2009年10月29日(木) 晴れ
なんだかなあ・・・
10月が終わりに近づいています。今月はあっという間に過ぎたのに、月初めにお母様を救急車で入院させたのが遥かな昔のことのような気もします。
3日には一緒に近所を散歩しました。辛そうでしたが。晩ご飯は里芋の揚げたのをちゃんと自分で食べていました。その夜は珍しく熟睡して、翌朝8時になっても寝ていました。
雨戸を開けたら起きて来て、普通に見えました。でも、ご飯が食べられませんでした。おかゆなのに「固くて食べられない」と何度も言って。
病院にいくために入れ歯を外して口をすすいで貰ったら、食べたものが全部口に溜まっていました。
結局、前日の里芋がこの世の最後の食事になりました。
入院中、初めは「ご飯まだですか」と催促して(でも口からは水さえ摂取禁止)いたのに、結局、点滴と経鼻栄養だけで・・・
(いかん、涙腺が緩んでくる)
週末にまた実家に行きます。人間が一人亡くなると、残された者にはいろいろとすることがあります。そういう用事で忙しいことはいいことです。余計な感傷をつつきまわさずにすみます。
秘書は離れて暮らしていたせいで、亡くなった顔もみているのに葬式もしたのに、亡くなったという実感がちょい薄いです。実家の玄関を開けると、お母様がぶつぶつ言いながらいそうな気がして。
お母様のぶつぶつは本当にうるさくてうざかったけれど、こんな結末になるとわかっていたら子守唄のように聴いたかもしれません。
凡人たる秘書は、お母様の言葉通りに今更ながら親不孝を悔いています。それなのに、「よくみてあげたから、悔いはないでしょう」と慰められて・・・
「死んでから、あんなことをするんじゃなかった、かわいそうなことをしたと思うようになるぞ」
と、お母様は切れ上がった秘書に言ったのです。今更ながらに、言霊の効き目ばっちりこ。
お線香をあげに来て下さった方が言いました。みんな後悔している。親にやさしく出来なかった分は他人にやさしく返せばいい、と。
と、いうので、とりあえず身近な年寄りに優しくいたしませう。某社の某編集長・・・と思ったのですが、このオヤジ、恩を仇で返すのかね、という御仁。
下手にでればたちまち社内をゴミだらけにしおって、きちんと暮らそうという意識はないのかね。万年ジャージはしかたないとしても、着替えろよっ、汚れっぱなしだよ。
と秘書が切れ上がったもので、オヤジ様、着替えを買いに行きました。小汚いジャージの上下を来てユニクロへ・・・。行ったことは誉めてあげましょう。が、もちっとマシな服に着替えて行かなかったんかね。その姿ではどう見てもお家の無い人みたい・・・。おまけに買って来たのはMサイズのパーカー。近頃急速に膨らんで来たその腹回りでMはないでしょうに。信楽焼の狸につんつるてんの上着を着せたみたいだよぉ。
2009年10月22日(木) 晴れ
ご無沙汰しておりました。少々忙しかったもので、いろいろとほったらかしで・・・
過日の連休は実家に帰り、ほとんどお母様の病室で過ごしておりました。おかげで痩せました。休日中ゆえ病院内の食堂はあいておらず、売店でもお弁当おにぎりは売り切れ、菓子パンをかじって自動販売機のコーヒーを飲んでおりました。
病院への行き帰りはタクシーだと1500円もかかるので、自転車でえっちらおっちら。12日の夕方は、病院から幹線駅までタクシーだと2200円もかかるのでバスに乗りました。2時間に1本くらいの最終は5時台。そんな金をケチらずに最終電車の時間までいれば良かったのに・・・
連休中、お母様はうるさいくらいしゃべりました。家へ帰る、水が飲みたい、甘いものが欲しい、買い物に行かなくては、おかずを煮なくては・・・と。
その時のお医者様の説明では、肺炎が進行しているとのことでしたが、秘書の目には回復しているように見えました。
そして翌日。
13日に病院に行ったきょうだいから「ぜんぜん目を覚まさない」と電話がきたので、お医者様の意見を聞いてもらったら「肺炎は回復してきています。急変する可能性はあるけれど、大丈夫」という返事をもらいました。
一安心。
12日の夕方お母様は眠る前に「死んじまう、死んじまう」と言っていました。「大丈夫だよ、まだ死なないよ」と秘書は本気で言っていました。
「良くなったら家に帰れるよ。」
それなのに、お母様はお父様のいる所を目指して旅立ってしまいました。
「大丈夫」という返事をもらった5分後に呼吸が止まったとの連絡が来たのです。10月13日午後2時8分でした。
