、いまだに昔ながらの《お庭番》の世界なのです」
「よし、分かった」瀬高は話を続けた。「私は敗戦直後の詳しいいきさつまでは知らない。アヘンだとか、金塊だとか、宝石類だとか、ともかく大陸から持ち帰った特務機関の資金だという噂は聞いていたがね。CIAがらみの噂もあった。例のM資金みたいな話だよ。関係者は多い。歴代の理事の名前だけでも大変なものだ。しかし私は、そんなことを調べる立場じゃないからね」
当初からの人脈のつながりがあって、興亜協和塾の資産管理はすべて山城証券が預かってきたのだという。窓口担当は代々の筆頭常務であったが、瀬高はその地位に着く以前の管財課長時代から実務を引き受けていたので、塾とは最も深い関係にあった。
今回のクーデター計画に関して瀬高の話を要約すると、やはり、資金繰りをめぐる水面下の争いが、たった今のトップ会談で激突したのであった。もちろん、資金繰りが具体化するに及んで初めて争いが表面化したのであって、もともと、クーデター計画そのものへの入れ込み方に違いがあったのである。
塾の予算決定は規約の定めもあり、常に理事会にかけられていた。決して塾長の独断に委ねられていたわけではない。しかし、今までの予算決算理事会がシャンシャン大会で終わっていたため、塾長は独裁的な気分に浸っていた。従来どおりの塾の運営であれば、それで済んでいたことであろう。だが、今回のクーデター計画は、塾の財政史上から見ても未曾有の大事件であった。ヴィデオ製作だけでも、すでに塾の年度予算の他項目からの流用が必要だった。久能はかねてから、クーデター前後の買収工作にすべての資金を動かそうと主張していた。しかも、Xデイそのものがいつ来るか分からないから、気ばかり焦る。理事会を無視して、瀬高に200億円を現金で用意しろと迫ってきた。
瀬高は丁重に臨時理事会の開催が必要であるという返答をした。久能は渋々臨時理事会の開催を認めたが、今度は、理事会の主要メンバーが渋り出した。内々に伝わってくる意向は、程度の差こそあれ、クーデター計画への危惧であった。本心をいえば、はっきり反対の理事も多かった。
久能と道場寺は〈無血クーデター〉だと売り込んでいたが、誰も確信は持てない。特に、現政権の要の位置にある清倉は、最も慎重であった。弓畠耕一の急死で、清倉ははっきりと反対の意思表明に踏み切った。合法的な改憲の演出が困難になった、というのが最大の理由である。
「普段の主張は看板だけか」とばかりに久能は怒り狂う。
角村は最初の暴動シーンの総監督で現地指揮官の立場にあったから、久能とほかの理事たちとの間にはさまって右往左往していた。
その暗闘の最中、久能はこれ見よがしに弓畠耕一の葬儀に列席した。意図的なデモンストレーションである。久能はそれまでにも自分の主張を貫くために、似たような手口を使っている。時折、〈わしは本当のことを世間に知らせたくなった。甘粕機関の歴史も書き残したい。もう過去を隠して暮すのはあきあきした〉などとつぶやいてみせるのである。それを聞いただけで、ほかの理事たちは直ぐに震え上がった。ヤクザな犯罪者の居直りと同然の脅しなのだが、同じ悪党でもなまじ社会的立場があると、この種の脅迫には弱くなる。大日本新聞の正田竹造などもその1人で、特に今は、Xデイのマスコミ報道で一世一代の天皇キャンペーンを予定しており、偽造ヴィデオの製作と放映計画にも一枚噛んでいる手前、久能のいいなりになりやすかった。
「その脅しを受けて、今日のトップ会談が開かれたわけですね」
「そうだ。理事長の下浜は逃げ腰で、清倉を代理に立ててきた。久能は会談の始めから怒り狂っていた。クーデター計画について、政界有力者たちが一番弱腰だというんだ。しかし、大部分の理事の姿勢も最初から同じだったんだ。つかず離れず。つまり、失敗したときには責任逃れができるようにしておきたかった。だから、自分が出席した理事会でクーデター用の特別予算が決定されるという事態は避けたかったに違いない」
