さて、前回の終りに、「ああ、あの時の、ああ、あの、まさに青菜に塩の、ああ、あの顔、この顔」と書いたら、そのつぎには、なぜか自然に、「あああ、あ、誰か、故郷を、を、を、想お、わあ、あ、ざあ、あるう!」という唸りが出てきてしまったのだが、その後に、ふと気付いたのは、「あの顔、この顔」という歌詞が、それに続く「誰か故郷を想わざる」とともに、あれは小学校唱歌なのだろうか、確か、「故郷」とかいう題名の古い歌に入っていたことだった。
われながら、まったく余計な話だが、別に、武蔵野市の「左ギッチョンチョン」の神々の「あの顔、この顔」が、そんなにあどけなくて懐かしいわけではなかったのであって、むしろ小生意気で小憎らしい程度なのであり、「故郷」の歌詞につながってしまったのは、単純に無意識下の言葉の連想に過ぎないのであるから、以後も誤解のないように、ここに一言、言い訳をして置く。
そうなのである。あの時の、私が別の集まりの都合で遅れて、「市民の会」緊急総会に駆け付けた時の、「あの顔、この顔」ったら、もう、まるでまともに正面から見られたものではなかった。市長候補の桜井国俊の彦の顔は、真っ青なだけではなくて、まさに、不眠の夜々だったのであろうか、しおれ切っていた。もう、すべて私が悪いのよ、お気に召さないのなら、いっそのこと殺して頂戴、とでも言いたげな面持ちだった。事務局長の高木一彦の彦の顔は、青いだけではなくて、眉間に縦皺が寄り、不合格通知を受け取ったばかりの受験生もかくやとばかりに、青筋が立って、ひくひく痙攣しているようだった。他の連中も、まるで意気が上がらない。皆が皆、へたっとしていた。
「文化人」の20氏を仲人に立てて、やっとのことで反市長派の統一候補を決定できたというのに、しかも裏では相変わらず、日本共産党の武三地区委員会が「政策協定を結べ」と意気込み、揉め揉めしていたというのに、肝心要の統一候補の「知られざる」前歴の暴露によって、一切合財が崩壊の危機を迎えているのである。これでなぜ「ひくひく」せずにいられようか。「へたっと」ならずにいられようか。
この状況を見て取った瞬間に、私は、遅れてきた理由の別途の集りで乾杯してきた勢いも手伝ってか、特に考えもせずに、よっし、と立ち上がった。長年鍛え上げた喉からは、スピーカー無用の即席演説が迸る。これは持論なので、記憶に頼る必要もないのであるが、ほぼ、つぎのような主旨だった。
「桜井さんが、若い頃に、革新自治体を幻想だと書いていたとかで、それが問題になっているようだが、その本を私は読んでいない。しかし、私は、桜井さんよりは年上の1960年安保闘争の世代だが、都心の千代田区労協事務局長などの立場で、革新自治体の典型の美濃部都政を、最初から最後まで、下から見てきた。美濃部都知事が実現したら、次には、社会党と共産党の勢力争いが激化して、足元は、お留守になり、1960年安保闘争の遺産を食い潰しているという批判が出た。国政についても、社会党と共産党が、別々の構想を発表して、結果は、どちらも失敗した。社会党は、公明党までを含む社公民政権を構想した。共産党は、70年代の遅くない内に民主連合政権を実現すると予言していたが、また予言が外れたと言われただけで、むしろ逆に、政治の反動化が進んだ。労働組合運動も右傾化した。ソ連も崩壊した。皆が負けたのだ。ここに集まっているのも、いわば敗残兵ばかりで、社会党にも共産党にも、その他諸々の新左翼とやらにも、他の組織や誰かを批判したり、大きなことを言う資格はない。60年安保以後の世代の桜井さんらが、それ以前の革新自治体やら、社公民政権やら、民主連合政権構想やらについて、批判的だったのは、むしろ、当然のことである。自分たちの方針の誤りを正直に認めない組織の指導者には、発言権がない。幻想と言われても仕方がない。今、重要なことは、ここに集まった敗残兵をまとめて、どれだけの反撃ができるかということだ」
私のこの喇叭で、少しは座がほぐれた。今や、「政策協定を結べ」と揉め揉めしていた日本共産党は去った。つぎの問題は、「指導部に入れよ」と要求していた大衆党こと、山本あつしの彦の1議席のみを誇る元MPDの取り扱いだった。これには「ポルポト支持の組織で気味が悪い」などの反対意見が続出して、結局、まったく政党推薦なしで再スタートすることになった。
ここでは荒筋だけにするので、先を急ぐようだが、まずは、投票結果を発表する。数字については、市の選挙管理委員会に電話取材して、確かめた。本連載では以前に概数で論じたが、その部分は後に訂正し、その訂正日時を明記する。
因みに、日本共産党の市議会議員の得票総数は、1987年が8243、1991年が6074、1995年が5027と、まさにジリ貧であり、1995年の数字は有効投票総数の10%の5270票より低い。しかも、その武三地区委員長が自ら出馬して、2545票しか取れずに、当然ながら有効投票数の10%を割り、供託金100万円を没収されてしまったのである。佐久間某の彦とは、何度も会って、議論もした仲なので「おいたわしや」の感なきにしもあらずである。
