『最高裁長官殺人事件』

第四章 処刑のタイムカプセル

《お庭番》チームはそれぞれのルートでの努力を誓い合って別れた。

 智樹は自宅にもどった。午後1時である。達哉が来る約束の3時までには、まだ2時間ある。〈泳ごう〉と思い立った。

 午後の住宅街の道は空いている。走り梅雨の曇り空。風が少しあって肌寒い。ウインド・ブレーカーのジッパーを首まで上げる。急ぐ理由もないが、自転車の変速ギアを1段上げてペダルを踏む足に力を加える。途中、右手に製パン工場、左手に弱電メーカーの配達中継所があり、100メートルほどの間、両側がコンクリート塀になっている。道幅は狭くて一方通行。歩道もガードレールもなく、片側に白線で申しわけ程度の歩行者スペースが示されているだけの簡易舗装道路である。

 そこにはいった途端、後ろからブーン、ブン、ブン……とエンジンを加速する音が響いてきた。見えない殺気が背筋を襲う。振り向くと、灰色の乗用車が急速にスピードを上げて迫ってくるのが見えた。〈あの車だ〉と直感した。一瞬の迷いののち、智樹はギアをトップに切り換え、力一杯ペダルを漕ぎ始めた。

〈畜生! やはり奴だな。道場寺満州男だ!〉智樹は思わず歯ぎしりに似た怒りのうなり声を発していた。風圧が突然強まる。智樹の身体と自転車は空気の壁を切り裂いて走る。耳元で風がヒュー、ヒュー……と鳴る。しかし、ウインド・ブレーカーのジッパーを締めたままだから、首から下は物凄く暑い。身体中がすでに汗まみれだ。

〈くそったれ! 貴様らごときに消されてたまるか!〉。ダッシュ、ダッシュ……。直ぐに肺が破裂しそうになってきた。これまで特に自転車競争をしたことはない。だが、水泳できたえた肺活量には自信がある。短距離のラストスパートの気持ちで全力を出し切る。足が重くなり、次第に硬直してくる。水泳の場合と同じで、充分に経験済みの現象だ。

〈乳酸が溜まっただけだ。これで死ぬことはない。エエイッ……〉。必死にリズムを保ち、ペダルを踏み続ける。目がくらむ。〈この先は〉と考える。いつも見慣れた道端の風景がパッ、パッ、と瞼に浮かぶ。〈あそこだ〉とひらめく。左手の塀が切れた先に山茶花を低く仕立てた生垣が続いている。庭木の栽培をしている園芸農場だ。智樹は速度を落とさないまま、自転車もろとも跳躍し、生垣の上に身を投げた。

 直ぐ横をブワアーと襲撃車が走り抜けた。カシャン、と自転車がはね飛ばされる軽い音がした。バサ、バサ、バサ……。智樹のウインド・ブレーカーと生垣の枝がこすれた。首筋と掌もこすれて痛かった。だが、負傷の程度を見る余裕はない。もう1度、道路側に身を投げた。襲撃車のバックナンバーを確かめたかったのだ。しかし、すでに車の後ろ姿は見えなかった。横道に曲がったのであろう。

〈畜生! 逃げやがったか〉。両手の掌を開いて眺める。痛みの割に大したことはない。みみずばれが走っているだけで、血は出ていない。その掌で首をこすってみる。かすかに血がついた。だが、やはりかすり傷だけだ。自転車を起こす。故障はなかった。サドルをバン、と力一杯たたいた。〈畜生!〉。いまいましいが、今直ぐには仕返しのしようがない。

〈どうしてくれようか。ならずもの奴!〉だがとりあえず、そんな奴らの邪魔でプールの予定を諦めるのは、ますます不愉快だった。ウインド・ブレーカーのジッパーを引き下げ、汗を手でぬぐう。全身に風を入れ、再び自転車にまたがった。

 

「うちの近所で待ち伏せていたんだろうね。あの場所を選んで迫ってきたんだから、おれの習慣を事前に調べている。これは、かなり前からの計画だ」

 智樹は達哉が来るなり、襲撃の話をした。プールではいつもの練習をやって、少しはストレスを解消した。だが、まだまだ先ほどの怒りと興奮は残っていた。

「脅しじゃないんだね」

「うん。おれが必死で自転車を漕いで、残り3メートルぐらいまで迫られたんだから、あれは本気だよ。あれだけの殺気を感じたのは生まれて初めてだね」

「ダッシュ、ダッシュ……か。おれなら間違いなしに殺られていたな。おれの自転車はオンボロだし。変速ギアもないし……」

「まあね、……お前も気をつけた方が良いだろうけど、奴らが狙うのは、このおれだけだよ。あの新聞記者や刑事のように、いきなり敵の本拠地に乗り込んだりすれば別だが、わざわざ殺しに来るのはおれだけだ。おそらく今度のXデイ《すばる》発動計画を立てた最初から、おれをマークして機会をうかがっていたのだろう」

