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緊急報告:空爆下のバグダッドにて・伊藤政子

(その4)第3次攻撃
1998年12月18日(金)夜~19日(土)朝

 8:30p.m.に共同通信からの電話が入り、クリントンが第3次攻撃を始めたと発表したとのこと。でも、バグダッドの私の部屋からは、遠い爆撃音が聞こえるだけです。

 夜が明けてから確かめたところ、地方への攻撃が主だったようです。南のバスラでは、クリナ病院が爆撃を受けたそうです。湾岸戦争直後の1991年にバスラへ行ったとき、市の中心部から離れたこの病院も爆撃を受けたため機能せず、保健所に吸収されていました。2年後にようやく再建した病院だったのに…。つい数日前、私の同行者たちがこの保健所を訪ねたばかりでした。

 その他に、バスラだけでも3ヵ所の病院、 3ヵ所の小学校、中学校、幼稚園、障害児関連施設などが被害を受けたそうです。部分解除の物資が出入りするバスラ港のオム・カスル税関も、石油関連の工場も爆撃を受けました。部分解除をしたといっても、戦争で徹底的に石油施設を壊された上に長びく制裁下で石油生産が思うに任せなかったのに、さらなる破壊です。何という仕打ちでしょうか。

 タミンでは、大学の学生寮が被害を受け10数人が死亡したと伝わってきました。きっと「この学生たちは化学兵器開発研究に携わっていた」とでもいう見解になるのではないでしょうか。

救援活動 12月19日(土)

 急遽、ここにいる NGOが全員で協力して被害者の運ばれたアル・ヤルムーク病院へ救援物資を届けることを決めました。人権無視の非道な攻撃に対する抗議の意味も含めた私たちの行動でした。

  CNNが取材に来ていたのですが、ニュースでは全く流れませんでした。

 被害者は第1次攻撃による人たちだけでなく、毎日各地から運ばれてきます。ハイ・アルアデルの自宅にいて被害にあった中学3年生の少女は、両足の大腿部から足首までの複雑骨折で、副木を当てた包帯の上にも多量の血が滲み出ています。「私は死んでしまう」とくり返し、泣き叫んでいます。「私は何にもしていないのに(アメリカの)兵器で殺されるんだ!」と泣き続ける彼女に「死んでしまうなんて考えてはダメ!怪我しただけで助かったんだから神様にありがとうって思って、がんばらなくちゃだめよ」と必死で話しかけました。ようやく気持ちを鎮めようとしている少女のかたわらで、親たちが「この子がこんな目にあう程のどんな悪いことをしたというの。ただ家の中にいただけなのに」と私を問いつめます。隣のベッドには大腿部に大怪我を負った2才の女児が横たわっています。アブ・グレイブの自宅に爆撃を受け、 3人の兄弟全員が怪我をして病院に運びこまれたそうです。情報省などで聞いた場所よりはるかに多くの地域から、死傷者たちが運びこまれています。

 また、車で街を走っていたとき、イラク国旗でくるんだ小さな小さな柩を積んだ車が追い越して行きました。運転していた友人が「この攻撃で死んだ小さな子の柩だ」と言うので、「どうして攻撃による死者だとわかるのか」と問うと、「旗をかけているのは戦争による犠牲者だ」と教えてくれました。死者数が時間ごとに増えていきます。

 夜、3回目の攻撃を受けた後でようやく、イラク政府のラマダン第1副大統領による記者会見がありました。イラク側のどこに「民間人が犠牲になった」というプロパガンダを作り出す余裕があったというのでしょう。激しい攻撃とその攻撃による大きな被害の事実の方が、イラク政府のニュースよりはるかに先行しています。事実をイラクの人たちに身を寄せながら体験している私に言わせれば、離れたところにいて「イラク政府は(非道なことを)何でもやるし、人々は政府を恐れて本当のことは何も言えない」と思い込んだ目や耳で、アメリカ発のウソ報道を追認しながらする判断こそ、プロパガンダに覆われています。今回サダム・フセインがこの人たちやアラブの人々に何をやったというのでしょうか。罪なき民衆を問答無用に殺戮したのは、米・英の軍事力です。