さて、陰では「トロッキスト呼ばわり」(ああ、古い!古い!)もされたそうだが、若気の至りの著書の「革新自治体は幻想」説に起因する「分裂」選挙で、落選の憂き目を見た3位の桜井国俊の彦と、ドンジリ4位の佐久間某の彦とバトンタッチした日本共産党武蔵野市議会議員団長、栗原信之の彦が、すでに今春は4月25日に予定されている市長選への立候補を表明した。一応、この2人を「革新」に分類しよう。
それに対する「保守」の立候補表明者は、今のところ、現職市長の土屋正忠の彦だけである。上のような4年前の票数から考えれば、すでに本連載の何回か前にも述べたように、1人に絞られた「保守」の方が圧倒的に有利である。枕を並べて3,4位の落選を味わった「革新」が、なぜまた「分裂」の不利な選挙に臨むのか。この4年の経過には、私も、かなり踏み込んで付き合ってきたので、次回には、もう少し詳しく振り返ってみたい。
以上で(その10.1999.3.5.発行)終り。次号に続く。
前回の終りには、武蔵野市「左ギッギョンチョン」箱庭紛争の現代史にまで至る駆け足紹介の今回予告をしたのだが、その後に、またもや「重大事件発生!」となった。
ニューヨーク市警察の『コジャック刑事』なら、直ちに「全員出動せよ!」となるのだが、こちらはたったの1人でもあるし、実は、同時進行の「関連事件」が山ほど発生していたので、とりあえず連載予定を変更し、同時進行版とする。
さてさて、「場外乱闘」とは、ちと大袈裟だが、一部既報の「関連事件」こと塩漬け用地問題をめぐる市の広報の私物化、各党各派の市議会議員の事前運動「後援会」ニュースなどが、わが天敵「杉花粉」とともに乱れ飛ぶこの春に先駆けて、昨年秋の市議会本会議で、「山本ひとみ議員に猛省を求める決議」が「賛成多数」(「武蔵野市議会報』1999.2.1.,283号)で可決されていた。同決議によると、「去る11月9日、山本ひとみ議員が都市開発部用地課で管理している個人情報資料を無断で手に取るという常識では考えられない行為に及んだ」のである。
なお、その「行為」に関する情報を得た直後、私自身も実地検証のために同課に赴き、嬉しそうに説明する課員の目の前で、「こんな感じかな」と確かめながら、問題の「井口ファイル」を「手に取る」行為を行ってきたのであるが、私に対しては一向に、「猛省を求める」声は起きていない。
「井口ファイル」の「井口」とは、定員1名の選挙区、武蔵野市の現職都議会議員で、市長の土屋正忠の彦の後援会長でもある井口秀男の彦(自民党)のことである。井口秀男の彦の後援会長は土屋正忠の彦である。と書くと、あれあれ、ワープロコピーのダブリかなと思われるだろうが、順序が逆になっているのである。まさに逆も真なりの論理学までとは言わずとも、a=bの逆のb=aも正解となる算数の初歩を教えるぐらいなら絶好の教材なのだが、武蔵野市教育委員会では別に教材として推薦してはいない。
「ファイル」とは、井口都議が落選中に、武蔵野市土地開発公社に農地を売った際の交渉経過を記した書類を入れたファイルケースのことであり、当然のことながら、選挙資金調達の疑惑の的となり、目下、市を被告とする情報公開裁判でも、それを市が公開しないことが提訴の理由の1つになっているのである。この件も、結構複雑なので、後に詳しく記す。
とりあえず、井口秀男の彦の土地問題は、先方からも戻れるようにリンクを貼って置くので、まだの方は見て頂きたい。
「殿乱心!」の「殿」とは、仮名手本忠臣蔵とは逆の悪役、武蔵野市長、土屋正忠の彦のことであり、「乱心」の場所とは、江戸城中は松の廊下ならぬ武蔵野市は市議会の本会議場、答弁側の雛段の「市長席」であった。
頃は元禄14年ならぬ1999年3月3日、な、な、なんと、雛祭り当日の午後6時ごろ、雛段で議員の質問を受けて、ひたすら答弁のみに努めなければならない立場の市長が、な、な、なんと、逆に、憤然と仁王立ちの形相よろしく、答弁をば拒否し、質問した議員に対して質問し返すという、前代未聞の「重大事件発生!」となったのである。
すでに、ご賢察の方が多いとは思うが、「質問」とは、当然、かの「巨大政治犯罪」こと、塩漬け用地がらみであり、「質問した議員」とは、これもすでに、ご賢察の方が多いとは思うが、かの市長の土屋正忠の彦の天敵こと、山本ひとみの媛なのである。
「慌てて幕引き」の「議事進行動議」で「休憩!」を叫んだのは、日頃の議会では野次専門の市長与党派、議事運営委員長こと、田中節男の彦(自由民主クラブ)であった。
いやまた、それからの1時間半、幕間の田舎芝居の面白かったの何ので、笑いが止まらず、しかし、時間も時間とて、市役所の食堂は店仕舞い終了。庁舎の中にはジュースの自動販売機しかない。再開の予定は誰にも予想が付かない。出るに出られない。ないない尽くしで、腹が減ったの何のと、いやもう、大変な騒ぎとなった。
さて、以上の関連事件の源に溯ると、あれ不思議、わがホームページに辿り着くのである。なぜか。頃は元禄14年ならぬ昨年の1998年10月28日、日本テレビの『ニュースプラス1』特集が土地開発公社の塩漬け用地問題を取り上げたのだが、担当したプロダクションのスタッフはキーワード検索によって、わがホームページに到達していたのである。その模様はすでにホームページの下記頁に報じている。先方からも戻れるようにリンクを貼って置くので、まだの方は見て頂きたい。
