2006.11.27(2019.9.3分離)
http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/584.html
ユダヤ人迫害「水晶の夜」追悼式典ネオナチ乱入に想うシオニスト謀略
以下は、つい最近の朝日新聞の事件報道例である。
http://www.asahi.com/international/update/1111/014.html
独のユダヤ人迫害追悼 会場で暴れたネオナチ18人拘束
2006年11月11日21時44分ドイツ東部フランクフルト・オーダーで9日夜、1938年に起きたナチスによるユダヤ人迫害事件「水晶の夜」を追悼する式典後に、献花やろうそくなどが次々と倒された。警察当局は10日までに地元ネオナチグループの若者たち18人を扇動容疑で拘束した。
DPA通信などによると、拘束されたのは15~24歳で、酒に酔った男もいた。現場はかつてシナゴーグ(ユダヤ教会)があった場所で、式典後に若者が乱入。拘束の際、男らはナチス式のかけ声を口々に発した。
「水晶の夜」は、ユダヤ人の商店のガラスが割られる映像的な記憶として著名である。
ところが、この事件にも、シオニスト謀略の疑いがあった。手元には、以下の題名の英語版の本がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-2.html
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
日本語訳のない外国語の単行本(日本語題名は本書で仮につけたもの)
ベッカート,イングリット『引火点/水晶の夜 1938 /扇動者,犠牲者,受益者』.
Weckert, Ingrid: Flash Point: Kristallnacht 1938, Insitigators, Victims and Beneficiaries. Institute for Historical Review, 1991.
著者のイングリット・ベッカートは、ナチスドイツの宣伝相として著名なゲッペルスの秘書であった。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-62.html
連載:「シオニスト『ガス室』謀略周辺事態
(その62)水晶の夜[Kristallnacht]にユダヤ人移住促進目的のシオニスト謀略の疑い
[中略]
水晶の夜(1938)ナチ・ボグロム説を疑うゲッペルスの秘書
この件を私が知ったのは、『アウシュヴィッツの争点』(1995.6.26)の出版以前だから、もう6年も前のことになる。同書の参考文献リストでは、「日本語訳がない外国語の単行本(日本語題名は本書で仮につけたもの)」の中に、次のように明記したが、誰も、このことでは、私を非難していない。実物を見てもいないのだろう。
『引火点/水晶の夜 1938 /扇動者・犠牲者・受益者』(イングリット・ベッカート、歴史見直し研究所、1991) [Flash Point: Kristallnacht 1938, Insitigators, Victims and Beneficiaries. Ingrid Weckert, Institute for Historical Review, 1991]
イングリット・ベッカートは、第二次世界大戦の最後の2年間、10代の学生の身分のままゲッペルスの日記の刊行のために秘書を務め、事実上、報道の窓口ともなっていた。つまりは、ナチの宣伝相だったゲッペルスの晩年の2年間、ほとんど行動をともにしていたのである。私が持っている彼女の著書は、上記のごとく英語版で、私自身が直接、1994年末に訪れたアメリカのロサンゼルス郊外にある歴史見直し研究所が、1991年に発行したものである。同研究所で私が買い求め、本物の登山用リックサックに詰めて持ち返った膨大な資料の中に、本文が180頁の同書もあった。
[中略]
ベッカートは、編集者の紹介文によると、戦後、高等学校(Gymnasium)を卒業して、スイスでユダヤ教を含む神学を学び、イスラエルに渡ってイスラエルの歴史への認識を深め、図書司となり、その後、歴史研究と著述に転じており、1991年現在は、ミュンヘン在住だった。
“暗殺者”グリンスパンの身元は確認されていたのか
ベッカートは、1945年に20歳として考えると、1991年には66歳、現在は75歳となる。執筆時にはすでに60代で、図書司の経験もした後だから、資料収集は徹底的に行ったようである。
第1章は「グリンスパン事件」(Grynszpan Case)である。
犯罪者の身元確認は、当然の初動捜査の基本だが、一般に流布されている説には、これがまったくない。ベッカートは、グリンスパンが、戦闘的なシオニスト分派と関係し、扇動されていた可能性を追及する。シオニスト分派とはいっても、事情は複雑である。ユダヤ人国家の建国派は、お互いに利用し合うところがあった。この点を、ベッカートは、水晶の夜の「受益者」は誰かという視点で追及する。