「その点の狸振りは、2.26事件のときの皇道派の大将連中と良い勝負ですね」
「アハハハッ……。いつの世でも同じことが繰り返されるものだね。1度目は悲劇として、二度目は喜劇としてというが、確かに、いささか喜劇的だったよ。久能も焼きが回っているようだった。弓畠耕一の急死の裏話から、塾で警官と新聞記者を殺した件に話題が移ると、ビクビクするなとわめいてみたり、大事の前の小事だと説教してみたり。そこへ、道場寺満州男からの電話で、君への襲撃が失敗したという報告がはいった。参謀長格の角村までが動揺して、確信を失い始めていた。清倉は〈なにッ、《いずも》に手を出したのか、そんなことに責任は負えない〉といい出す。〈危険だ〉〈中止だ〉〈少し様子を見よう〉などなど。議論は、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。すっかり混乱していた。そこへウーウー、カンカン。久能の怒りは消防車のサイレンで頂点に達した。狂ったようだったね。〈貴様ら! 卑怯者奴!〉と叫んで、いきなり、ズドン、ズドンだ。私もテッキリ殺されるかと観念したよ」
「そこで脳卒中ですか」
「そう。グニャリと倒れた。それまでは正直いって、本当に生きた心地がしなかったね」
塾長室の奥の金庫には、クーデター計画の証拠として認定できるワープロの文書コピーと、その元になるフロッピが納められていた。そのほかの点でも、興亜協和塾の現場捜査は大成功だった。ヴィデオの実物、衣装から小道具まで、ひとそろい押収できた。スタジオ内に組み込まれていた装置の現場写真もタップリ撮った。
スタジオの捜査は最も重要なポイントだから、小山田警視が直接指揮に当たった。
1階のスタジオの入口の表示盤には〈本番〉の赤い文字が点灯していた。防音扉がついたスタジオの中には外の騒ぎが伝わらず、ヴィデオの撮影が続行中だったのだ。重い防音扉は本番中には外から開けられないようになっている。先頭に立つ田浦警部補は〈本番〉の表示を見て一瞬ひるんだが、扉の取っ手を引っ張る。開かないと分かると、ドカン、ドカン、と力一杯に扉をたたいた。
〈本番〉の明かりが消え、扉が開いた。
「なんだい、なんだい。人を急がしときながら、本番中に扉をドカドカたたいたりして、……仕事になりゃあしないよ」
白髪まじりの長髪を振り乱した60前後のすさんだ顔の男がぐちるところへ、田浦が警察手帳を示す。
「あなたが監督さんですか」
「えっ、警察……」
男は腰を抜かして、その場にへたりこんだ。映画監督の柄沢恒彦と名乗ったその男は素直に捜査に協力した。美術、照明、メーク、カメラ、演出助手兼スクリプターなど最少限の人数のスタッフだけが柄沢のかき集めたプロで、出演者はすべて興亜協和塾の塾生でまかなっていたという。そこまで事情を聞いた小山田は、高飛車に話を打ち切った。
「分かりました。皆さんは事件に関係ないと判断します。それで柄沢さん。この仕事は中止になると思いますが、ギャラの未払い分がありますか。あったら出してください。今直ぐに精算させますから」
「ええ」柄沢監督はもじもじしながら大体の金額をいう。小山田は塾の事務員に命じて、倍の金額を支払わせた。そして、彼らをまとめて塾から追い出した。
「はい、はい。ご苦労さん。これで一杯やってください。捜査中は立入り禁止ですから」
「大丈夫ですか」田浦が心配顔。「ちゃんと口止めしなくても良かったんですか」
「いやいや。どうせ、あのスタッフは最初からなにか感づいている。下手に口止めすると逆効果だよ。損がなければ騒ぎはしない。それが人情ってもんさ。どこかの飲み屋でブツブツいうぐらいのことは仕方ないよ」
そういいながら小山田は、目の前の田浦警部補にも事件の真相を隠したままであることに、思い当たっていた。