さて、その直後の11月、わが仮住まいから 100メートル以内の西久保1丁目のご町内に新居を構えたばかりの「水道屋のドラ息子」こと、市議会議員、山下倫一(ともかず)の彦の後援会が発行する「後援会だより」の「土地問題特集号」が出た。
見れば、まずは今回も2度目の市長候補、桜井国俊の彦を擁立する「よくする会」のニュース批判に始まり、続く「具体的」な例として、インヴュアーが「最近ではテレビ(10月28日4ch「プラス1」)でも公社の土地問題を取り上げた番組がありましたが」、「山本ひとみ議員(市民の党)が……福祉にしわよせ……議会のチェックがはたらかないともテレビで発言していますが」などと聞くと、山下倫一の彦は、このすべてを否定し、「議員として議会で議論をしてきた山本議員も知っているはずなのに残念ですね」と結ぶ。
実は、上記番組に出た市議会関係者は、山本ひとみの媛だけであった。市長一派は、裁判で係争中と理由にして「取材を拒否」してしまったのである。かくして豚も食わぬなどと言っては豚に申し訳ないような逆恨みは、山本ひとみの媛に集中する。
この件での山下倫一の彦の張り切り振りは異常なほどであった。
重要かつ珍妙な裏情報の方をを先に紹介すると、あまりにも張り切り過ぎて、上記の「山本ひとみ議員に猛省を求める決議」の緊急提案まで行い、その勢いで、各戸配布の『武蔵野市議会報』に「都市開発部用地課で管理している個人情報資料」という字句が入ってしまったので、その結果、土地開発公社が「公開したがらない個人情報資料」とは何か、という疑問を抱く市民が増えてしまったのである。
「個人」とは誰か、となれば、人の口に戸を立てることはできないとか。「王様の耳はロバの耳」。井口、いぐち、イグチと、密かな谺が、街の辻々に広がる。井口秀男の彦としてみれば、余計な騒ぎを起こして「藪蛇」の迷惑至極、山下倫一の彦と土屋正忠の彦とが、雁首並べて、大ボスの井口秀男の彦から怒られたという噂、うわさ、ウワサが、これまた谺することしきりなのである。心なしか、彼らの顔色は冴えない。
この状況下、きたる4月25日に迫った一斉地方選挙に向けて、各予定候補が、「3年に一度、有権者を騙して票を取る」ために、事前運動のポスターを貼るは、チラシを各戸配布するは、となっている。「よくする会」「市民の党」に加えて、菅直人の選挙区でもある武蔵野市であるからには、民主党の市議候補なのか、はたまた市長候補なのか、新人で「菅直人秘書」の肩書きの28歳、松本清治の彦の顔写真を大きく、その上に「ガンバレ!!松っちゃん」の台詞付きでニコヤカに白い歯を見せる「ワキの甘い男」こと菅直人の顔写真を小さく配した『民主』号外、「武蔵野発:財政改革」「借金のない自治体」「無駄づかいに喝!!」の各戸配布ときた。自宅の机で仕事しながらでも街の情報が入ってくる。
『民主』号外の裏面にも、まだまだ薄味ながら、「土地開発公社とは何?!」とある。
ああ、土屋正忠の彦、ついに、四面楚歌。
そこへもってきて、上記の予算本会議で、天敵の山本ひとみの媛が、「山本ひとみ議員に猛省を求める決議」によって、しおれるどころか、むしろ逆に、土地開発公社による膨大な塩漬け用地取得を(わが指導に少しは従って)「自治省も先頭に立って」のニュアンスで批判したばかりでなく、1度はその「手に取った」「井口ファイル」の公開まで求め、「疑惑がある」と詰め寄ったのもだから、ああ、とうとう、「殿乱心!」。
答弁に立ったものの、土屋正忠の彦は、演歌を忘れたガチョウさながら、言葉につまった挙げ句、上記のごとくに、憤然と仁王立ちの形相よろしく、「疑惑とは何だ。説明せよ!」と居直ってしまったのである。この前代未聞の「うろたえ振り」を見て取った私は、間髪を入れずに、このところの定席の土屋正忠の彦の真っ正面の2階の傍聴席から、「市民が疑惑を持っているのだ!」と、鍛え上げた大音声の不規則発言で鋭く一喝した。普段より多かった傍聴者のほとんどが、直ちに私に続いて一斉に発声した。すでに答弁者の市長の前代未聞の「質問」に判断停止、咎めることができずに金縛り状態に陥っていた議長が、傍聴席発言を制止などできようもなかったのは、当然のことであった。
やったぞ!と意気上がる傍聴席。休憩だから、もう不規則発言ではない。議員への個人名を挙げた批判が乱れ飛ぶ。
そこで話はまた今回の冒頭に戻るが、上記の「休憩」動議で約1時間半となり、普段より多かった傍聴者のほとんどが、山本ひとみの媛らの「市民の党」控え室に集まり、廊下トンビのオットットこと、元市議、山本あつしの彦の偵察報告を受けながら、市政の腐敗を論じまくる状況になったのである。おかしいのは、この約1時間半のほとんどが、市長の与党側の非公式談合と各派への意向打診に費やされ、談合がまとまってから正式の議事運営委員会が招集され、それはもう、田舎芝居丸出しのシャンシャン大会に終わったという事実経過である。何が決まったのかと言えば、「殿乱心!」の一幕を「議事録から削除」することであった。
