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1999.1.8. の開設以来、この間を訪れたのは
あなたで 人目です。
緊急報告:空爆下のバグダッドにて・伊藤政子
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Web編集者:木村愛二による紹介。
伊藤政子と知り合ってから早くも8年になります。旧友といってもいいでしょう。武蔵野市に住む私は、湾岸戦争への戦費支出を違憲とする平和訴訟やカンプチアPKO反対運動の中で、すぐ隣の三鷹市の彼女を知りました。ある集会で彼女は、イラクへの救援運動の経験を報告しながら、泣き出してしまって涙が止まりませんでした。彼女はバグダッドの病院で、ミルクも薬もないままに痩せ細った瀕死の子供たちを、何人も見てきたのです。彼女が写してきたカラー写真は、正視するのが辛いものでした。
彼女には娘と息子がいます。母親であると同時に元保母でもある彼女は、湾岸戦争のテレヴィ放送を見た時から、泣けて泣けて仕方なかったのです。最後には、イラクへの救援活動に参加して、生き残った子供たちを助けようと決意しました。その後、ミルクや医薬品をカンパで求めて運ぶこと、すでに15回になります。これは半端な数ではありません。そこで今回は、昨年末の空爆を経験したのです。
彼女は拙著『湾岸報道に偽りあり』や、ヴィデオ『誰が水鳥を殺したのか』を広めてくれました。お陰で全国に共通の友人ができました。今度の彼女の報告を英訳するに際して最大の翻訳料カンパに応じてくれた新潟の小池一彦さんも、その一人です。
私は今、この伊藤政子報告を英語で世界中に広めて、アメリカとイギリスだけによる国際法違反の空爆によって、いかに多くのイラクの民間人が殺傷されたかについてのイラク側の発表を裏づける第3者の証言にしたいと願っています。また新たに、あの無慈悲な「砂漠の狐」作戦に対抗して、全世界規模の平和で暖かい「ミルク・カンパ台風」作戦を提案します。
英訳は、下記のホームページに入れてありますが、そこから取り出すのが難しい方は、E-mailで申し込まれれば、こちらからE-mailで送ります。全世界に広めるルートは、すでにいくつか決定していますが、たとえ重複しても、多くの仲間の協力が得られることに意義があると考えています。
URL: http://www.jca.ax.apc.org/~altmedka/news-2.html
E-mail: altmedka@jca.ax.apc.org
なお、この平和の勝利に向けての大作戦の主旨に賛同して下さる方は、伊藤政子報告を読んだ上で、下記のカンパに応じて下さい。小額でも結構です。数多い貧者の一灯の方が有り難いと思います。
カンパ振り込み先:
「イラクの子供となかよくする会」代表:伊藤政子の郵便振り替え口座:
口座番号:00170-1-613360
加入者名:伊藤政子
上記の振り替え口座には、外国からも振り込めます。 その場合は、
Japan
kouzabangou: 00170-1-613360
kanyuushamei: Masako ITO
以上、郵便局に電話して確かめましたので間違いありません。
英語による伊藤政子の紹介:
Representative of
Friendship Society of children between Japan and Arab.
私は、湾岸戦争終了後の1991年から、毎年1~3回イラクに通い続けています。経済制裁下で圧倒的に足りない医薬品等の救援物資を届けたり、日本とイラクの子どもたちの絵画や手紙の交換を通じて友情を育む手助けをしたりすることが主な活動です。毎回イラク滞在は1ヵ月強ですが、今回15回目のイラク訪問中に、アメリカ・イギリス両軍による武力攻撃に遭遇しました。イラクの中ではどんな様子だったのかをお伝えします。
今朝になって国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)委員長のバトラーが「イラクが非協力だからすべてのUNSCOM職員に引き上げを命じた」と聞きました。
一昨日「UNSCOMがすべての調査を終えて帰国したから事態は好転するだろう」とイラクニュースが言っていて「なんでくり返し裏切られ続けているのに未だに信じようとするのだろう」とお人好しぶりにあきれていましたから、「やっぱりね」と思いながら情報収拾をしていました。
午後になって、フランスの NGOのイラク駐在員がフランス大使命令で急遽今日中にバグダッドを引き上げると聞き、どうも様子がおかしいと思いました。
2,3日後に、その NGOと共同して私が日本から持ってきた物資を障害児施設に届けるという予定になっていましたし、彼は11月の危機のときもバグダッドに留まっていましたから。私は、情報が早く正確な知人たちに片端から電話をかけたり訪ねたりしてみました。イラク側では、個人的に親しい外務省や情報省の高官たちに、また外国人側では、本国と毎日連絡を取り合っている NGOやジャーナリストの人たちやアンマンーバグダッドを毎週往復しているヨルダン人の運転手たちなどでした。彼らは全員が「バトラーが突然引上げを命じただけで(アメリカは何も言ってないし)大丈夫、大丈夫」と言っていました。
イラク人たちは地位の上の人も下の人も皆、経済制裁解除がまた遠のくと思い、心底がっかりはしていましたが、日々の変わらぬ暮らしに追われていました。イタリアのNGOの人は「今度アメリカがイラクを攻撃するときは、アメリカ軍は絶対化学兵器を使うと思うから、準備期間が必要だと思う」と言っていましたし、国連の職員たちもUNSCOMのメンバー以外、例えば人道物資配給監視要員など少なくとも 100人以上は平常の活動を続けていました。
それでも私は、UNSCOMの動きに何か不穏な気がして、今回イラクに連れてきたTVの人たちに、彼らへの責任もあり「万一攻撃があるとすれば、例年の如く断食月の初日か前日だろうから、予定を早めて断食の始まる前にイラクを出よう」と提案していました。
夕方になって、イラク政府が「イラクの国土を4つの自治区に分け、それぞれに首長を置く」と言う決定をTVで発表しました。「もし戦争になって国土を分断されても、それぞれの地区で平常業務が営めるように」と言う理由を聞き、人々は「今までの危機でも何の準備もしなかった政府がこういう決定をするのは、アメリカが湾岸戦争のような戦争を起こすのかもしれない」と覚悟し、ガソリンスタンドにはガソリンを買いおこうとする車が長蛇の列を作りました。
湾岸戦争初期に、米軍は通信・交通網を徹底的に破壊し各地を分断した上で「イラク政府は既につぶれた」と宣伝しました。その結果、例えば南部のバスラでは拠り所を失った市民たちがバスラにいた宗教の高位者(イラン人のシーア派の最高僧)に頼ったため、イランから多数のシーア派活動家たちがバスラに来ました。戦後、交通網が復興した時点で市民は政府が健在であると知り以前からの暮らしに戻ろうとしましたが、戦争による破壊と経済制裁のためイランから来た活動家たちを養う余力などありませんでした。行き場を失ったイラン人活動家たちは沼沢地に潜み、市民への強盗・略奪行為を働いていました。これが『内戦』の事実です。イラク内のシーア派の人々は、アメリカが『シーア派の保護』などというのは嘘だと思っています。米軍は戦争中、例えばシーア派の聖地であるカルバラのシーア派の聖なるモスクを、シーア派の宗教上の大事な日をねらって爆撃したりしたのですから。
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2003.2改