「いやに確信ありげだね」

「うん。おれがあの車をうちの近くで見かけたのは、今度の最高裁長官失踪事件で動き出す前だった。それに、こういう命令を出すのは角村以外には考えられないからね」

「でも、……あのテレヴィ会議の模様では、角村が逆に止めているようだったぞ」

「あれがかえって怪しいんだ。角村は表面でいっていることと腹の中がまるで違う。心底腹黒い男なんだ。第1、あの連中におれたち《お庭番》チームの仕事振りを報告していたのは角村だろ。実際には、連中をけしかけていたんだよ」

 智樹は達哉に、北京から持ち帰ったヴィデオ・テープを渡したことで、いわば安全弁がはずれた状況になっていることや、道場寺満州男らの突き上げグループと角村との関係などを説明した。「うん。そういわれてみれば、ハイ・レベルの連中とクーデターの陰謀グループをつなぐ情報源は角村だけのようだったな。うん。必要な情報だけを流しておいて、ダーティーワークの結論は実行部隊に出させる。良くある手だ。しかし、連中はまだクーデター計画に気づかれたとは考えていないはずだろ。なんでそんなに急に殺気立つんだ」

「いや。あの連中は、新聞記者と刑事を殺しておいて、そのままで済むと考えるほどの甘ちゃんじゃない。そのうえ、もともとおれに逆恨みを抱いている。大体、角村と道場寺は昔から……」

 智樹はいいよどんでいた。目つきが暗かった。達哉は、そういう智樹の態度の裏に、なにか個人的な悩みが隠されているのだと悟った。今まで達哉がわざと聞かずに過ごしてきた秘密の事情なのかもしれない。達哉は黙って話の続きを待った。だが、智樹が口を開きかけたとき、ヒミコがツー、ツー、ツー……と軽い音を立てた。

 緊急受信の知らせである。智樹が椅子の向きを変えてヒミコのスイッチをたたくが、画面は乱れていた。《お庭番》チームのスクランブルをセットしたままだったから、それとは別の通信なのだ。智樹は迷うことなく、華枝専用のスクランブル回路のボタンをたたいた。画面にザッザッザッと、文字の列が一斉に並んで現われた。

〈トモキへ。こちらハナエ。助けて。今日15時、静岡、興亜協和塾に拉致。持ち物から名刺、書類、ノートを取られる。会議室に監禁。廊下に見張り。手足はしばられず、ハンドバッグの無線電話は無事。声は出せないから文字だけ送る。先日、新聞記者と刑事がきた。火災報知器をライターで作動させて逃げようとし、余計なところをのぞいたので殺した。同じ目に合いたいかという。廊下で、暗くなるまで待てという声がした。怖い。返事待つ。以上〉

 智樹はフウッ……と大きな音が部屋中に響くほどに、荒々しく息を吸った。ガタン、と音をさせて、椅子をヒミコに引き寄せる。キーを手早くたたく。

〈ハナエへ。こちらトモキ。受信した。場所も分かる。直ぐ車で行く。安心して待て〉電話セットで華枝の短縮番号を押し、これだけの文章を送信する。続けて、拡声・短縮のボタンをたたく。

「ツー、ツー、……ガチャ……警視庁です」

「特捜1課の小山田警視をお願いします」

 待つ間に智樹は達哉に向かっていった。

「それに」ヒミコの画面を指差す。「スクランブルをかけてから送ってくれ。番号はここにある」電話セットの番号表を引き出す。達哉は黙って指示に従った。達哉の呼吸も荒くなっていた。智樹は電話に向かう。自分では気づかずに大声で怒鳴っている。

「小山田さんですか。影森です。この電話にスクランブルをかけますよ」いいながら智樹はスイッチを切り換えた。「いいですね。……今、ヒミコにもスクランブルをかけて送ります。私の助手の原口華枝が、奴らに捕まっているんです。彼女のハンドバッグには無線電話と電子手帳を組み込んであるので、連絡は取れます。しかし、暗くなると危ない。前の2人と同じ手口で殺されるかもしれない。今直ぐ車で現地に向かいます。協力してください。あとは車から無線で連絡します」