もう1つ、面白いのは、この日、武蔵野市のローカルFMラディオ放送局が、予算本会議という特別な場面なので、全部録音していたことである。これも「削除」になるかもしれないが、わが記憶は、あの空腹の怒りとともに、永遠に消えるわけはないのである。
なお、この間、もう1つの同時進行版として、1999年3月5日、午前10時から12時まで「さくら銀行」本店で開かれた臨時株主総会の席上、私が自ら、「財界巨頭」(外部監査役の元東京電力会長・平岩外四)を目前に見据えながら、総会屋と張り合って発言時間を確保し、塩漬け用地問題解決の「政策提言」(わがホームページ『武蔵野市民オンブズマンの城』参照)に関して、持ち前の長年鍛え上げた美声で叱咤、施政方針演説する機会を得た。この件は別途、次号の時事論説欄に掲載するが、それまでに効果が顕れてしまうと、私のイニシャティヴの印象が薄れる恐れがあるので、以上、簡略に報告しておく。
また、本連載と同じく塩漬け用地問題を中心テーマとする上記ホームページのヒット数を、久々に点検したみたところ、1999.3.8.現在で、1342になっていた。昨年の手帳を見ると、最後の点検が1999.12.7.で、その数字は399であった。3か月で差し引き942増えている。1日に10以上のヒット数である。それ以前には、1日に1-2ヒット程度だったのだから、飛躍的な伸びである。まだまだ狭い範囲内でしか宣伝していないので、これからの展望は、まさに見果てぬ夢の世界となる。
インターネット革命、万歳!
乞う、ご期待!
以上で(その11.1999.3.12.発行)終り。次号に続く。
再び、武蔵野市「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の現代史に戻る。
話の都合上、いきなり「現在」に飛ぶ。統一地方選挙を一カ月月後に控えた1999年3月中旬現在、我が家の周辺にも、時折、「よくする会」の事前運動宣伝カーが回ってくる。聞き慣れた声の鶯嬢こと鶯オバサンの自称上品な主婦の媛が、「市民が選んだ統一候補、桜井国俊!」と連呼している。しかし、この「市民が選んだ統一候補」という表現には、納得できないどころか、腹立たしい思いをする関係者も多い。特に腹立たしいはずの組織は、すでに「分裂」して市議団長、栗原信之の彦の市長選立候補を決め、これまた事前運動を開始している日本共産党武三地区委員会であろう。
私も、腹立たしいだけではなくて、呆れ返って「よく言うわ」、ただただ、「よくする会」の「ビュロー」への軽蔑の念を深めている。ついに正体を現したな、この子鼠たち奴、と思っている。フランス語の「ビュロー」(bureau)は、本来、「事務机」の意味であるが、「政治局」と訳されたりする。「ビュロークラシイ」(bureaucratie)は、「官僚主義」と訳されるが、むしろ、「事務机権力」と考えるほうが実態に合っている。
では、私が、「よくする会」の「ビュロー」と呼ぶ体制は、どのような経過で形成さらたのであろうか。
今から4年前、桜井国俊の彦(革新無所属)は1995年の地方選挙で市長選に3位、落選だが1万0900票と、かすかでも 1万票を超えた。彼および彼を候補者として擁した陣営の「よくする会」は、同じ落選でも「共産党の推薦」どころか共産党そのものの武三地区委員長、佐久間某の彦の、哀れ4位、2545票、有効投票数の10%を割り、供託金100万円を没収の憂き目とは違って、それほど落ち込むこともなく、むしろ、その票差に比例して大いに意気が上がっていた。「政党なしでも結構戦える」という実感があった。
ただし、裏の裏の事情もあった。「よくする会」には、日本共産党の党員が、かなり残っていた。もともとが、すでに紹介済みの略史の通りに、社会党と共産党による「社・共」共闘時代の流れを汲む組織なのだから、当然と言えば当然なのだが、日本共産党の武三地区委員会が組織として離脱して以後にも「よくする会」を抜けなかった日本共産党員には、いささかの意地と反抗心が見られた。その意地と反抗心は、前回の選挙の土壇場での「桜井国俊の彦・トロッキスト呼ばわり」と、武三地区委員長、佐久間某の彦の分裂立候補によって、いやましに高まった。彼らは、一時は「青菜に塩」の形相も呈したが、以後、覚悟を決めて桜井国俊の彦を支持し続けた。「自らの信念を貫く」などの悲壮な発言も目立った。そして、選挙後、日本共産党お定まりの「処分」騒ぎが漏れ聞こえたのだが、経過が経過だけに、やはり、いきなり「除名処分」まではできなかったようだ。しかし、世間一般で言えば「窓際族」扱いの結果、かなりの「よくする会」会員の日本共産党員が、これを契機に離党したようであった。