そんなことになるとわかっていたなら12日の夜に東京に戻りませんでしたが、未来を見通す超能力などあるはずもなし、後から何を言っても追いつきません。
即、後悔の大波が押し寄せてどっかーんと沈没。
あ~あ~、人生はままなりませぬ。
斎場の都合で葬儀が1日遅れて、おかげで同居人が海の向こうから戻ってくるのが間に合いました。出発地のの悪天候で5時間遅れ、ほぼ24時間かけて田舎にたどり着いたのは深夜1時ころ。
15、16日と通夜、告別式。17日に坊様が来てお経をあげて下さり、また19日に正当初七日(しょうとうしょなのか)をやりまして、秘書はその夜東京に戻りました。
お母様のいなくなった実家は実に静かでした。生前「うるさい」と思ったお母様のぐちぐちぶつぶつが懐かしいです。
お母様、ちゃんと三途の川を渡ってお父様のところへ行って下さいね。心配しなくてもお父様が途中まで迎えに来てくれますよ。
ところで17日の夜、お骨を置いた祭壇の前で寝ている秘書の布団をぐいぐいひっぱったのはお母様ですか。いわゆる「金縛り」だとは思うのですけれど、「困ったな」と思いました。ひっぱられて一緒に行っちまうわけにはいかないです。
13日にも、亡くなった時間頃にスカイプで話をしていた秘書と同居人のところへ来ましたか。
秘書のところへは小さな蜘蛛になってキーボードをちょろちょろしてから何かを頼むように手をすりあわせてましたか。
海の向こうの同居人のところへはハエになって部屋に飛び込んでいきましたか。
ほぼ同時だったので「これお母様ではないかね」と冗談に言ってたら、呼吸が止まったとの知らせが来ました。
お母様、さようなら・・・
2009年10月8日(木) 台風通過してぴか晴れ
台風が通り過ぎました。東京あたりはそれほど被害は無かったようですが、特急電車が運休になったり、テレビは台風情報ばっかりになったりで、気分的には台風一過です。
秘書はなんだか低気圧につられて低血圧になった気分で本日は(も)やる気ゼロです。こういう時に内職のお呼びがかかると非常につらいものがありますが、本日も暇だこれでいいのかいくないぞ・・・
さて、秘書のお母様は日曜日に入院した直後から、痰がひどくて喉がごぼごぼいっていました。それでも腹が減ったから甘いものが欲しいとか何度も言って、看護士さんから「喉に詰まるからだめ」と何度も言われていました。
ほぼ30分ごとの吸引は、相当苦痛らしく、痛い痛いと喚いてしまいには「二度とこんなところにくるもんか」と悪態をついていましたが、これをしないことには窒息の危険があります。
しかし、入院・点滴で急速に体力が回復したみたいで体は元気になり、きょうだいの話によると「家に帰る」と暴れるのだそうです。現在の状態で帰られると非常に困ります。なだめすかして眠らせるのが一苦労だそうです。
そして、容態報告の電話がありました。
「誤嚥性肺炎」を起こしているそうです。痰がひどかったのもそのせいであろうと。まだ深刻な事態ではなさそうですが、あ~あ~・・・
つくづく今回入院させて貰ってよかったと思いました。
当初「脳梗塞?」と思ったのはどうも外れていたようですが、あのまま家で様子を見ていたら手遅れになっていたかもしれません。
認知症も再検査することになっていたのですが、今回は誤嚥性肺炎の治療が優先です。認知症に関して「正常圧水頭症」の可能性がなくもないとのことで、もし「正常圧水頭症」であれば手術で認知症症状がなおる可能性があります。
検査したら「やっぱりアルツハイマーでした」、ということになるかもしれませんが、その日までは希望を持ちませう。
つかの間の希望でも、光がさすことはいいことだ・・・
2009年10月5日(月) 曇り
週末は実家に帰りました。いつもの通り・・・じゃなくて、いつもより早めの電車に乗り、田舎の駅前の薬局で紙おむつを買って両手にぶら下げてタクシーに乗って・・・
前回の帰省から2週間ですが、たった2週間でお母様の認知症が一段と進行しました。金曜日までデイサービスには通っていたので、やや安心していたのですが実は1週間前から奇怪な振る舞いが多くなりまして、土曜日にはトイレが遠くなり辿り着けなくなって・・・実家で同居している秘書のきょうだいが悩んでおりました。
そしてとうとう日曜日、お母様はご飯が食べられなくなりました。口におかゆのさじを持っていっても飲み込めない。いわゆる嚥下障害です。が、口だけは達者。「こんな硬い米は食えない」と文句をつけます。煮直すこと3回。しかし口が達者でも喉が受け付けない。おまけに体が傾いてまともに座れない・・・
変だ。
変です。大変です。もしかして脳梗塞を起こしてる?