ナチは、水晶の夜によって、国際的に孤立を深めたのだから、「受益者」ではあり得ない。結果から判断すると、建国派が望んだイイツ国内のユダヤ人の「追い出し」政策が強化されたのだから、一番の「受益者」は政治的シオニストなのだ。そこから「扇動者」が割り出される。
もう一つの重要な視点は、ナチによるボグロム説の必然性への疑いである。ベッカートは、ユダヤ人の歴史上、ボグロムは、ユダヤ人を贖罪の山羊(scape goat)として血祭りに上げる民衆の反乱だと説く。権力に真っ向から歯向かえない民衆が、弱いユダヤ人をいじめるのだ。だから、絶対的な権力を握り、その気になれば何時でも、ユダヤ人をまとめて追放することもできたナチが、下手をすれば混乱を招き兼ねない下からのボグロムを組織するのは、理屈に合わないと説く。
[中略]
「歴史見直し論の父」ポ-ル・ラッシニエも疑っていた。
[中略]
ガロディ裁判の傍聴にパリを初詣でした際、裁判所のロビーで知り合ったパレスチナ人に案内された書店で、「歴史見直し論の父」と呼ばれる故ポ-ル・ラッシニエの晩年の著作を発見し、即座に購入した。1967年初版とあるから、まさにラッシニエの人生の最後の年の出版である。題名は『第二次世界大戦の責任者たち』(LES RESPONSABLE DE LA SECONDE GUERRE MONDIALE)である。この中に、「水晶の夜」(La nuit de cristal) [p.123-129]の項目があった。
ラッシニエは、戦前、高等学校の歴史の教授だった。彼は、ベッカートを知らない。しかし、グリンスパンの単独犯行説を「私は信じない」と明記している。第一次世界大戦の引き金となった暗殺事件を引き合いに出して、謀略として疑うのが当然とし、「それが政治的暗殺の法則だ」と説く。
以上、資料の紹介と概略説明だけに止めるが、これだけの手掛かりを残せば、必ずや、「ガス室の嘘」よりも、ずっと簡単な謎解き、絵解きとなるだろう。
[後略]
シオニストがユダヤ人をパレスチナに移住させるために、暴力を含む強制手段を取ったことについては、後年の実績が明らかである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-11.html
『偽イスラエル政治神話』
第2章:二〇世紀の諸神話
第1節:シオニストによる反ナチズム運動の神話
[パレスチナ移住を強制してユダヤ人をテロで殺害]
一九四八年五月二日には、“難民”問題を担当するクラウスナー法師が、ユダヤ人アメリカ協議会に、つぎのような報告書を提出した。
《私は、彼らをパレスチナに行くよう強制すべきだと確信する。……彼らにとって、アメリカの1ドルは最上の目標である。“強制力”という言葉で、私は、一つの計画を提案する。……それはすでに役立っている。しかも、つい最近にもである。それはポーランドのユダヤ人の集団移動にも、歴史的な“出エジプト”にも役立ったのだ。……
この計画を実現するためには、“難民”に便宜を図る代わりに、可能な限り不便な思いをさせなければならない。
……つぎの段階の手続きとしては、ユダヤ人をハガナ[ベン=グリオン指揮下のテロ部隊]に呼び出して痛め付け、出て行けがしに扱うことだ》(『イスラエルの値段』)
このような誘導や、さらには強制の方法は、手を変え品を変え、様々に工夫された。
一九四〇年一二年二五日には、“ハガナ”(司令官はベン=グリオン)のシオニスト指導者たちが、ヒトラーの脅迫を受けたユダヤ人を救出してモーリシャス島に運ぶというイギリスの決定に抗議し、イギリス当局に対しての憤激をかき立てるために、その輸送に当たるフランスの貨物船、パトリア号がハイファ港に停泊した際、ためらいもなく爆破し、その結果、乗組員のイギリス人と一緒にユダヤ人二五二人が死んだ(『ジューイッシュ・ニューズレター』58・12)。
イェフーダ・バウアーは、彼の著書、『ユダヤ人は売られたのか?』の中で、このハガナによる“破壊活動”の真相を確認し、被害者の名前を記した。
もう一つの実例を挙げると、たとえばイラクの場合、ユダヤ人の共同体(一九四八年の人口は一一万人)は、この国に根付いていた。イラクの大法師、ケドゥーリ・サッスンは、つぎのように断言する。
《ユダヤ人とアラブ人は、千年にわたって同じ法的権利と特権を享受してきた。お互いに、この国の中での別々の集団だなどと考えたことはなかった》
ところが、一九五〇年になるとバグダッドで、イスラエルのテロリストの暗躍が始まった。イスラエルへの移住手続き書類への署名を面従腹背で逃れようとするイラクのユダヤ人に対して、イスラエルの秘密情報機関は、そういうユダヤ人に自分が危険な立場にいるということを納得させるために、ためらうことなく爆弾を投げ込んだ。……シェム・トヴのシナゴグへの攻撃の際には、三名の死者と一二名の負傷者が出た。これが、“アリ・ババ作戦”という別名が付けられた集団移住の始まりだった(『ハオラム・ハゼー』66・4・20&6・1、『イディオット・アハロノート』77・11・8)。
[後略]