以上、「ようだ」調で推測風に記したが、私自身が別途の連載「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」で記しているように、武三地区委員会の内情にもいささか通じている。より具体的に書けば、これもお定まりの「情報漏洩」騒ぎにもなりかねないので、やむを得ない。「よくする会」の表面に現れた人事だけを見ると、「市民の会」創設以来、長年にわたって事務局長だった弁護士、高木一彦の彦が、突然、不機嫌になって、最初の市長候補、石崎和彦の彦と交替し、またその後、返り咲くという経過を辿った。
一応は政党活動の経験を持つ日本共産党の離党者たちが「よくする会」に依拠するとなれば、当然のことながら、政治活動に関する限り「よくする会」運営に専念することになる。もう1つの要素を簡単に指摘して置くと、従来から事務局メンバーの中心には、某社会党代議士の娘の媛などがいた。この媛たちと、元日本共産党員の彦および媛たちが、最初は、「社・共」共闘体制の「市民の会」事務局を形成していたのである。そのシャッポの「社・共」がなくなり、「よくする会」に改名し、結果として事務局がトップとして「ビューロー」を形成するという経過である。勢い、「よくする会」は、それまでの寄合所帯の連絡機関から、独立組織へと変貌し、一種の政党化への傾向を示すことになる。
その折も折、からくも4選を果たした市長、土屋正忠の彦が、任期の途中で衆議院議員選挙に撃って出るか否かが、最大の問題となった。結果から先に言うと、市長の4年の任期の1年半目に当たる1996年10月20日に、衆議院が4年目の解散総選挙となったのだが、その時に、土屋正忠の彦が、かねてからの狙い通りに、市長を辞任して衆議院議員に立候補する可能性があると考えられたわけである。
つまり、後釜の市長選が1年半後になる可能性がある。となると、すぐにも臨戦体制に入らなくてはならない。現職の強みを持つ土屋正忠の彦が赤絨毯に向かえば、跡目相続の「保守」は、当然、「新人」となる。これなら絶対という知名度の高い2番手がいれば別だが、土屋正忠の彦には、よくある独裁者の「ナンバーツー潰し」癖が見られる。ナンバーツー以下は、いずれもドングリの背比べで、知名度は低い。むしろ、桜井国俊の彦の方が、2度目の立候補だけに知名度が高いと言える。
そこで、桜井国俊の彦は、その1年半後の市長選ならば、ともかく継続して立候補するとの意思を表明した。
その後の経過を駆け足で紹介すると、まず、市長選の半年後、1995年9月15日には、『武蔵野市民ジャーナル』が創刊され、無償のヴォランティアの手で各戸配布された。私も、近所の300枚ほどの配布に協力した。
土屋正忠の彦が同年6月27日に設置した「武蔵野市中期行財政運営懇談会」に対抗して、同年10月1日に、「武蔵野市の明日を考える市民行財政懇談会」を設立した。
この「武蔵野市の明日を考える市民行財政懇談会」、略称「市民行財政懇」の会合には私も参加したが、「委員」は辞退し、オブザーヴァー参加とした。「武蔵野市」の「行財政」に興味がなかった訳ではない。調べるのなら誰にも拘束されずに、独自に調査し、独自の意見を発表したいと考えたからである。以後、私が特にテーマとして選んだ土地開発公社による塩漬け用地問題に関しては、また別に項目を立てて詳しく記す。ともかく、翌年の1996年3月31日付けで『武蔵野市の明日を考える市民行財政懇談会提言』、翌々年の1997年7月には、『武蔵野市第2期市民行財政懇談会報告書』が作成され、市当局にも提出されたが、私は、独自に個人新聞『フリージャーナル』、続いて『武蔵野市民オンブズマン』によって、塩漬け用地問題の追及を続けた。現在は、インターネットのホームページ『武蔵野市民オンブズマンの城』による発表を中心にしている。
その間、1996年5月25日には、地元吉祥寺の武蔵野公会堂ホールで、「武蔵野市の明日を考える市民の集い」が開かれた。メイン・イヴェントの「あなたが裁く市民法廷」には、私が「ジャーナリスト」というあまり好きではない肩書きで出場し、土地開発公社問題をドラマチックに解説した。桜井国俊の彦も、「武蔵野市民土地探偵団」、略称「土地市民探偵団」を名乗って出演した。
だが、以上のような、結果として1996年10月20日に行われた衆議院の解散総選挙には、市長の土屋正忠の彦は立候補しなかった。先にも簡単に述べたように、小選挙区制では、当時すでに「エイズ」問題で厚生大臣として「棚からボタ餅」の大受け、今や首相人気第1位の菅直人とは、到底太刀打ちできないので、諦めざるを得なかったのである。
衆議院選挙に土屋正忠の彦が立候補せず、いわば幻の市長選が空振りに終わって以後、「よくする会」の正式名称は、前回の市長選以来の「桜井くにとしとともに武蔵野市をよくする会」から「武蔵野市をよくする会」に縮小した。桜井国俊の彦は、「よくする会」の代表ではあるが、市長予定候補ではなくなった。市長選については、後に議論し直すことになった。以後、試行錯誤の議論の末、昨年の1998年4月5日、「よくする会」第5回総会が開かれた。席上、ビュローは、「土屋5選阻止に向けた市民的共同」のスローガンを打ち出し、「共同のテーブル作り」を提案した。