 クリントンが「なぜ病院まで爆撃するのか」という記者の質問に「その病院には(化学)兵器の研究所があった」と答えたと聞き、怒りに言葉も出ません。サダム医科大学病院の被害は破片と爆風によるもので、あの爆弾の標的は、道の反対側にある今は使われていない旧防衛庁の建物でした。湾岸戦争中に徹底的に壊された建物ですが、いまだに再建のメドも絶たず(労働者に仕事を与えるために)細々と日干しレンガを積む程度の建設作業を続けているところだったそうです。標的にさえならなかった病院のどこに『化学兵器』があったというのでしょ

うか。『化学兵器』と『生物兵器』という言葉さえ使えば、事実はどうであれイラクに対しては何でもやれるということが定着してしまったように私には思えます。

 イラクの人たちは、人間の内には入らないとでもいうのでしょうか。日本の1,2 倍の小さな国イラクにも大統領以外の 2千 2百万人の人々が暮らしています。彼らは私たちと同じに、女であり男であり、貧しい人であり富める人であり、子どもであり大人であり、障害者や老人であり、病人や恋する青年たちなのです。その人たちの頭上に爆弾やミサイルが予告もなしにばらまかれました。

 イラク政府が多量のミサイルを迎撃し撃墜したと発表しました。何機かは確かに撃墜されました。でもほんの数える程で、それこそイラク側のプロパガンダだと迎撃の様子を見ていたと私は思うのですが、そのニュースを聞いたイラクの人たちは、あんなに厭戦気分でいたのに大統領を好きな人たちだけでなく、本当に嬉しそうに、「俺たちが 200機もアメリカのミサイルをやっつけた」と誇らしげに言うのです。理不尽な攻撃は、あんなに平和的な人々の攻撃性を育て、攻撃側への反感を育て上げるのだと目の当りにして、哀しくなります。「非武装こそ身を守る手段だ」と言い続けていた私に、「イスラエルが最強の軍事を持っている危険の中で丸裸になれと言うのか」と反論しつつ、共感してくれていた人たちなのに。

 私は断食に入ってこの空爆が休止したら、早々にヨルダンに戻ります。空襲のさなかにヨルダンまでの1000kmの長い道のりを行く危険を犯すより、ホテル内で避難しているほうが安全だと判断したからです。でも、外国人の私は自分の身の安全だけを考えて逃げ出すことができるけれど、この国の人たちは、子どもたちは逃げ出すことなんかできないで、ただおびえながら耐え続けているのです。この2日間に何人もの知人たち、例えばホテルのハウスキーパーから「マサコと一緒の写真を撮ってくれ。もし自分が死んだら思い出してくれるように」と頼まれました。なんと切ない覚悟でしょう。

 クリントンが外国放送で「イスラム教を尊重する。断食の尊さもわかっている。だから攻撃は夜しかしない」と言ったと伝わってきました。あきれてものが言えません。断食は食べない時間だけを意味するのではなく、断食月(ラマダーン)の 1ヵ月全部に特別な意味があるのです。

 確かに断食月の間は日の出から日の入りまで一切の飲食を絶ちます。でもそれは、人間は(神の下)貧しい者も富める者もすべて平等であると改めて認識し、貧しくて食べることもできない者を思いやるための大切な期間なので、 1ヵ月通さなくては意味がないものなのです。朝日の昇る前5:00a.m.以前から夕方5:00p.m.頃まで12時間以上、 1滴の水も飲めず唾を飲み込むことも、たばこを吸うことも、キスすることもできないのはやはりかなりの苦行です。小さな少年から年配の方まで、男女貧富職種を問わず、みんなで1日ずつやり遂げ 1ヵ月やり抜くので、日没後に毎日とる夕飯(もともとの意味のブレックファーストです)は親戚・友人を招待しあい、訪ね合い、「今日も断食をやり抜けたね」と励まし合うお祭り騒ぎです。断食の期間は酒屋も店を閉め、夫婦間の性交渉もできません。ダイエットとは違う神聖な意味を持つ行事です。

 何もわかってない発言をしながら、どの口をもって「イスラム教を尊重する」などと言えるのでしょうか。

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