 智樹は両手でバシッと両腿をたたき、ヌックと立ち上がった。

「おれも一緒に行くぞ」と達哉。

「ありがとう。頼む」それ以上の会話は必要なかった。

 智樹の準備は早かった。電話とヒミコを自分の車のセットに切り換えた。玄関脇の廊下のドアをあけると車庫である。特別誂えの戦闘服、戦闘帽、防弾チョッキ、ジャングル・シューズ。次々に身につける。厚手の作業手袋とヘルメットを後部座席に放り込む。車は最近あまり使わなくなっているが、まさかのときに備えて整備は怠っていない。年式は古いが車体の頑丈なメルセデスベンツ。ダッシュボードの中には緊急時に必要な7つ道具がそろえてある。普通ならカーラジオがある位置が広くなっていて、カー無線とヒミコが組み込まれている。智樹は華枝専用のスクランブル回路をセットした。

 壁のスイッチを押すと、出口の蛇腹の扉が巻き上がる。エンジンは1発でかかった。ブン、ブン、ブン……と空ぶかしをしてから、道路に出た。達哉は腕時計に目をやる。

「今、3時半だ」

 車のヒミコがツツーと鳴って、画面に文字が並んだ。〈こちらハナエ。今、見張りがのぞいた。ハンドバッグの鏡で化粧している振りをした。危ないから、そちらからの通信は短くして。どうぞ〉

「風見、返事してくれ。〈分かった。安心しろ。車に乗った。今、出発〉だけで良い」

「よし」達哉はそのとおりに送信した。

〈大丈夫。以上〉返事がもどってきた。

「華枝はこの車に乗ったことがあるんだ」智樹はつぶやくが、声がくぐもっていた。エンジンの音に消されて良く聞こえない。達哉はわざと大声で問い返した。

「なんだ。もう少し大きな声を出せよ」

「大丈夫だよ」智樹は声のボリュームを上げる。その方が気が晴れるようだった。「華枝はねえ、この車に乗って、このヒミコをいじったことがあるんだよ。だから、こちらの様子が想像できるだろうな。おれが独りで車を運転しながらヒミコをたたいている。そう思っているかもしれないよ」

「なるほど。おれが一緒なのは分からないか。ハハハッ……そうか。パソコンだと、相手が本人かどうかを確認しにくいね」

「合い言葉でも決めておかないとな」

「おいっ。まさか……華枝さんの通信がにせもので、ワナだってことはないだろうな」

「ありうるだろう。しかし、ちゃんとスクランブルがかかっている。もちろん、疑えば限りはない。スクランブル暗号を白状すれば同じことだ。しかし、おいッ。一体、どういう状況だというんだ。華枝が捕まっているだけじゃなくて、奴らが、おれをおびき寄せるために細工をしているというのか」

「どうする。確かめる方法はないか。一応確かめた方が良いよ。なにか工夫したらどうだ。なに気ない感じで、君ら2人しか知らないことを聞くんだ」

「ようし。こう送ってくれ。〈到着まであと1時間。気晴らしに通信しよう。どうぞ〉」 達哉は智樹の通信文を聞いて送り、華枝の通信文を読み上げた。

〈いいわよ。だけど、誰かきたらストップするわよ。どうぞ〉

「〈終わったら太陽神殿に行こう。どうぞ〉」

〈楽しみだわ。どうぞ〉

「〈こちらヴァルナ。どうぞ〉。ヴァはローマ字だとVAだよ」

「なんだって。ヴァルナってなんだ」

「インドの神様だ。黙って送れば良いんだ」

「分かった。……〈こちらヴァルナ。どうぞ〉」

〈こちらミトゥナ。私かどうか試したのね。どうぞ〉

「〈そうだ。安心しろ。どうぞ〉」

〈ではまた。大丈夫よ。以上〉

「ハハハハッ……。間違いない。華枝だ。華枝に間違いないよ」

「なんだい。おれは蚊帳の外って気分だぞ。インドの神様なんて知らないからな」

「ハハハハハッ……。おれも最近覚えたばかりだ。だから、それを選んだんだよ。お前が知らないくらいだから、奴らなんかに分かるわけはない。合い言葉としては最高だ」

「怪しいな、どうも。もしかしたら、インドの牽牛・織女みたいな話じゃないのか。昔の神様には、そんなのが多いからね。鼻先で暗号のラヴ・コールを交わされたんじゃ、とてもつき合い切れないよ」