私は、この方針に対して、総会の準備段階から何度も反対を表明していた。理由は簡単である。前回の市長選では日本共産党を含めた場で、桜井国俊の彦を候補者に選んだが、そこから日本共産党が脱落した。「トロッキスト」などと古めかしい表現で誹謗している。こういう場合、日本共産党が考えを変える可能性はない。これまでの実績を生かして、「よくする会」として独自に桜井国俊の彦を擁立し、共闘を呼び掛ける方が筋である。
ところが、ビュローが執筆編集する「武蔵野市をよくする会ニュース」(1998.4.16.36号)記事の一部引用で説明すると、つぎのようになった。
「何人かの方々からは『一緒にやれるはずのないものを待つことはない』『共同のテーブル作りなどという柔なことでは事態は進まない、桜井さんを押し立てて進むべきだ』との意見も出されましたが、大方は議案書で提起されている『広く市民が共同し、土屋5選を阻止する統一候補を擁立して今度こそ勝利しよう』との基本方針を支持するとの意見でした。[中略]予想したよりも、基本方針はスムーズに、拍手で承認されました」
この引用文の最後の「スムーズ」とか「拍手で承認」とかは、議事進行の規則がないし、従来は一致点で共同行動を組む事にしていた市民運動には、まるで相応しくない表現である。ともかく結果として、上記の超常連の私をも含む「何人かの方々」の意見は、組織的に無視されることになった。実情を言えば、いつものように散会後に2次会の酒場、3次会のカラオケを控えていて、面倒臭いから「拍手」で終わっただけのことだったのだ。
ところが、ビュローは、こともあろうに、8人の内の5人は「よくする会」の常連会員が占める「統一テーブル呼び掛け人」こと「8氏」を立てて、私をも含む上記の「何人かの方々」など、つまりは「統一テーブル」作りに反対した常連会員にはまったく声も掛けずに、百人規模の「統一テーブル」こと、「市長候補の一本化をめざす懇談会」を開いてしまったのである。
この「懇談会」の開き方について、声を掛けられなかった常連会員の一人が、「よくする会」の定例会議で怒ったところ、つぎの2回目の「懇談会」については、ビュロー発「武蔵野市をよくする会ニュース」(1998.6.5.37号)記事に、事務局長の高木一彦の彦の署名入りで1回目の報告が載った。その最後には、こうあった。
「次回の懇談会を6月13日(土)午後7時に開くことにして散会しました」
つまり、「よくする会」のニュースであるにも関わらず、会員への参加呼び掛けはしないという不自然な事務局長「参加報告」なのである。ところが、私には、別途、上記「市長候補の一本化をめざす懇談会」の名で、2回目の「懇談会」参加を呼び掛ける葉書がきた。1回目には呼ばずに、それが問題になったら、しれっとして2回目への参加を呼び掛けるのである。「ふざけるな!この餓鬼ども奴!」ということで、もう面倒は見切れない。それ以後は、機会ありごとに「叱る」だけとなった。これも細部は後に述べる。
「統一テーブル」は私の予言通りに崩壊した。本来、日本共産党関係を呼んだのであれば、好き嫌いは別として、日本共産党も賛成できる候補を選び直す以外に方法はないのである。そういう候補として「統一テーブル」に日本共産党が推薦したのは、元国鉄職員、当然、元国労組合員の市議会議員、小川将二郎の彦だった。小川将二郎の彦は、「さきがけ」「21クラブ」といった中間的な会派に所属して、曲りなりにも土屋正忠の彦への反対派として筋を通してきた。もう一人、民主党の元市都議落選候補、水野某の彦が「統一テーブル」に名乗りを上げた。ところが、「統一テーブル」とは言うものの急ごしらえの危なっかしい場に、「よくする会」ビューローは「予備選挙」を提案し、強行したのである。
実は、「予備選挙」の発想は、「よくする会」内部の企画として出たことがある。アメリカの大統領選挙の真似事であるが、その場合は、既存の会員が「選挙権」を持つ前提の議論である。ところが、「よくする会」が中心の参加者が明確でない「統一テーブル」に、「市民一人に一票の選挙権」を与える「予備選挙」が提案され、「多数の支持」と称して強行されてしまったのである。それも一人の候補が1000票集めて、その結果で、上記のように、8人の内の5人は「よくする会」の常連会員が占める「統一テーブル呼び掛け人」こと「8氏」が、最後の判断を下すというのだから、故アチャコ曰く「目茶苦茶でござりまするがな」である。ともかく、小川将二郎の彦は「子供でも分かる不公平」と怒って降りた。水野某の彦は「賭けてみます」と付き合ったが、その途中で「よくする会」が推薦候補に決めた桜井国俊の彦が「当選」となった。
ああ、ややこしかった。ああ、しんど。いうわけで、今日も、あの聞き慣れた声の鶯嬢こと鶯オバサンの自称上品な主婦の媛が、「市民が選んだ統一候補、桜井国俊!」と連呼しているのである。なお、最新情報によると、市民の党と民主党が、桜井国俊と連携することになったそうである。
以上で(その12.1999.3.19.発行)終り。次号に続く。