と、かかりつけ病院に電話をしましたら、満床ゆえ受け付けられない、救急車をお呼びなさいということになりまして(少々略)田舎ゆえ近所総出で見送られて救急車で病院へ。
これで救急車へ乗るのは5回目だあ(某アホタレ編集長の場合も含めて)とか感慨にふけっている場合ではありません。着いたのはどこだかまるっきり見当がつかない病院でした。(あとから調べたら実家のわりと近く)。
とりあえずの検査の結果は、小さい脳梗塞は確かに起きているが、今回の症状との関連はもっと検査してみないと・・・ということでした。そのまま検査入院となりましたが、認知症高齢者の場合は短期間でも症状が進んでしまうと思って下さいとのことです。他に選択肢はありましぇん。
気がかりなのは「家に帰る」とだだをこねるのではないか。以前の腰椎圧迫骨折のときは、夜中に騒いで徘徊して「責任が持てない」と一晩で帰された実績がありますもので。
朝の9時の病院連絡から始まって、入院スタイルになって、腹が減っただの(しかし嚥下障害で食べられない)、飴が欲しいだの(喉に詰まる恐れあり禁止)、家に帰るだの言い続けるお母様をなだめすかしてお眠になるのを見届けたのが夜の8時頃、それから電車に乗って東京に戻ってきまして、はあ、ハードな1日でした。また白髪が増えそ。
一晩あけた本日、付き添うきょうだいから「これからまた検査」の連絡が入りましたので、昨夜の脱走は免れたようです。秘書は、親族への連絡係になって、あちこちへ電話をしています。
「命に別状はないのだけれど・・・」と。
別状ないですよね・・・
2009年10月1日(木) 晴れ
内職で愛用しておりますXPサブマシン(もとME)が突然メインマシンの共有フォルダにアクセスできなくなりました。いつも、メインとサブを行き来しては作業しているのです。本日はサブマシンでスキャンした画像をメインマシンの写真屋さん(Photoshop)で加工するのです。
さあ困った。
サブマシンのマイネットワークに表示されるメインマシンの共有フォルダが「未使用」になっちゃってます。無理矢理そのアイコンにファイルを突っ込むと突っ込めるのですが、メインマシン側には何もコピーされていない。そのアイコンを無理矢理開くと、メインマシン側が共有フォルダに入れている多量のファイル類がサブマシン側に表示されない。
う~ん、つまりサブマシンに表示される「未使用」のメインマシンの共有フォルダは偽物です。
さあどうする。
ネットワーク設定をいじりましたけど、じぇ~んじぇん変化無し。かくなる上は、と殿下の放蕩、じゃなかった伝家の宝刀をとりだします。すなわち「システムの復元」。
ええと、先週末は無事だったのだから、と日にち指定して実行。うまくいきますように・・・と柏手を売ったのに、違う、打ったのに「できません」ですと。ええい役立たずめがっ。
とパソコン相手に切れていても仕方ない。落ち着け落ち着け・・・ そう言えばデスクトップの共有フォルダのアイコンが消え失せていましたな。
もしかすると、とゴミ箱をごそごそかき回しましたが、捨てられアイコンはありませんでした。となると・・・こいつが怪しい。
Super XP Utilities 7です。XPパソコンが速くなるっていうあれ。全自動クリーナーを実行しました。無効レジストリも削除してくれるありがたいソフトですが、初期設定のまま使うと「不要なショートカット」も削除してくれます。
バージョン7には「クリーナーゴミ箱(削除の復元)」がついています。どれ、と今度はこのゴミ箱をごそごそします。う~ん、直前に4個「不要なショートカット」が削除されています。削除ファイルの詳細を見るとファイルパスにSharedocsの文字があります。怪しい。
という訳で、削除取り消しを実行。おおおっ、ちゃんとデスクトップにアイコンが復活しました。クリックすると、お夏貸家、違うよっ、お懐かしや共有フォルダの中身がちゃんと存在します・・・
教訓:便利なソフトには落し穴あり。
(はまったら落ち着いて脱出方法を考えませう)
その後「不要なショートカット」削除のチェックをはずしましたけど、これってもしかすると、メインマシンの電源を落とした状態で(すなわち共有フォルダが機能してない状態で)クリーナーをかけたのがいけなかったのかも。それまでに何度かメインマシンの電源が入っているときにクリーナーかけても影響なかったことだし、「不要なショートカット」はないほうがいいんだし、メインマシンを起動させた状態で、もういっぺん試してみませうか。地雷踏むかな・・・