「ドンマイ、ドンマイ。さてと、……風見。お前に華枝との通信を頼むよ。華枝に、これまでの事情をメモっておいて、順次送るようにいってくれないか。その間、おれはこちらの無線で小山田警視と連絡を取る」

「分かった」智樹は無線に《お庭番》チームのスクランブルをかけ、小山田を呼び出した。

「小山田さん。こちら影森です。現在、東名高速を静岡に向かっています。そちらの状況は、いかがでしょうか。どうぞ」

「パトカーで同じ方向に向かっています。捜査1課の田浦が一緒です。どうぞ」

「ご苦労さまです」智樹はいって、その後の状況を報告した。「華枝に間違いありませんから一緒に踏み込んでください。どうぞ」

「分かりますが」小山田の返事は慎重であった。「現地には覆面パトカーの石神、野火止両刑事がいて見張りを続けています。しかし、踏み込むとなると、神奈川県警の協力を得なければ人手が足りませんから、一応、上の了解を取る必要があります。目下返事待ちです。絹川さんが官房長官をつついています。巴御前を通じて連絡を保っています。状況が変わり次第、連絡を入れます。どうぞ」

「小山田さん。両方のルートが間に合わないと、この前に話した作戦の最後の手段になりますよ。私が単身乗り込む。傷害現行犯の線です。それで良いんですか。どうぞ」

「その危険も含めて、上に状況を報告してあります。私も腹は決めています。どうぞ」

 小山田は〈危険〉をわざと大声で〈キ・ケ・ン〉と発音していた。

 達哉は華枝からのメモ通信をさらに要約し、運転中の智樹に伝えた。

「現在監禁されている部屋は2階の一番奥で209号室」

「209号か。消防庁の図面で確認しておこう。風見。おれのコードで捜してくれ。塾の住所は手帳に書いてある」達哉がヒミコに図面を呼び出すと、しばらく眺めて「ようし。もう覚えた」

「それじゃ」と達哉。「華枝さんのこれまでの経過だ。……新聞記事のデータベースを呼び出すと、最新ニュースとして弓畠耕一最高裁長官の死亡、最高裁葬が報じられていたので、告別式の会場に変装をして行った」

「なんだって!」

「まあ、まあ……過ぎたことだ。それから、お前の《いずも》の暗号を使って、清倉誠吾、江口克巳、下浜安司が一緒に加わっている組織を捜した。色々あったが、一番怪し気なのは興亜協和塾だった」

「なんだって。おれの暗号……それだよ。それが狙われた原因だ」

「どうしてだ。今までも使ってたんだろ」

「うん。正直いうと《いずも》にも《お庭番》チームにも内緒でね。その方が仕事が早いからな。ところが、つい最近になって通常の管理報告システムのほかに、ハッカーやらヴィールスやらワームやらの総合監視システムが試作されたんだ。今、《いずも》関係だけで試しに使っている。もちろん対外的には極秘だ。おれは華枝にも話してなかった。この監視システムには、そのほかの注文も出せる。たとえばNTTに依頼して逆探知すれば、ある特定の極秘情報を《いずも》の暗号を使って呼び出したものの電話番号だとか……」

「なるほど。華枝さんは、その網に引っかかったか」

「うん。《いずも》関係者で今度のXデイ《すばる》発動計画に関わっている誰かが、警察庁のデータベースか、それとも山城総研のホスト・コンピュータか、どちらかに特別な監視システムを取りつけたという可能性は非常に高いよ。もしもおれがその立場だったら、絶対にそうしている。まず味方を疑え、というのが防牒の鉄則だからね」

「そうか。ともかく、その直後に華枝さんは、マンションにもどる途中で車に連れ込まれたんだ」

 そのとき、静岡方面に降りるインターチェンジの標識が見えてきた。それと同時に無線がはいった。

「こちら小山田。影森さん。聞こえますか。どうぞ」

「はい。影森です。どうぞ」

「先ほど、15時半、例の塾に清倉と角村がはいっています。近くの民家の2階を借りて見張り、出入りの者すべてをヴィデオ・テープに収録。本部でコンピュータ処理をして画像を鮮明化し、たった今確認できました。なお、新しい情報あり。ただ今、塾のランドクルーザーが海岸方面に向かっています。以上」

「分かりました。以上」智樹はぶっきらぼうにスイッチを切り、息を低く吐く。「畜生!」歯ぎしりする。「奴らはやはり、同じ手口で殺す気か。また海水を飲ませて溺死を装う気なのか」

「うむ」と達哉。「だが、そうだとすれば、まだ準備中だ。助けが間に合う」