前回で一応、武蔵野市「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の現代史を駆け足で終了とし、再び、本連載の主眼、「副題:借金火達磨・巨大政治犯罪都市」の具体的な現れ、「塩漬け用地」問題に戻る。
まずは、全国的な状況を見ると、日本経済新聞(1999.3.19)社会面に、つぎの記事が載った。
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全国の市民オンブズマン62団体が参加する全国市民オンブズマン連絡会議は18日、自治体の第3セクターが事業予定地としで購入したまま長期間末利用になっている「塩漬け用地」の実態を明らかにするため、全国一斉に情報公開請求すると発表した。既に一部地域で請求を始めており7月末に結果を公表する。
情報公開請求は都道府県と政令指定都市に加え、主要都市の自治体を対象に実施。士地開発公社が保有する土地の所在地や利用目的、取得価格などの公開を求める。
7月末に積浜市で聞く市民オンブズマンの全国大会で公開度ランキングを公表する。
同連絡会議の調べによると、全国に1596の土地開発公社があり、97年度末で約3万4500ヘクタールの土地を保有。簿価ベースで約9兆1040憶円の士地を抱えているという。
「塩漬け用地」は土地の値上がりを見越し先行取得したものの、使い道が決まらないまま放置されている土地。財政難の自治体にとっで金利負担や過剰な支出が問題になっている。
97年度から市民オンブズマンが情報公開に取り組んでいる川崎市では、市が「塩漬け用地」対策を提示。情報公開を機に全国の自治体にも早期処理の動きが広がる可能性がある。
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この記事で見る限りではのことだが、この「全国市民オンブズマン連絡会議」の見解と方針には、不十分なところが、いくつかある。
まずは、根本的な問題で、「自治体の第3セクターが事業予定地としで購入したまま長期間末利用になっている『塩漬け用地』の実態」と、「公開を求める」対象の「士地開発公社が保有する土地の所在地や利用目的、取得価格など」とが、同じ意味なのか。それらの土地が、「事業予定地としで購入した」ものなのか、「土地の値上がりを見越し先行取得したもの」なのか、などである。
私は、少なくとも武蔵野市土地開発公社に関する限り、土地バブルの頂点における膨大な土地取得は、その半分以上をすでに市が買い戻しており、現在の「土地開発公社が保有する土地」の調査だけでは不十分、片手落ちだと主張している。すでに自治体が買い戻しながら「塩漬け」状態の土地も調査すべきである。また事実、武蔵野市の「塩漬け用地」の大部分は「事業予定地」とは言えない。目的を定めることができぬままに「代替用地」「諸用地」などの名目で購入している。しかも、不動産業界では何時暴落するかと危惧されていた時期から、誰の目にも暴落が始まっていた時期に掛けての土地取得を、「土地の値上がりを見越し先行取得したもの」などというのは、いかな土屋市長でさえも口に出せない強弁である。事実は、慌てふためいた銀行救済の「失政」でしかなかったのだ。
以上と、その他の問題点について、上記の全国市民オンブズマン連絡会議に参加し、上記の記事の「川崎市」の実例を調査した旧知の「情報公開法を求める市民運動」事務局長、奥津茂樹に電話で質したところ、「書いた新聞記者の理解ではないか」という返事だった。一応、日経の社会部にも電話をして、すでにわがホームページによる記事作成をしたこともある同紙地方部とも相談の上で、もっと正確な調査報道をするように依頼した。
さて、本連載既報、武蔵野市「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の現代史の幕間に報じた予算本会議での「殿乱心!」の場面でも、市民の党所属の市議会議員、山本ひとみの媛が、これまでよりもさらに、わがホームページ記事の主張に近寄った意見を述べていたのである。
山本ひとみの媛は、「武蔵野市の財政悪化を招いた最大の原因は土地開発公社による無謀な土地買いであったことは明らか」とし、つぎのように追及したのである。
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「[前略]
市長は、バブルがはじけ、地価が暴落することが確実になっていた1990年に125億円、1991年に236億円もの土地を購入しました。1990年3月に不動産融資の総量規制が行われ、その後、地価は、急速に下落し、今や、1990年の3分の1以下となっています。
1990年度には8億円、1991年度には10億8300万円もの利子を銀行に支払っています。
こうした土地買いの結果、武蔵野市の土地開発公社は、190億円もの保有土地を抱え、予算との比較では36%に達しており、区画整理など特別な事業を抱える市を除き、東京都内で最も土地保有率の高い街になっています。[中略]
この背景には、1987年ごろから、銀行やゼネコン業界の意向を受け、自治省がしきりに土地開発公社による公共用地の先行取得を推進していたことがあります。その結果、地方自治体は不要不急の土地を抱え込み、『塩漬け用地』が全国の自治体財政を圧迫することとなりました。土屋市長も、こうした国の要請に従い、しかも、井口道路(本連載既報)に見られるように、疑惑を持たれてもやむ得ないことも数多くあります。
市長は、無謀な土地買いによって市の財政に多大な損害を与えたことを深く反省すべきです。
[後略]」
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以上の質問演説の要所、要所では、私を始めとする市民有志の傍聴者から「そうだ!」「その通り!」などと短く鋭い「播磨屋!」型激励の言葉が掛けられたのは、言うまでもないことであった。実は、私の脳裏の観察記録によると、以上の内の「自治省云々」のくだりでは、いつもは無理にでもニヤニヤしてみせる「殿」こと土屋正忠の彦の顔が青ざめ、引きつったのである。彼は、以上のような主張を、かなり前から私がしているのを十分承知の上で、既報のような「よくする会」桜井国俊の彦らの弱腰を見抜いては、様々なごまかし方を研究してきたのだから、当然、ギョッとならざるを得ないのである。
さらに続いて、我が家の郵便ポストには、一部既報の『民主』(1999.2.20.)号外が入っていた。発行元は「民主党広報委員会/東京都千代田区永田町1-1-1」である。
「財政政策特集号」と題し、「武蔵野発/財政改革!!/借金のない自治体」とある。
[裏面の一部]を、ああ、いやいやながらも、ついに習得してしまったスキャナーというカタカナ語だけに実に嫌な怠け者向きの、ずるがしこい手法により、以下に紹介する。
曰く、
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武蔵野市の借金はどのくらいあるか知っていますか?!
武蔵野市は長年“豊かな武蔵野の街”として知られてきました。しかし、今の武蔵野市はどうでしょうか。市債借入残高はなんと300億円を超えているのです。これは市民1人あたり約24万円、4人家族で約100万円の借金をしていることに値します。これだけで驚いてはいけません。市は今後、武蔵野市土地開発公社が購入した土地を買い取らなければならないのです。公社は銀行から250億円近い長期借入をしており、その利子数億円は市が毎年払うことになっているのです。
土地開発公社とは何?!
土地開発公社とは市に代わって土地の購入を行っている外郭団体で、公社が購入した土地は今後市が買い取らなければなりません。その金額は数百億円と膨大なものですが、土地購人の詳細は市民に知らされておらず、正確には今後市がいくら払わなければならないかわからない仕組みになっています。市民にわかりやすい、もっと透明な市政を実現しましょう。
私たちの税金は有効に使われているの?!
例えば……
農水省食糧倉庫跡地
武蔵野市は昨年約60億円を出して武蔵境駅南口駅前の農水省倉庫跡地を購人しました。財政が危機的状況にあり、しかも、これから更に地価が下がるかもしれないこの時期に、なぜ市は巨額な資金を投入してこの土地を購入しなければならないのでしょうか。国有財産法によると、国有財産は無償貸付や減額売却できる仕組みがあります。市はこの制度を利用しないでこの土地を購人しましたが、この点に関して市民が納得できる説明をするべきです。全く市民の感覚とかけ離れたことが行われでいます。
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こうなってくると、「よくする会」の「武蔵野市内だけに限定する愚民政策」、または「保守票欲しさの」右顧左眄型の土地政策も、両側から挟まれて、少しは全国情勢を取り入れざるを得ないのではなかろうか。はたまた、「土地問題では市長の与党」とまで言われている日本共産党も、少しは考え直さざるを得ないのではなかろうか。それとも、誇り(埃)だけは高い彦および媛の各々方は、あくまでも「這っても黒豆」の意地を張り続ける気なのか、「下手の大連れ」をまとめ切れずに青島都知事の臨海副都心開発型の、ズルズル成り行き任せに堕するのか、はたまた、「沽券」町奴と「前進座」女将との、道成らぬ恋の清算の道行きとなるのか。ああ、空しい、空しい。
なお、わがホームページ情報に関しては、エセ紳士こと朝日新聞とは違って、出典を明記すれば無料使用許可と宣言しているが、「塩漬け用地」を政党が利用する場合に限り出典を明示しなくてもいいと伝えてある。当方も、「ほら、また利用している」などとmailで自慢したりはしない。密かに楽しむことにしている。ただし、「よくする会」に関してのみは、前回に要約説明した「統一テーブル」とやらのイカサマ設定についての反省と謝罪が不十分なので、弁護士でもある事務局長、高木一彦の彦に「著作権違反は許さない」と通告し、「了解しました」というFAX(1998.9.7)を受けとっている。この「著作権違反」の経過は、後に詳しく記す。
以上で(その13)終り。(その14)に続く。